atusi について

三重県四日市市で小さな木工所を営んでいます。

ノキシノブ その2

私は、あまり上等でない木造の家並みの多かった四日市の下町で育ちました。今思い出しても近所は、万古焼の工場やその問屋、鋳物屋、大工、建具屋、畳屋、仏壇屋、左官屋の職人の住まいなど色々でした。私の実家もそうした中でタバコ屋兼ヨロズヤのような事をやっていました。だから、ノキシノブなんて珍しくもないはずで、逆にそれゆえかハッキリとどこで見たとか、どこにあったとか言う記憶がないのです。わびだ、さびだという感傷とは無縁な子どもにとっては、あんなものただ貧乏臭いだけの少しも美しくないシロモノですものね。気にもとめていなかったのだと思います。でも、百人一首の順徳院の歌を教わった時は、とくに疑問もなく軒端のしのぶを受け入れていたので、知ってはいたはずです。

その軒端のしのぶを、あらためてはっきりそれと意識して見たのは、今からちょうど10年前の大阪北部のある神社でした。願掛けをしてもらっていた、ある病気の治癒のお礼参りに訪れたのですが、促されて上げた目線の先、たしか手水舎(ちょうずや)の軒にノキシノブが茂っていました。もしかしたらもう自分はここにはいなくて、それで誰か偲んでくれる人がいたとしたら、あまりあるむかしのひとつになっていたのか。とか順徳院の歌がうかんでしばし眺めておりました。

洛東遣芳館のノキシノブ

洛東遣芳館のノキシノブ

写真は、去年の今頃、京都の五条問屋町下がるの洛東遺芳館で撮ったものです。たまたま春の公開時期に近くを歩いていて訪れました。江戸時代から続く紙問屋さんの邸宅と代々の当主収集の収蔵品を春と秋に公開してくれています。あまり訪れる人もないようですが、建物も、収蔵品もきちんと管理されたすばらしいところです。

とか書いていたら、行きたくなって来ました。しかし、この春の公開は5月5日までのようです。もう連休に入ってしまってからの京都に出かける気にもならないのでやめておきますが、既にお出かけを予定されている人はどうぞ訪ねてみてください。

 

 

映画・『ある精肉店のはなし』がまた上映されます。おすすめです!

前に紹介した映画・『ある精肉店のはなし いのちを食べて いのちは生きる』が、ゴールデンウイーク中に名古屋のシネマスコーレで再び上映されます。見逃された人はぜひどうぞ。5月3日〜9日16日、時間はいずれも12:00〜13:50です。私は、その前に上映される『夢は牛のお医者さん』も見たいので、もう一度見に行くつもりにしています。

この映画について、ブログに書いただけでなく何人かの人に話をしました。中には「そんな映画を見たら肉が食べられなくなる」とおっしゃる人もいました。しかし、どこかの動画で監督の纐纈はなぶさあやさんは、「見終わった人がお肉を食べたくなるような映画にしたい」とおっしゃっていました。それで、実際に「肉がたべたくなった」という感想をもらったそうです。私は、肉がたべたくなったとまでは言えませんが、肉をいただく時は、ゆっくりとちゃんと味わいたいと思いました。たんに肉だけでなく、食べると言うこと自体を考える良い機会になります。

これを書いているうちに、Eテレの「スーパープレゼンテーション」という番組でイギリス人のジェイミー・オリバーという料理人が、アメリカやイギリスの食事と肥満について、具体的な数字や映像を交えて語っていました。ある程度知っていたつもりでしたが、かなりショッキングな内容です。私がまわりで普段目にしている状況から、日本もそうなりつつあるように感じています。私達が口にするものが、どこから、どうした人たちの営みによってもたらされるのか、やはり機会を探してでも知っておくべきだと思いました。

ノキシノブ

昨日は、城下町ウォッチ→城のある山へ登頂→おいしい食事 という粋で中身の濃い休日を企画してもらいました。ありがたくも嬉しいことです。58才となりました。途中からの雨もご愛嬌。晴れ男、晴れ女をそれぞれ自認してるものがバッティングするとお天道様がウザったく思って雨を降らすのか、なぜか雨が続きます。不思議なものです。

待ち合わせの前に、19の春に今はもう亡くなった叔父に連れられて歩いた所を覗いてみる。39年ぶりということになる。そこで見かけたもの。コンクリートの軒端(のきば)のしのぶということかな。

コンクリートに生えたノキシノブ

コンクリートに生えたノキシノブ GXR A12 28mm


百敷ももしきやふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

家にも百人一首のカルタはありましたが、もっぱら坊主めくりをするばかりで、歌などなにも知らなかったと思います。学校の古文の授業で習ったのでしょうが、私はこの歌がなぜか気に入って諳んじていました。ももしきモモヒキと読み替える子供らしいいたずらではなくて、下の句のなほあまりあるむかしなりけりという調子の良い語呂が気に入っていたような記憶があります。

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裏をさらけ出されてしまった問屋街 GXR A12 28mm

再開発?

再開発? GXR A12 28mm

刳り物

5月になるとあることを始めるため、モラトリアムも残りわずか。ニカワ、漆、ともうひとつやっているのは刳り物。刳り物のキモは刃物かなと考えています。サンドペーパーなどで安易に削ったりすると、冬目が立って凹凸が生じます。これにたとえば拭漆などを施すとこの凹凸が強調されて、だらしのない締りのない仕上がりになります。アマチュアの人の作品によくあります。

あと、下掘りだからと機械を使うと、私の場合は何かしら力のない勢いのようなものがない形になるような気がします。最初、すくい鑿で叩いて、四方反り鉋と彫刻刀で形を整えます。最後に大きめの四方反りの刃を抜いてスクレッパー代わりにして傷を消すように仕上げます。その上でサンドペーパーで木地を整えるようにします。

こういうことをやりだすと、私は際限なくダラダラと続けてしまうのですが、今は犬がいるおかげで歯止めになっています。

「イシナラ」と呼ばれる固いナラをゴリゴリやっています

「イシナラ」と呼ばれる固いナラをゴリゴリやっています

 

失敗

夕方からバタバタと用件が重なって、結局夜の8時前になりました。一日違うだけで、昨日は月の左にいた火星が、今日は月の上に。距離も離れています。換算で90ミリ程度の望遠でなんとかおさまるくらいでした。でも、結局ならんだ姿は上手に撮れません。露出を上げると月の姿が光芒の中に埋もれてしまうし、月をくっきり写そうと少し絞って(F8程度)、シャッタースピードも1/200くらいにすると、今度は桜や電線がシャドーの中に埋もれてしまいます。火星はセンサーのゴミほどにも残りません。目では、月も火星もくっきりと桜の枝や電線の上に輝いているのに残念です。せっかく弟にもらった重たいニコンの一眼レフを久しぶりに持ちだしたのに。

なにかやり方、撮り方があるのでしょうが、もうこれ以上カメラがレンズがとかやりたくないし、別に昨日の絵くらいでも構わないと思っているのでやめます。でもせっかくなので、月だけ撮った1枚。等倍表示で、いつもの横1200ピクセルになるようにトリミングしています。ちなみにこのブログで貼っている画像は、だいたい長辺1200ピクセルに縮小してあります。更に表示は基本的に横587ピクセルに統一されています。画像をクリックしてもらうと、1200の画像が表示されます。

NIKON D300 AF-S NIKKOR 55-200mm

NIKON D300 AF-S NIKKOR 55-200mm

ついでにこのD300、操作を思い出すためにバシャバシャ撮ってみた。シャッターとかミラーの機械的動作がシャキっと小気味よい。もう少し小さくて、軽ければいいカメラなのになあと思う。

NIKON D300 去年試しに撮った切り出し小刀

NIKON D300 去年試しに撮った切り出し小刀

こんどは火星

遅めの散歩に出ると、そうか今頃は火星が月のお供をしている。しかもその火星、今は地球に近いらしい。良い名前だ。本当に赤い。戻ってデジカメを持ち出すが、なんだこれはという絵にしかならない。ただ、こうした人工物と月の組み合わせの絵は好きだ。明日は満月、なんとかしたい。

電線の間のつもりがもろにかぶる

下手な絵だなあ。それに電線の間のつもりがもろにかぶる

年明けにニカワで遊んで、今は漆でいろいろ試している。とりあえずはまた拭漆の技法を確かめるようにトチの板に施す。なんだか手が既に漆にかぶれているように見えるのは、このデジカメ(GXR)のホワイトバランスがしょぼいせいです。

ヘラや刷毛を使う時は最近は素手

ヘラや刷毛を使う時は最近は素手、ただアマチュアの人はマネをしないほうが良いと思います。

仕事柄、鰹節は鉋で削る

今日は(日付では昨日になってしまったぞ)日曜日だけど、思う所あって昼から少し仕事をした。その分、まあいいかと思って夜更しをしてお酒を頂く。指から二の腕にかけて痒くなる。そうか、漆を触っていたのだと気がつく。あてはほうれん草のおひたし。先日雨中の花見の弁当に持って行った時に、醤油を忘れて削り節だけで食べた。ほうれん草も鰹もそれぞれの味があらためて良くわかったように感じておいしい。これまでちゃんと味わっていなかったのだと思って、以降は何もかけずに頂いている。

おちょこは、天目茶碗(再現品)ということらしい。やはり頂きもの。

能古見もこれで終わり

能古見もこれで終わり。すいません、食べ散らかしを酔っぱらいの絵です。

花粉に負けずに春の風にあたりました

物を捨て、建具まわりの足元もすっきりとした実家に春の風を通す。花粉も引き入れるが溜まったよどんだ気を逃がす。日があたること、風が通ること、そのためにも不用な物を持たない、置かないことが健康な住まいの基本だとあらためて思う。同じような事を、先月の展示会に来てくださった同世代の少し境遇の似た人と話していた。商売は?とは後で思った。

重たいくすんだ色の冬のコートや上着をしまう。今年手を通さなかったものは捨てることにする。年を重ねて体もだらけて、くすんでくるのは仕方がない。でも、というかだからこそ、せめて明るいきれいな色のものを身につけたい。春色のセーターも仕舞いこんでいても仕方がない。仕事着としても使おうと思う。

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多くは頂き物の春のセーター、仕舞いこんでいても仕方がない

 

雑種犬タローを連れて川原を歩く。1メートルほどの距離で横を通りすぎても鳩は逃げない。タローも気に留めるでもなく通り過ぎる。早朝は、鴨の群れが川原に羽を休めている。3メートルほどの距離に私達が近づくと、ようやくヒョコヒョコと岸辺に向かう。逃げるというより、面倒臭いがまあ習慣だから仕方ないかという感じか切迫感のようなものはない。やはりタローも追いかけるでもない。気にもとめていない。こうした鳩や鴨を警戒心を失った平和ぼけした存在と考える、また追いかけるどころか気にもとめない犬を本来の狩猟本能をなくしたフヌケた存在と考えるか。あるいは逆に、ごく基本的な生存環境が満たされていれば違った種類の動物同士、警戒感とか狩猟といったその野生の生存本能すらゆるめて平和に共存できると考えるか。

もちろん私は後者です。ぶっちゃけた話、私達の日本国憲法の前文と第9条の精神と言うのはそういうことだと思います。それに対して憲法を変える、集団的自衛権とやらを解釈改憲で合法化するというのは、鳩や鴨にそんなのんびりしていては食われてしまうぞと脅す、犬にはお前もいつまでもエサを与えてもらえると思ったら大間違いだ、自分で鳩ぐらいとって食う根性がなくてどうするとけしかけることです。それで大事なことは、そうすることでお金がまわり儲かる一部の人達がいるし、これまでもいたということです。騙されてはいけません。


日本国憲法

2
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
3
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
4
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。