atusi について

三重県四日市市で小さな木工所を営んでいます。

辺野古へ行ってきました その1

9月30日(水)から、昨日4日(日)まで、沖縄に行っておりました。辺野古(へのこ)の海を見て、そこでの新基地建設に反対する座り込み闘争に、短期間ですが参加してきました。戻ってきた今の感想は、自分にとっても有意義で、たいへん楽しかった。もちろん、本来の目的として工事用ゲート前に座り込むことで、抗議と反対の意志を示せました。その事で機動隊に排除されるまでの何分何十秒だけでも、工事車両の進入を遅らせる事が出来たと、今はそれで納得しています。義務感とか使命感とか言った大仰なものでなくまた行きたいと思うし、きっと行くでしょう。なにか切迫した事態となって、人とその数が必要となれば、少々の事は放り出して行きます。

昼前のキャンプ前での抗議デモ

昼前のキャンプ前での抗議デモ

こうした感想は、不謹慎に過ぎると言われるかもしれません。あとで触れたいと思いますが、この運動は誰でも、いつでも、どんな形での参加も歓迎されます。その懐の深さと、実際の参加している人たちの多様さから、また行きたい、楽しいと思わせてくれるのだと思います。まずは、辺野古に行ってみたいが、どうしたらよいのか、どう行ったら良いのか分からない、迷っているという人のために行き方を紹介します。不明な点があれば、分かる範囲でお応えします。私たち自身が、何もわからないまま、まずは行ってみるかと出かけました。

こちらにメールを下さい → roktal@d6.dion.ne.jp


県外から辺野古への行き方

那覇空港から辺野古のテント村への行き方は、この記事を書いている段階でおもに3通りあります。

沖縄バス

テント村へは、「辺野古」バス停下車で10分ほどです。バス停を降りると進行方向・右手にキャンプ・シュワブが見えます。そのまま北(進行方向)に歩くと、県道329号線の右手にキャンプシュワブのゲートがあり、それに向かい合ってテント村があります。

キャンプシュワブ・ゲート前のテント

キャンプシュワブ・ゲート前のテント。10月4日で、455日!

島ぐるみ会議 辺野古バス

  • 那覇空港→モノレール(県庁前下車)→県民広場→辺野古テント村直行
  • 参加費 1,000円
  • 9時半集合 10時出発 17時半解散
  • 問い合わせ 島ぐるみ会議事務局 080-6482-4963

くわしくは、こちらの島ぐるみ会議のfacebookページに案内とチラシがあります。

初めてで、とりあえず一度行ってみたい人はこのバスを利用するのが良いと思います。ゲート前のテント村に直接行くことが出来ます。海のテントに行って辺野古の海も見ることができます。

レンタカー

キャンプシュワブ前での主な行動は、辺野古の埋め立てやその前のボーリング調査のための工事用資材や作業員の搬入を阻止することにあります。そのため工事用の ゲート前に座り込みます。それが連日朝の7時前後になります。そのため6時に集まって打ち合わせが行われます。これに間に合おうと思えば、事前に宿を取っ てレンタカーで乗り付ける事になります。数少ない近くの宿は長期滞在されている人で一杯のようですから、宿は名護の西側も含めたビジネスホテルなどが現実的です。名護市内であれば車で30分あれば充分です。車は、329号線沿いのキャンプ南側の変電所の近辺の歩道側の空き地に皆さん停めています。

早朝、工事用ゲート前の座り込みを排除する機動隊

早朝、工事用ゲート前の座り込みを排除する機動隊

沖縄のレンタカーは、 他県では考えられないくらい安い!私たちも、9月30日から10月4日まで、5日間借りて13,000円ポッキリでした。複数人で複数日滞在する、または 観光を含めて他にも行くつもりならレンタカーが良いと思います。空港周辺で予約しておきましょう。レンタカー屋専用の送迎バス乗り場もあります。あとで別に書きたいと思いますが、名護の屋我地島という所に国立療養所愛楽園があり、その中に交流会館がありました。今年の6月に出来たばかりのようですが、沖縄のハンセン病の歴史とその中での患者の差別され虐げられてきた歴史に触れることが出来ます。今は橋でつながっていますが、かつては隔離された離島だったのでしょう。何も知らなかった事、知ろうとしなかった事に対して、粛然とした思いにさせられます。辺野古に行ったら、ここへも是非行くべきだと思います。

続けます。

頑張れない

雑種高齢犬・タローの散歩は、伊勢湾に向かってほぼ真っすぐ東に向かう川の堤防沿いが主なコースになります。往路はその堤防沿いを海に向かって、したがって東に向いて歩きます。今頃の朝の5時というとまだ暗く東の空には金星が輝いています。昔、通った中学校の辺りに架かる橋のたもとで折り返し、今度は西に向かって歩くと満月が迎えてくれます。皆さんが夜半に東の空に愛でる金色に輝く月ではなく、この明け方の月は白く控えめに、でも白みかけた空を、さらに西から明るく照らしてくれています。夜ふかしせず、早起きな人間や生き物たちを金星や明けの月が別の顔で迎えてくれます。

プリンターのおまけのスキャナーで取り込んでいます。もとの写真の雰囲気が伝わっていないのが残念です。

プリンターのおまけのスキャナーで取り込んでいます。もとの写真の雰囲気が伝わっていないのが残念です。

画像は、酷暑と言われた8月の初めに東京から来て仕事を手伝ってくれたユーガー君の撮影したものです。すっかり懐いたタローの散歩までお願いしていました。ハッセルブラッドの大判(6×6)2眼レフで撮ったもののようですが、明け方のまだ暗い中で、よく鈍重な大判カメラで犬を写したものだと感心します。


色々な事情と仕事の都合から、盆明けから世間で言うシルバーウィークの終わりまで、ほとんど休みなく働いておりました。やはり色々体にガタが出ています。もう無理がきかない体になっているのは分かっていますので、残業などはしないようにしています。それで8時から5時というルーティーンを守っていても、週に一度は休日を取らねば一ヶ月はもたない。無理がきかないというより、頑張れない体になっているのだと得心しました。

さて、遅ればせながら夏休み兼シルバーウィークとやらの代替を取って、明日から暫く沖縄に行ってきます。辺野古の海を見てきます。

会津・さざえ堂 その2 タトリン・「第3インターナショナル記念塔」を先取りしている?

会津さざえ堂のことを教えてもらって、ウエブなどでその画像を見て、たちまちこれはタトリンだと思いました。

ウラジミール・タトリンの第3インターナショナル記念塔というのは、建築やデザインの歴史を勉強した人ならご存知でしょう。その来歴は、今ならウエブを検索すれば、いくらでも出てきますのでここでは割愛します。私はこれが大好きです。一般に、建築のデザインと称するものを私は、ずっと毛嫌いしてきました。建築論と称する自己陶酔的おしゃべりが嫌いだったのか、あるいは、バブルの頃のポストモダン建築、あるいはその亜流の醜怪で無国籍な建物を見せられてきたせいか、まあそれは今はどうでもよろしい。

そんな保守的で、頭の硬い私も、このロシア・アバンギャルドを代表するそれこそアバンギャルドなモデルにずっと惹かれてきました。それがどういうものか、以下手持ちの書籍から図を含めて引用します。

八束はじめ 『ロシア・アヴァンギャルド建築』 P18-19 より

八束はじめ 『ロシア・アヴァンギャルド建築』 P18-19 より

1919年、教育人民委員部造形美術局から芸術家V・E・タトリンに第3インターナショナル記念塔の構想をまとめるように依頼があった。芸術家タトリンは躊躇なく仕事に着手し、構想を練り上げた。(中略)

記念塔の根本的な企図とは建築、彫刻、絵画の各原理の有機的統合に立脚し、純粋な創造形式と実用的形式をそれ自体で結びつけた、新しいタイプの記念碑的建造物となるというものであった。この企図に則って、記念塔案では、垂直軸と螺旋の複雑なシステムに基づいて構築された3つの巨大なガラス張りのブロックがある。これらのブロックは交互に積み重ねられ、調和の取れた関係にある相異なる形態に包摂されている。またそれらは独自のメカニズムによって、それぞれ速度の異なる動きをすることになる。

下のブロック(A)は立方体の形をとり、その軸の周りを年に1回の速さで回転する。立法関係のために用意されたこのブロックは、そこでインターナショナルの大会、国際会議、他の立法に関係する大きな会合を催すことが可能である。次のブロック(B)はピラミッド形で、その軸の周りを月に1回の速さでまるまる1回転し、行政関係(インターナショナル執行部、書記局などの行政ー管理期間)が予定されている。最後に、上の円筒部(C)は日に1回の速さで回転し、情報関係のセンターを目指している。

1920年7月 ニコライ・ブーニン 「第3インターナショナル記念塔」 五十殿利治訳 『ロシア・アヴァンギャルド4 構成主義の展開』より

大きさは別の論述によればイサーク寺院の2倍の高さを持つ(ヴィクトル・シクロフスキイ 『芸術生活』1921年1月 五十殿・前掲書より)とあるから、200メートルを超えるものと想定されていた。今でも、そのあまりの荒唐無稽さにブーニンの論文を読んでも、その構想がにわかには理解しにくい。ようするに傾斜して建てられた鉄柱の周りをさらに螺旋状に鉄が巻きつけられる。その内部にガラス張りの、立方体、ピラミッド形、円筒形の3つの独自の周期で回転する構造体が入る。これらは、どのように支えられる(あるいは吊り下げられる)かは、定められていない。各ブロックもブロックごとに異なる速度に同調した複雑な構造の電動エレベーターだけで、地上とそして相互に結ばれている。(ブーニン)とあるが、これは今ならそうむずかしい事でもないように思う。

第3インターナショナル記念塔の内部の3つのガラス張りの構造体

第3インターナショナル記念塔の内部の3つのガラス張りの構造体

この鉄とガラスと革命から作られた記念塔の構想は、19世紀末からのヨーロッパやロシアで起こったダダイズムなどの芸術革新運動の中でも、空前絶後なものだったようで、政治の革命とともに芸術の分野でもロシア・アヴァンギャルドがその尖りきった最先端にあることを示したようだ。

会津・さざえ堂(旧正宗寺しょうそうじ円通三匝堂えんつうさんそうどう ) その1

先月末、三泊四日で会津地方に行ってきました。メインは、阿部藏之さんの主宰する木の大学講座第12期に参加するためでしたが、一泊追加して会津さざえ堂に寄ってきました。ここは、会津地方に行くと話したおりに、それならば是非ここを訪れるべしと、私の大事な友人に薦めてもらっていました。

会津さざえ堂(側面)

会津さざえ堂(側面)

らせん状の回廊の外観

らせん状の回廊の外観

さざえ堂というのは、1970年代に詳細な調査をされた日大理工学部の小林文次教授によれば以下の通りである。小林教授たちによるここの計測調査の図面が受付で販売されており、それに付属するコピーによります。

もともとさざえ堂(三匝堂)は、観音札所順礼という民間信仰に基いて案出されたもので、江戸本所の羅漢寺に案永9年(1780)に造立されたのが最初であった。このさざえ堂は方形プランで重層、内部は三階で各層を秩父、本国、両国の各札所にあてて、計100体の観音像をいれた順礼観音堂であった。惜しくもこのさざえ堂は明治初年に取り壊されたが、この建築様式の系統をひくさざえ堂の例は、曹源寺(群馬県太田市)、長禅寺(茨城県取手市)、成身院(埼玉県児玉市)などに現存している。これらに対し、本堂は六角塔の形式をとり、中に二重のらせん状の斜路を組み合わせ、それに沿うて西国三三観音像を安置したもので、建築計画の上からみて誠に卓抜したものというべきある。この構成は、新編会津風土記のいう漸々にのぼり・・・・・・漸々に降りてに当り、遺構の上からも創立以来の計画とみて間違いない。これはさざえ堂としても、またわが国の仏道建築としても稀な構想で、機能にかなった、合理的な設計である。材料や技術の上で難はあるものの、江戸時代における建築計画上、極めて価値ある例と思われる。

小林文次『羅漢寺三匝堂考』日本建築学会論文報告集 第130号、昭和41年12月

堂内のスロープ 登り

堂内のスロープ 登り

堂内のスロープ 下り

堂内のスロープ その2

さて、実際に正面から右回りに緩やかならせんの回廊を登っていく。頂上付近で登りつめたと思うと継ぎ目なく今度は下りの勾配となって、裏側の出口に繋がっている。その回廊と心柱の間に板をひいたスペースが、そこかしこにあり、そこに祠が設けられて観音像が祀られていたのだろうか。小林教授の別の記事(『朝日新聞』1972年11月20日夕刊)には、両方のスロープにそって、中心部にもとは三十三の西国札所の観音像が配され、上り下りの一巡によって、西国観音札所の順礼を終えるという、いわば庶民のための即席の順礼観音堂であった。スロープを用いたのは、参拝しながら上り下りする時の、足もとの不安を除くためであり、二つのらせん状のスロープを組み合わせて、堂内の参拝路を一方通行にしたのは、堂内の参拝者の流れをスムーズにさばくためであった。ともあります。

たしかに、そうした実用上の必要性とかがあっての構造なのでしょう。しかし、実際に登ってみて、もうそこには観音様は祀られていないにも関わらす、なにか異次元の空間というか別の世界に入ったような感覚となりました。そのことが、そもそも信仰により参拝した当時の人たちに、他にない神々しさとか宗教的感興を喚起させたであろうと思います。

拭漆2 錆着け

木地固めが終わると、導管の大きな環孔材の場合は、それを埋めるために錆着けをします。錆(漆錆)というのは、固く練った砥粉にそれとほぼ同量の生漆を混ぜて、またよく練って作ります。それを、画像のようにヘラをつかって導管に摺りこむようにして着けていきます。小さなものになら、ボロを丸めたタンポで擦り込めばよいでしょうが、ある程度の大きさのあるものは、ヘラを使ったほうが良いと思います。その理由は下に書きます。

2寸のヘラを使っての錆着け

2寸のヘラを使っての錆着け

漆というのは、乾燥(硬化)の難しい素材で、それがかぶれの問題と並んで使用をためらわせる理由になっています。しかし、この漆錆の場合は、練った砥粉の水分と反応するためか、刷り込んでいる最中から、どんどん粘度が上がってきます。タンポでゆっくり刷り込んでいると、はじめに施した部分が硬化していきます。材の表面に不必要に残った部分や、むらになった部分をあらためて拭き取ろうとすると、かなり力を入れないときれいになりません。それに摺り込むタンポがはやく固まってしまい、その都度交換する事になり漆をその分無駄にしてしまいます。

ですから、材に合った比較的大きなヘラを使って、さっと摺り込むと作業としては楽で、合理的です。一度、ある塗師の人の錆付け作業を見学させてもらった事があるのですが、素早く力強く、グイグイ摺りこむ感じで、それでムラなくはみ出しもごくわずかで、それもさっと修正しながら仕上げてしまいます。錆付けは、本堅地を含め塗りの下地作りの基本作業になるので、これくらいの速度と効率でやれて当たり前という事なんでしょう。そういう塗師の人のマネはとても出来ないにしても、この作業はヘラを使うべきだと思います。

錆着け1回目の終わったクリ板。

錆着け1回目の終わったクリ板。

完全に導管を埋めるには、この状態で出来れば2〜3日置いて錆の痩せを見て、さらに錆を重ねます。2回行うとかなり良い感じで埋まります。塗装の強度や汚れの付着しにくさとかを考えると2回くらいはやった方が良いかもしれませんが、導管の凹みをある程度残した方が木目が映えて良いという選択もあります。このあたりは、使う材や用途、それに使う人の感覚によってそれぞれだと思います。

命の海と平和を守る! 相馬由里さん(辺野古「平和丸」船長)の報告会

一昨日・13日、辺野古「平和丸」船長の相馬由里さんの講演に行ってきました。相馬さん、その冒頭で今日から辺野古を離れてしばらく息抜きが出来るとか言って、いたずらっぽく笑っていました。でも、講演の最後に今日もカヌーで海に出た仲間の女性の抗議の叫びを、揚げられたSNSの音声で流しながら声を震わせていました。

支援要請のタオルを掲げる相馬さん

支援要請のタオルを掲げる相馬さん

相馬さんは、介護福祉士として働きながら好きなダイビングで沖縄に通っていたそうです。どうせならと、まず西表島に移住して、それから16年。その間にお金がなくなって員弁のデンソーに季節工として2年半いたこともあったとか。辺野古の米軍新基地(移転ではない、新しい基地なんだ!)に反対するのは、何より好きなきれいな海を守りたいから。それに、仕事で沖縄戦で受けた傷を持った人の介護をしたから、また苛烈な戦争体験の一端を聞いて、戦争はダメだと思ったからと言う。

働きながら、反対運動に忙殺されながら船舶免許を取った。それに昨年はケアマネージャーの資格を取ったそうです。ケアマネは受験資格が厳しい上に問題もむずかしく合格率3割程度と言われています。居丈高なところの全くないむしろ穏やかで謙虚な人ですが、一方でものすごく頑張る人だという事が分かります。そんな真面目でよく働く心優しい人が、仕事を通して、趣味や生活を通して、基地の問題に向き合わざるを得なかった。そして今、仕事を辞めて専従として活動している。仕事を辞める決断がついたのは、施設の利用者の人に相談したら、私が今、体が動けばすぐにでも辺野古へ行くと逆に言われたからだとおっしゃっていました。


さて、会場の聴衆を眺めて、相馬さん曰く。
今日は高齢の方が多いですね。もし、お子さんやお孫さんが、この夏にでも沖縄に行くことがあれば、そこに米軍の新しい基地が作られようとしていると、教えて上げて下さい。もしご自身が沖縄へ行かれたら、なぜ隣に米軍の車が当たり前に走っているのか、そのAナンバーとかYナンバー、なぜイオンでドルが使えるのか、なんでもいいから米軍の存在と、それが当たり前になっている沖縄の現実というものを感じて下さい。

何かを要求するのでもなく、もちろん上から目線で物を語るのではなく、機会があれば自分で感じて欲しい。そうした素直な目は持って欲しいという訴えです。心に染みます。


戦争になぜ反対しなかったそう(さか)しげに我ら言ったはず

先週の朝日歌壇に佐佐木幸綱選で載った春原さんという人の歌です。馬場あき子さんや高野公彦さんの選ではありません。安倍晋三とその茶坊主たちや、名前を出すのもおぞましい大臣病の宗教政党指導者たちのゴリ押しする戦争法案や憲法改悪への危うさを心ある人は感じている。ここへ来てまた橋下徹が出てきた。安倍と3時間の会談だそうだ。

6月15日というのは、今から55年前、日米安保条約の改定に反対するデモで、国会南門で樺美智子さんが亡くなった日です。私たちが学生の頃は、まだその事が語り継がれていました。そして、ショボイながらデモをしました。それを、私たちは語り継ぐことが出来なかった、しなかった。今の若い人の大半は樺さんの名前も知らないでしょう。

まずは、なんでも現地に行くことだと思いました。それと、津のJFEで辺野古基地のケーソンが作られようとしている。それに反対するビラまきなどもこの日の主催者が工場前で行っている。これは行かねば、行きたいと思います。

拭漆1 柿渋下地

クリの薄板(6ミリ厚)、420✕360ミリが16枚。框で組む棚の側板になる。仕上げは拭漆とするが、その下地として柿渋を塗る。木地固めというより吸い込み止めになる。この16枚の板の裏表で表面積は4.8平米(平方メートル)となる。三六合板3枚分だ。これを、クリのように中程度の密度の散孔材に、テレピン油で2倍ほどに希釈した生漆を塗布するとしても500gでは足りないだろう。漆を充分に染み込ませて木地を固めるのが、本来のやり方かもしれないが、いかにももったいない。経済的にという意味ももちろんあるが、貴重な漆の使い方としてもどうかと最近は考えている。この点については、あとで触れたい。

クリの薄板に柿渋を塗布する。

クリの薄板に柿渋を塗布する。

それに、渋自体も、完全に硬化すると撥水性、防腐性を伴った強固な塗膜を作る。その意味では、同じ自然塗料として漆にも負けていないと思う。他に、漆の下地として膠と砥粉を使った半田地、ウレタンなどの化学塗料を使ったものがあるようだ。仏壇などは、後者が今は主流になっているらしい。私も一度だけ、ウレタンのサンディング・シーラーで下地を作って拭漆をしたことがあったが、塗膜が強すぎて漆が染み込まず、拭漆の良さがなくなってしまうと思った。塗りの下地としては良いのかもしれない。

朝日俳壇から

暫く更新をサボりました。さすがに仕事がたまってきて、季節の変わり目に弱った体力がもちません。パソコンの前にちゃんと座る前に、床についてしまう日が続きました。こうした折は、気軽な題材を上げて再開するのが良いか。


あの世では親を解かれよ紋白蝶

昨日の『朝日俳壇』に金子兜太選で掲載された澤田さんという人の句です。

おそらくは歌舞伎・人形浄瑠璃の演目『蝶の道行』を念頭に置いたものと思われます。私は、もうずいぶんと前になりますが、これを人形浄瑠璃で見ました(音楽・ディスク・オーディオ日記・『蝶の道行』)。いがみ合う親同士とその主家の因縁によって心中の道を選ぶ若い男女が、最期に死装束のような白い蝶の衣装となって舞い、倒れます。

まあ、そんな今で言う毒親の因縁云々ではなくても、親を看取ってある時間が過ぎると親を解かれよという言葉に反応してしまう人はいるのでしょう。もってまわった言い方をしました。句の作者の意図したものとは違うかもしれませんが、私は反応してしまいました。この秋で、丁度父親の7回忌、母親の3回忌となります。もう2枚の写真と実用品だけ残してあとの遺品は全部処分することにします。それに特に意思表示をしたわけでもなく、私も親の宗派の門徒会に入れられてしまっています。もうそれも、これを区切りで解かれても良いかと思っています。