atusi について

三重県四日市市で小さな木工所を営んでいます。

お盆

盆前に空き家となっている実家の整理をする。亡くなった父親の物もまだ完全に整理・処分出来ていないし、施設暮らしの母親の物はやはり手をつけにくい。昨年の父親の初盆の折に戻っても、もうそこがかつて半世紀以上自分が暮らした家だと分からなくなっていた。だからもうため込んだものも、その大半は記憶にないはずだから処分してもかまわないとは思うのだが。

以前の職場

大阪南港の中田木材工業に、買ったまま預かってもらっていた材木を引き取りに行く。何年か前に倒産した北海道のE林業の在庫品で、今頃はもうなかなか見られないような良質のクルミ材だ。2年以上も前に買って、昨年ある店舗の什器と内装用に使って残りはそのまま預かってもらっていた。この業界はそうした面でおおらかなところがあって、ずぼらな性格の私には助かる。

以前勤めていた会社が、南港にほど近く道中少し道をそれた所にある。昼一番の約束に多少時間があったので寄ってみる。スケールと呼ばれた酸化鉄によって赤茶けた門やスレート拭きの建屋の姿はどこにもなく、大きく小ぎれいな物流倉庫のようなものになっていた。私は、別にその会社に何の思い入れもないがその変貌振りに少し驚く。それに一応製鋼から圧延、それに出荷のためのストックヤードと加工施設のあった製造業の現場がこんな無機的で大きな集配場のようなものになったのを見るのはやはり寂しい。

それと、私が辞めてからこの会社ではいずれも製鋼の炉前で2件の労災事故があり、それぞれいずれも20代の若い社員が亡くなっている。私が辞めるときには、もう会社はその将来は展望出来ない状態であった。それで結局こうなるのであれば、もう少し早く少なくとも旧式の炉で若い現場労働者をむごたらしく死なせる前に稼働を停止するすべはなかったのかと改めて思った。たしかに小さな会社といっても下請け含めて300人の雇用を、どこかに軟着陸させるのはたいへんなことであったろう。だが、そんなことは人一人の命に代えられるものではないと今なら言うことが出来る。私自身が、この会社では労災でかなりひどい怪我をしている。運良くこの通り生きているし、後遺障害も残っていないが、その意味で他人事ではなかった。

旧国光製鋼跡

モーツアルトのピアノ協奏曲全集

今日は、仕事の打ち合わせでお邪魔したお宅でクララ・ハスキルのモーツアルトを、アルテックのA7、EMTのプレーヤーで聴かせてもらう。

誰だったかある高名な音楽評論家はオフレコでは、西洋音楽なんてバッハとモーツアルトだけあれば良い。あとはみなその亜流か出来損ない。と言い放っていると読んだか聞いたかした記憶がある。私もそう思う。それに我々日本人には美空ひばりの歌がある。

関係ないが、美術評論家の洲之内徹は、藤田(嗣治)の絵は戦争画しかない、あとはクズだよと言ったそうだ(司修・『戦争と美術』)。何年か前に藤田嗣治の戦争画が一般公開されたとき、これも本当にその通りだと思った。洲之内徹という人も前に書いた絶対にお金を出してその本を買いたくない人の一人で、その「気まぐれ美術館」は『芸術新潮』連載時にはもちろん立ち読みだし、後に何冊かの単行本になってからも図書館で借りて読んだ。この司修さんの著作は、毎年この季節になると読みたくなる。そして東京国立近代美術館の靉光(あいみつ)の大きな目玉の絵を、関根正二の『少年』などと一緒に見たくなる。この本の冒頭にはシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」のカタログへの献辞が引用してある。これを読むだけでも、この本を購入する意味があると思う。シャガールの絵にこびりつくどうしようもない禍々(まがまが)しさが少しは理解できる気になる。

フォルテピアノとピリオド楽器によるモーツアルトのピアノ協奏曲全集。2005〜2006年の新しい録音の11枚組で4,330円というもの。

フォルテピアノによるモーツアルト協奏曲全集

ヒバリ

今日のような梅雨の中休みの日は、いつもの朝の散歩の時にその鳴き声をたよりに空にヒバリの姿を探してみる。空が青すぎず眩しすぎないのも良い。私は仕事(木工)も、趣味(読書とかオーディオ工作)も、そしてこうしたパソコン作業も目を酷使するので、よいリハビリになる。それにしてもこのヒバリたちは、この物騒な河川敷近辺のどこに営巣しているのだろう。毎年変わらず現れるので代は重ねているはずだ。犬の散歩のコースだし、猫もカラスもいる。サツキやユキヤナギの植え込みがたくさんあるので、その根元の奥の方かとも考える。ヒバリの鳴き声というのは、なんだか気ぜわしくその甲高さが時に耳に触るようで好きではなかった。しかしこのあたりでもやたらと増えたムクのゲーゲーという汚い声よりははるかに心地良いと思うようになった。

木の家具40人展2011終了

13日に終わった木の家具40人展2011では、久しぶりに仕事仲間や古くからのお客さんにも会う事が出来ました。12日(土)、13日(日)には500人以上の来場があったようです。この名古屋 木工家ウイークというイベントもすでに4回目で、中心になって運営してくれている工房齋の齊田一幸さんの変わらぬ尽力によるものでしょう。おかげで我々のような小規模家具工房、木工所に対する社会的認知も少なからず上がっていると思います。齊田さんや他の実行委員の人に頭が下がります。

さて、事後になってしまいますが、私の出展した仕事について受けた質問や問い合わせの応えも兼ねてこのページで解説していきます。よろしければご覧下さい。↓

利休文机

利休文机

ルイス・ヤッカ

いつもより少し早く起きて、サッカーのヨーロッパチャンピンズリーグ決勝を見る。特に海外サッカーのファンでもないが、美しいサッカーを標榜するFCバルセロナが勝ったのは愉快だ。しかも場所はロンドンのウエンブレーで、相手はその地元で筋肉サッカーの代表ともいえるイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドだ。

カタロニア(カタルーニャ)とかその州都バルセロナというのは、私にとってわけのわからない所だ。だがたかだかサッカー、見るだけならそこに勝手に色々なものを投影させてもかまわないだろう。FCバルセロナのユニフォームのエンジと紺の縦縞は、かつての共和国スペインの最強最大のアナーキスト組合ー政党・CNTFAIの赤と黒の旗を連想させる。ケン・ローチ監督の 『大地と自由』 で、POUMの兵士が首に巻いていたスカーフも赤と黒に染め分けられていた。屈強なマンチェスター・ユナイテッドの選手の間を軽やかに駆け抜けるイニエスタやビジャの姿に、バルセロナやマドリードや他の市街戦下の街を走るドゥルティやアスカソの姿をダブらせる。


こうした時はバルセロナ由来の歌を聴きたい。ルイス・ヤッカ(Lluis Llach"BARCELONA Gener de 1976"。あとに引用した解説にあるように、バルセロナでの凱旋コンサートのライブ録音のようだ。

ルイス・ヤッカCDジャケット

Llis Llach BARCELONA Gener 1976

ルイス・ヤッカを知ったのは、今からもう30年近く前に出た『帰らぬ兵士の夢 平和のための世界の歌 〜 ヨーロッパ編』(1983年 制作・発行(株)音楽センター)というLPレコードだった。ここには、主に政治的理由で祖国での活動を禁止・制限あるいは自身が国外追放とか亡命を余儀なくされていた10人のアーティストの歌が収められている。ルイス・ヤッカも上のCDにある2曲のライブが収録されている。もとは、フランスのシャン・デュ・モンド社から出されたそれぞれのアルバムから、昨年亡くなった芳賀詔八郎さんが1枚のアルバムにまとめたものだ。構成・プロデュース、訳から解説まで芳賀さんがされている。その博識と眼力、それに情熱は本当にすばらしい。

さて、このCDのライナーノートは、フランス語とカタロニア語(?)で書かれており、さっぱり意味が分からない。ルイス・ヤッカに関するネットの情報もカタロニア語とスペイン語のものが多く、英語でのまとまった物はない。それにもう現在では音楽活動からは引退しているようだ。ただ、例によって動画サイトで検索すると新旧さまざまな彼の歌を聴くことができる。若い頃の彼は、今日も途中から出場したFCバルセロナのキャプテンで、南ア大会でのスペインチームのキャプテンでもあったプジョルのようだ。

日本語の解説となるといまだに芳賀さんの30年前のLPのそれが一番詳しいようだ。以下にルイス・ヤッカに関する部分を全文引用する。

ルイス・ヤッカ

スペインの若手アーティストの中で、一番に聴いてみたい歌手である。彼の絶大な人気は、故郷のカタロニアは言うに及ばず、今やスペイン全土に鳴り響いている。彼は、カタロニア語で歌う。それは普通スペイン語と称するカスティージャ語と異なり、フランス語とも等距離にある言葉だ。そして永らく使用を禁止されてきた。フランコ死後も最近まで、その措置は続いていた。そのため若者は、20歳過ぎてから母国語を勉強する始末だ。ただ言葉は話す、何故なら親たちが家庭で使うから。でも文字は知らない、教科書が取り上げられていたから。この悲劇は、我が身に置き換えてみれば歴然とする。だからカタロニア語で歌うことは、体を張ることだった。数年後に同じカタロニアの歌手ライモンが来日し、その記者会見の席上、"何故解りやすいスペイン語で歌わないのか、カタロニアの悲惨な歴史を世界に訴えるつもりなら"という問いに、彼はきっぱりこう答えている。"だからこそカタロニア語で歌うのだ"と。このへんの事情は、戦前の日本も立場こそ逆だが体験したことである。

さて、ルイス・ヤッカ(ルイス・ジャックとも呼ぶ)は1950年生まれ、早くから才能を発揮し、17歳でファースト・アルバムを発表したり、"カタロニア語で歌うことこそが、スペインの国家権力からわれわれの文化を護る最良の運動だ"として16人の闘志という若者グループを結成したりしている。バルセロナの大学を出た後は、検閲、追放、禁止という数々のレッテルの貼られたコンサートを繰り返しながらも、やがてカスティージャ、アンダルシア、バスクでも並外れた影響力と人気を持つようになった。しかし遂に全面活動禁止令が下り、フランスに向かうことになってしまう。そのおかげで、ヤッカの名は国境を越え、73年パリ・オランピア劇場の大成功に続いて、ヨーロッパ各地での成功の報に本国政府も折れざるをえず、解禁処置に至った。やがてカタロニア語の解放。ルイス・ヤッカは、まるで凱旋将軍のごとく祖国に迎えられた。

ルイス・ヤッカ、彼は文字通り、傷みと反乱、正義と自由を叫んで、今やスペインの若者の象徴となっている。

芳賀詔八郎

おにゅう峠から百里が岳、木地山峠

少し前からこの日の山行は予定していた。体力的には少々弱り気味であったが、ちょうど色々煩わしいことも続いていたので良い機会と思い出かける。いつもの山に今回は沢筋をすこし下ってみようと思っていた。しかし途中の林道が先週はじめの雨のせいか小規模な鉄砲水にやられて崩れていた。4輪駆動車ならなんとか通れそうな感じで、強行突破も考えたがまだ時間も早かったので別の山に向かうことにする。地図を見て色々考えたが小浜(福井県)との境になる百里ヶ岳近辺が面白そう。

まだ未整備(ナビにも表示されない)の林道をおにゅう峠まで車を走らす。途中未舗装でかなりあれた路面の部分もあり、どうやらオフロードバイクの格好のツーリンツコースとなっているらしい。峠手前に登山道の入り口の標識を見つけたので、引き返してそこから山に入ることにする。

道中イワカガミの群生を見つける。花はいまが盛りのようだ(クリックで拡大戻る操作でもとに)。

イワカガミの群生

イワカガミの群生

ここから百里ヶ岳を経て木地山峠に行く道は部分的に杉の植林地が迫っているところもあるが、ブナの単相に近い林やミズナラ、カエデ、ミズメなど芦生の演習林に近い植生が残されておりよい山であった。詳しくは別に報告したい。

木地山峠近くのブナ林

木地山峠近くのブナ林

木の家具40人展2011

木の家具40人展2011

今日は、6月10日(金)からはじまる木の家具40人展2011の出展者打ち合わせで名古屋に行く。工房齋の齊田一幸さん達の尽力で始まったこの展示会も4回目となる。私も第1回の実行委員の一人だったのだが、その後個人的な事情もあって過去2回は出展さえしていなかった。出展者の名簿を見ると半数以上が知らない人。今日の会合の出席者を見ると若い人が多い。一人の方に年齢を尋ねると24だそうだ。

会合の場所が東別院だったので、地下鉄で一駅乗って久しぶりに上前津の大須商店街に行く。日曜日ということもあるがこの国のどこが不況なのかという喧噪ぶり。逃げ出したはずの中国人らしき風情と言葉の人たちも目立つ。その中でひたすら疎外感と疲労感のみを感じる。たしかに最近食欲や物欲、何によらず欲求自体が減退しているのはたしかだが、この中いても欲しい物も食べたいものもないのだ。人いきれに疲れて早々に地下鉄の大須の駅に向かう途中でまた中国人の団体。