atusi について

三重県四日市市で小さな木工所を営んでいます。

無事です、台風11号。

色々ご心配頂きありがとうございます。こちらは大丈夫です。

相変わらず三重県下には大雨特別警報が出ていますし、四日市市内全域の避難指示も解除されていません。でも、裏の海蔵川の水は随分引いて、今朝もいつものようにタローを連れて河川敷を散歩してきました。ただ風は強くなってきました。避難指示の出た昨日の午後6時前くらいが一番水位も上がっていたようです。けさは、鮒の子どもが3尾ほど打ち上げられていました。

「山」に樹を見に行く 5 カツラ

私がこの仕事をはじめた20年ほど前は、抽斗などの内側の側板とか先板の材料といえばカツラが定番とされていました。それで、当然のようにその材料としてカツラを求めましたが、もうその頃は良質のカツラは手に入りにくくなっていました。一度ある偶然で古い柾目の良い材を少量手に入れることが出来たのですが、後はいわゆる性の悪い板目の材ばかりでした。反りや歪みも多く、歩留まりは悪い、木づくりなどの加工も手間がかかる、加工後のくるいも生じやすいなど、良い所はありません。

その頃、インドネシアから入ってきていたアガチスという材が良材が多く、4メートルものの柾目の板がバンドル買いなら立米単価で10万円を切る値段で手に入りました。軽くて加工性もよく、通直で素直な木目の材は、ほとんど抽斗の材として理想的と言ってもよく、当時出回っていたカツラに劣る点はなにもないと思いました。もう、その当時でも木材としてのカツラは枯渇してしまっていたのだと思います。

ちなみに、母親の遺品に嫁入り道具として持ってきたと思われる立派な裁ち台があります。カツラの柾目の一枚板で長さ2,100ミリ、幅500ミリ、厚み36ミリあります。ガキの頃、母親がそれを使って浴衣を縫ったり、あるいは半襟を着けたりしていたのを見たような記憶がありますが、その後はずっと実家の屋根裏に放置されていました。そのせいか少しだけプロペラ状にねじれていますが、大きな反りや木口の割れもなく吸付きさんで嵌められた畳摺りの着いた板足もしっかりしています。少なくとも60年ほど前には、こうした良質のカツラが多少は値がはったかもしれませんが実用品の材として使われていたのです。

最近では、そのアガチスも価格も高騰し、材の質も以前よりは随分悪くなってきました。そこで中国産のキリの集成材などを使っていました。廉価ですが、それなりの物という感じでお薦めできるものではありません。15ミリ厚が定番なのですが、もともと細びきというか定尺を割っていた材が、シーズニングをしている間に12ミリ程になっていた事がありました。

今は、工房齋の齋田さんを通して廃業する桐箱屋さんから譲って頂いた枯れ切ったキリの端材(が、良材です)があるので、しばらくはそれで間に合いそうです。

カツラの巨木 GXR A16

カツラの巨木
RICOH GXR A16

さて、先日近江高島に所用があって出向いたのですが、その時間待ちに山に寄って来ました。そこで、久しぶりに見てきたカツラの巨木です。カツラの巨木というのは、比較的たくさん全国に残されているようですが、いずれもこうしたヒコバエというか根本から分枝したような木が多いように思います。逆に言うと、すっとした木は木材として伐り尽くされてしまったということなんでしょうか。

同じカツラ。モデルは身長187センチ。 GXR A16

同じカツラ。モデルは身長187センチ。
RICOH GXR A16

上の写真は、いつものGXRにA16というズームレンズユニットを付けたものです。倒木の上に置いてセルフタイマーで撮ったのですが、ミラーレス・レンズシャッターだからか、いい加減に置いただけですが特にぶれていません。

吉野に行ってきました 4(終)

如意輪寺から近鉄吉野駅

如意輪寺を出ると再びアスファルトの車道になります。そのまま歩いても面白くなさそうです。少し戻って中千本に出ることも考えましたが、この日はイマイチ体調がすぐれないこともあって、とりあえず吉野駅まで行くことにしました。途中クリの木とかマタタビのツルがありました。クリのイガはまだ青いし、マタタビの実はちょうどいい塩梅でしたが、藪にはヤマビルが群れていそうでやめておきました。

それでも、ちょこちょこ脇道にそれると、やはり信仰の山らしくあちらこちらに石碑やお地蔵さんがあります。吉野駅についたのが13時前。宮滝でバスを降りたのが10時10分くらいだったので、普通に歩いて2時間半ほどのコースでしょうか。如意輪寺駐車場から入る道がしばらく岩場になっており少し急峻ですが、あとはなだらかな坂道です。道中登り降りの起伏も少なく、日も入るし尾根に出れば風も通ります。ハイキングにはいいコースだと思います。ただし、この設定されたコースでは行程の半分以上をアスファルトの車道を歩くことになります。それを森林セラピーとまで称するのはどうかなと思ったりします。

途中見かけた小さな祠 GXR A12 28mm

途中見かけた小さな祠
GXR A12 28mm

山道にあった石碑 GXR A12 28mm

山道にあった石碑
GXR A12 28mm

お地蔵さん GXR A12 28mm

お地蔵さん
GXR A12 28mm

私自身は、上市や宮滝界隈でもっと遊んでおけば良かったと悔やんでいます。あと、近くの津風呂湖温泉というのが、なかなかに汚らしいひなびた趣きのあるところのようで面白そう。季節のよい頃なら、そうしたところで遊んだ後に少しばかり歩いて吉野駅に向かうというのも良さそうです。

吉野に行ってきました 3

高滝から如意輪寺に抜ける

登山道に入ってしばらく登ると、高滝に出ます。ちいさな滝ですが、たいへん美しい景観です。本居宣長も吉野を訪れた際にここを通ったとのこと。『菅笠日記』の該当部分を引用した看板が立っていた。昔から吉野から喜佐谷を通って離宮のあったという宮滝に抜ける街道であったらしく起伏の少ないゆるやかな登り勾配の道が続きます。稚児松地蔵と呼ばれる辺りからは、今度は一転して下りの道が如意輪寺に出るまで続きます。周囲は杉の植林地で、比較的良く手入れされていて、陽も入るし風も通ります。それなりに爽やかですが、やはり植林地というのは面白くない。それに先週後半の暑さの影響か、身体に少し変調をきたしていたこともあってあまり楽しめませんでした。

高滝

高滝

少し急な雨の通り道のような岩場を下りきると再びアスファルトの車道に出ます。そこには如意輪寺の駐車場があって案内に從って進むとお寺がありました。南朝勅願寺・小楠公遺髪奉納の地ということで、格式の高い、私のような不敬の輩が足を踏み入れるのも憚れるような所かと少々訝しく思っていました。境内に近づくと子どもの声がします。どうやら遠足で来ているようで、ちょうどお昼の時間帯で集まって弁当を食べるところでした。小さくこじんまりしたお寺で、子どもがかまわず走り回っていますし、庫裏というか休憩所のようなところでは土産物が売られていました。つまり普通の地元のお寺という雰囲気でなんだか安心しました。ここもそうですし、川上村とか十津川村とか南朝の関わりで尊皇思想の根付いた土地柄と言われています。そうした遺構のいくつかも訪れました。いずれも居丈高な、為にするような妙な政治的な装いがありません。いわばこの地域の風土とか民間信仰のような自然なものになっているのでしょうか。

如意輪寺本堂。横で子どもがお弁当を食べている。

如意輪寺本堂。横の木陰で子どもがお弁当を食べている。

吉野に行ってきました 2

喜佐谷の集落を抜ける

遭遇した小学生の一団の中の女の子4〜5人が、歩きながら歌をうたっています。

はじめて見る山 はじめて見る川 はじめて歩く道
ジャンバラホイ ジャンバラホイ ジャンバラホイホイホイ

これを飽きることなく延々繰り返します。途中思い出したように、たまに今日から友だち 明日も友だち ずっと友だちさというフレーズが挿入されます。帰ってから調べたら、元歌(『キャンプだホイ!』)と少し歌詞が違います。でも元のはじめて泳ぐ海なんて、ここには海なんかどこにもないのだから、はじめて歩く道の方がずっと自然でいい。子供たちがアドリブで適当に替えて歌っているとしたら、すばらしいなと思います。それと、合いの手のようなジャンバラホイというのはなんだろう。何かのオノマトペかそれとも適当な語呂合わせか、聞いてみたかったけど我慢して、でも並んで歩いている間、小さな声で一緒に歌っていました。

宮滝バス停から吉野川を渡る

宮滝バス停から吉野川を渡る。遭遇した小学生の先頭集団。後ろにパラパラ続いています。

私たちが子供の頃は、こうした遠足では2列縦隊くらいに並ばされて、無駄口をきくなとか言われて黙々と歩かされていたように思います。運動会の入場行進の練習とか始業式やら卒業式なんかの整列とかの練習も含めて軍事教練そのものです、今思うと。こうして適当にバラけて友達同士集まったり離れたりしながらデタラメな歌をうたいながら歩くほうが楽しいに決まっています。それに今は、ウォーキングやジョギング、それにトレーニングにしてもこうして歌ったり話したりしながら行うほうが効果があるとされているようです。でも管理する方は大変です。この時の引率の先生たちも、子供たちの様子を常に覗いながら、前後に車や自転車や、他の歩行者がないかずっと気をつけていました。林道に入ってから、前から車が来た時、少し列からはぐれた低学年の男の子を女性の先生が抱きかかえて戻していました。そんなことより強圧的に整列させて黙々と歩かせるほうが管理する側の都合から言えばずっと楽なのです。小生意気なガキであった私はそうした軍事教練もどきが大嫌いでした。それで、こんなことをさせる教師たちに、自己満足か大人の都合や理屈でやらしているのだろうと思って、ふかく軽蔑しておりました。教育に関してもいろいろ言われていますが、今の子供たちのほうが、私たちの頃よりずっと伸び伸びとして幸せだと思います。その分、先生たちは大変で、でもよくやってくれているんだと思います。

喜佐谷の登山道入り口

喜佐谷の登山道入り口

さて、しばらく並んで歩いた子供たちを追い越しての喜佐谷の集落に向かいます。途中の川沿いに公園のような場所があって、そこに先発して先回りした先生らしき人が待っていて、子供たちの姿を認めて来た来たとか呟いていたので、そこでキャンプをするのでしょう。私は歩を進めますが、いくら歩いても登山口らしきものはありません。まさかこのままアスファルトの道を歩き続けるのかと思って心配になりましたが、集落を外れたあたりにようやく標識を見つけました。

吉野に行ってきました 1

大和上市駅からバスで宮滝まで

吉野に行ってきました。普通に花の季節にも行っているし、別のルートで遊びたいと思って「森林セラピー」と称して紹介されていたコースを歩いてみることにしました。ただし、バスの時刻などもあるので、逆から辿ることに。

別に急ぐわけでも仕事でもないので、近鉄特急を使わず最寄りの「川原町」駅から都合3回乗り換えて3時間37分かけて大和上市駅へ。ちなみに出発は6時11分です。この大和上市駅というのが、田舎臭い良い駅です。なんとか田舎の駅舎をモダンに見せるように頑張ったというキッチュさがたまらなく良い。バブル期以降、駅前再開発と称して、ロータリーとそれを囲むような四角い商業施設と高層の目的不明のビルといったものが日本全国に広がってしまいました。規模の大小の差があるだけで、それらはどこも同じように無味乾燥、なんの面白みもありません。テナントと言ってもたいていは全国チェーンの店舗ばかりです。でも、さすがにここまでは、シロアリのようなディベロッパーや役人も、手と金が回せなかったとしたら喜ばしいことです。

近鉄大和上市駅

近鉄大和上市駅

さて、二人年配の駅員さんがいて、一人に川原町発の切符を見せて清算してもらいます。ここには自動精算機なんてありません。私は、特に決まった用件とかがない場合は、気が変わって途中下車したり目的地を変えたりできるように、とりあえず乗車時は初乗り区間の切符しか買わないことにしています。しばらくして、お客さん、すいませんがこれは何線の駅でしょうか?と尋ねられます。おい、いくらローカルな駅でも、自分の会社の駅だぞと思いつつ、名古屋線の四日市の一つ名古屋寄りの・・・と言って解決。バス停はどこかと聞くと、もう一人の駅員さんが案内してくれるが、本当に駅の真ん前で、別に案内されるまでもないのだけれど、付いてきてくれて、どこまで行くと聞かれる。宮滝までと答えると、運賃を調べて教えてくれる。そうこうしているうちにバスが来る。

バスに乗ってあらためて駅前の商店の前を通る。なんとも素敵な古い荒物屋とか食堂とかあって心惹かれる。「ひかり食堂」という看板に暖簾も出ていたので、あの時間帯(午前10時前)でもやっていたのだ。もう少し早く来て、遊んでおくのだったと後悔する。もしやと思って帰ってから“大和上市 ひかり食堂”で検索してみると、ここもブロガーが訪れています(大和上市駅前ひかり食堂)。私の好きな「食堂」の要素がすべて揃っているのではないかと思われます。こんど吉野方面に来る時は途中下車してでも絶対に寄ります。

バスは、駅前を出て吉野川沿いに169号線を走る。この辺りも何度か車で走っているのだが、バスの車窓からのんびりと眺めているといい風景だ。道沿いの家並み商店やその看板も面白い。コンビニやチェーン店の見慣れたケバケバしい看板がないのが何より良い。それにバス停の名前になっている地名がいろいろ興味深く、その謂れを想像してみる。やっぱりこうした所は車で来てはダメなんだ。

宮滝のバス停を降りると、なんだか見覚えのある醤油屋があった。それとバス停近くの案内を見ると提灯屋とか竹細工の店も近くにある。寄ってしまうと、これから山道を歩くのに醤油や提灯を抱えて歩くことになりそうなので、我慢して登山口を探すことにする。そこに、遠足のような小学校中低学年と思しき一団が先生に引率されて現れる。どうやら方向は同じようだ。

宮滝バス停から吉野川を渡る

宮滝バス停から吉野川を渡る

トチの小箱

仕事では今、小さな箱を作っています。あるものを入れるために依頼されたもので、315mm✕180mm、高さ120mmほどです。一つで良いのですが、段取りに比べて実作業の手間はそう変わらないので、材料さえあれば展示会用などにこうしたものは二つ以上同時に作ったりします。

製作中のトチの箱の被せ蓋

製作中のトチの箱の被せ蓋

今回は、手持ちのトチを使っています。被せ蓋作りにします。画像はその蓋の部分です。細かい縮杢の入った材料で、はじめは拭漆で仕上げるつもりでしたが、削ってみるとクサレと云われるトチ特有の青い筋が意匠的にもそれなりに面白そうです。表はオイル仕上げにして、蓋の裏と台の部分を本堅地に色漆にしようかと思います。今、試していることをさっそく仕事に使ってみるわけです。色は黒がまあ普通ですが、一つは朱にしてみます。蓋を取った時に漆の朱が現れるなんて面白そう。美空ひばりの歌で、髪のみだれに手をやれば赤い蹴出しが風に舞うというのがあったなあ。そのノリだとしましょう。私、あの歌好きです。「津軽のふるさと」と同じくらい好きです。

縮杢にクサレのアオ

縮杢にクサレのアオ

留の部分は、直方体に欠きとってサネ状に角材をかまして接着しています。裏側から布を着せるのでこれで充分かと判断しました。もちろん、イモ着けよりは多少は接着面が広がりますし、イモと違って接合部分の基準が出来るのでまぎれが少ないという利点もあります。箱の蓋ですし、構造的な強度が要求されるものでないし、ビスケットでいいじゃないかとも言われそうです。そちらのほうが強度の点でも、あるいは有利かもしれません。しかし、別のところでも書きましたが(剣留工作と導突鋸)、木を組むのにビスケットジョイントを使うというのは、木工屋にとって麻薬のようなものだと思っています。敷居の低さという意味では、今なら脱法ドラッグかタバコのようなものでしょうか。一度手を出すと、まともな生活が難しくなるように、ちゃんとした仕事が出来なくなります。私はまだ木工をやめたくありませんので、けっしてやりません。安い材料で、安い仕事と割りきってもらえるなら、表から何ヶ所かチキリという材をはめ込むやり方もあります。これもいかにも素人臭いダサイ工作になります。私は好きではありません。

被せ蓋の留部分

被せ蓋の留部分

月命日

今日19日は、母親の月命日にあたります。8ヶ月となりました。あと、明後日21日は母親の誕生日で生きていれば満86才になっていました。だからと言って特に何もしているわけではありません。ただ、ようやく最近になって5年前の仕事と生活のペースに戻りつつあるという気はしています。

昨日、近くに一人で住む伯母(母親の姉)が従姉妹夫婦に引き取られて名古屋に行きました。母親(妹)が亡くなってから、めっきり弱って認知症の兆候もボチボチ出始めていました。それで従姉妹夫婦の店の近くに高齢者向けマンションが既に手配されていて、そこにいずれと話が進んでいたようでした。そうしたおりに、詳しくは書いても仕方ありませんが、以前から繰り返されてきた早朝からの救急車騒動を2日続けて引き起こし、なかば強引に連れていくことになったようです。私も、伯母の家に顔を出して様子を見ながら従姉妹夫婦と今後のことも含めて少し話をしました。立ち去り際に、伯母がなにか残りたいとか言ったのでしょう。お嫁さんが、おる(居るという意味)と言っても、もう無理だと分かったでしょうとたしなめるような声が聞こえました。かわいそうに思いましたが仕方がない。もう老い先そう長くはないのだから私が面倒を見るからここに居させてあげてくれ、と私自身も言わない。まあ言っても遠慮されるでしょうが、それも含めて仕方がない事だと思っています。