GO VOTE 0710
自分の未来は自分で選ぶ

もう明日の事になってしまいましたが、学生時代の友人から案内が来ていました。そのチラシを貼っておきます。京都在住の人、とくに学生や大学関係者の人、気にとめておいて下さい。それで、こんな事をしている連中もいるという事で投票に行ってくれると嬉しいです。

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期日前投票に行ってきました。
比例区は「福島みずほ」(社民)、選挙区は「芝ひろかず」(民進)と書きました。

昨日、期日前投票を済ませてきました。比例区は、「福島みずほ」(社民党)、選挙区ではいやいやながら民進党の候補に入れました。今回は、自民党に対抗する野党統一候補ということで、共産党が候補擁立を控えたので仕方ありません。それでもまだ忸怩たる気分が抜けませんが、共産党や社民党の皆さんは、内心はもっと残念な思いをしていることでしょう。まあ、広報の公約に自民党による憲法9条改正の流れを止め、平和を守るとあるので良しとします。

公選法上差し障りがある?でも、自宅の写真を自分のブログにあげただけです。

公選法上差し障りがある?でも、自宅の写真を自分のブログにあげただけです。

投票後、例によって、某新聞社の腕章をした人間が出口調査と称して寄ってきましたが、お断りしました。少し前の選挙の時でしたが、朝日新聞を名乗る非通知の電話がかかってきて、無作為抽出で選挙の事前アンケートをお願いしたい云々。たどたどしいいかにもアルバイト風の感じの声でした。もちろん断りました。なぜ非通知の電話に、私の個人情報(年齢・職業・性別)や政治思想や行動を言わなくてはならない。協力してほしかったら、まずは番号通知にして、このアンケートの企画部署とその責任者と君の名前を明らかにしてからかけ直せと言って切りました。ふざけたことに、何日かしてまた非通知で、同じ声で朝日新聞だがアンケート云々の電話がありました。この時は、さすがに腹がたって、何日か前にちゃんと理由を挙げて断ったはずだ、責任者をだせ、無理なら名前だけでも教えろと怒鳴ったら、今度は向こうから電話を切ってきました。

それをきっかけに、この新聞を定期購読するのをやめました。もともと妙に上から目線で権威主義的なこの新聞も好きではなかったのですが、この傍若無人で稚拙かつ横柄ともいえる調査方法に嫌気がさしました。他に選択肢もないとて惰性で続けていたのです。

もう、テレビを中心にマスなメディアは選挙もワイドショーのネタのような扱いです。当落予想など競馬の着順やや野球の順位予想かのようです。風だの政局だのと、なんの得にもならないのに勝ち馬の乗るようにしむけているとしか考えられません。こうして、本来のそして自民や公明が意図的に隠している争点をますます見えなくしています。私は、もうかなり以前から選挙関連のメディア情報は見ないようにしています。そのかわり、選挙広報や政見放送とビラの類はしっかりと読みます。

もし、ワシントン・ポスト紙が日本で発行されていたら、今回の選挙では、自公及び改憲勢力以外への投票を呼びかけているでしょう。知られているようにアメリカ合州国の有力紙は、選挙の前には自紙の選挙争点への見解と支持政党を表明します。トランプに対しては、早い段階で批判を加えています。今回は、本当に問われてるのは憲法の改正問題です。それに加えて、政権党と権力による報道や表現などへの有形無形の規制が、ある危険な一線を越えようとしていると感じます。メディアにとってそれは死活問題なはずですが、もう抵抗する気概さえなくしているのでしょうか。

万古祭りでした

熊本から帰って、14日・15日は、地元・四日市で万古祭りがあった。出かけて器など何点かを購入。そのうちの一つ。径・285ミリ(9寸5分)の鉢。さっそく食べたいと思っていた鰯を煮て盛る。

最近は、こういう染付の器ばかり買っている。

最近は、こういう染付の器ばかり買っている。

益城町

2日目の午後は、震災の被害がひどかった益城町に向かいました。声掛けと食事・飲み物の提供を続けている女性ボランティアの人たちに案内されて、現地を廻らせてもらったという感じです。現地で知り合えた被災者の親族や人づてに、または通りから離れて人目につきにくいテント生活の高齢者を訪ねては、声掛けをして要望を聞き出す。こうした地味で、でも本当に必要とされている活動を連日されているのは、本当に素晴らしいことだと思います。

熊本市から28号線を通って、益城町に入る辺りから倒壊した家屋が目に入り、市内とは明らかに様子が変わります。拠点のように使わせてもらっているという 閉店したコンビニの駐車場に車を置いて、村内を回ります。特に28号線の南側は倒壊している建物が多く、余震の関係もあるのが、そのほとんどが手付かずの 状態です。

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このお宅は、材木商のご主人が建てたもので、入り母屋造りの二重屋根の辺りの中でもひときわ立派なものです。

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比較的古い立派な造りの家が倒壊している隣で、震災に弱いとされる簡素な木造モルタル造りの家が建っている。私の半端な20年前で止まっている知識では、理解不能です。

このお寺では、本堂が倒壊。脇にある納骨堂と思われる蔵も傾き、中の納骨棚も倒れ、骨箱が散乱しています。昨年、津市のあるお寺の納骨棚を作らせてもらったこともあって、私にはショッキングな光景でした。転倒防止金具をつけたとしても、堂そのものが倒壊してしまえば意味がありません。

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熊本2日目

昨日、熊本洋学校ジェーンズ邸として載せた画像は、天理教の神殿でした。ある目的があって、その瓦礫の廃材を手に入れたかったのです。朝の6時に現場に行って作業員の人に、ここはジェーンズ邸か?そうであれば瓦礫の中の廃材を欲しい旨伝える。怪訝な顔をされて、ここは天理教の神殿だと言われる。どうりで天理教の名を関した人たちばかりだと思った。それにしても、どうみても本格的な重機もそろえた本格的な建築チームが一宗教団体で集めることが出来るというのはすごいことだと思いました。

あらためて、外に出て散歩中の人に尋ねて行ってみたジェーンズ邸は、既にブルーシートに覆われていました。

 

 

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

熊本初日

今回、お世話になっている熊本聖三一教会の近くの水前寺公園辺りを、早朝に散歩してきました。

熊本洋学校ジェーンズ邸

熊本洋学校ジェーンズ邸水前寺公園近くの天理教の神殿

明治4年建設の熊本洋学校ジェーンズ邸は、瓦礫の山になっていました。
天理教の神殿でした。

水前寺公園の能楽堂

水前寺公園の能楽堂

公園内の能楽堂は、外見からは無事のようです。

このあと土砂災害のひどかった南阿蘇村へ。

熊本に来ました

熊本空港。搭乗した飛行機

熊本空港。搭乗した飛行機

熊本空港着。天候不良(視界不良)とのことで着陸やりなおし。上空で30分ほど待機して、結局1時間ほど遅れる。福岡空港に廻るかもしれないとアナウンスがあったので、まあ着けただけで良かった。

熊本空港に来たのは20数年ぶりになる。この前はサラリーマン時代で仕事だった。その頃に比べて、随分小ぎれいになったが、山の中の空港というイメージは同じ。市街地に入ると、所々、屋根にブルーシートがかけられた家が目に付くが、道路は普通に乗用車で渋滞している。少なくとも県庁周辺は被災地という雰囲気は感じられない。

震災報道があまりにひどい 熊本の震災について 2

被災現場からの中継を見ていて気になった事があります。中継のレポーターたちが完全にという言葉を頻繁に使います。他に形容詞を知らないが如くです。NHK、民放各局を問わずに繰り返されるので、中継時には途中から音声を切ったりしました。曰く

1階は、完全に倒壊しています。

土砂により、家屋は(橋梁)は完全に埋もれてしまっています。

そうしてアナウンスされる映像を見ると、家屋の1階の柱は部分的に(あるいは壁も含めて1面は)残されていたりします。また、崩れた土砂の中に、家屋の屋根や橋桁の一部が覗いています。つまらない事にこだわりすぎと言われるかもしれません。しかし、彼らの仕事の第一の任務は、自分の見たものを出来る限り正確に仔細に観察して、それを自分の言葉で伝えることでしょう。それが、誰も彼も、完全に完全にと決まり文句のように絶叫するだけなら、お前らなんか必要ない、うるさいだけだ。単に語彙とか日本語能力の問題ではなく、まずは目の前の状況を細かく観察して伝えようとする姿勢自体が感じられない。低俗、低能、低レベルに成り果てたといってもテレビも一応は報道機関の一員でしょう。それがこの有り様なら、本当にもう存在する価値がないとされても仕方がない。

それと、これは言葉のニュアンスとその感じ方の問題かもしれませんが、完全にとか、完全なというのは、積極的・肯定的な事象に対する形容ではないかと思っています。現に人が下敷きになっているかもしれず(その可能性が高い)、そして事実としては完全には倒壊していない柱やわずかな壁の隙間から、手がかりを求めて懸命な捜索が続けられている。それを、ヘリに乗った上空から、あるいはそれを間近で見ながら、完全に倒壊しています。完全に埋まっています。とか繰り返し絶叫して電波で飛ばしているのは、こいつらの日本語の能力の低さを嘆くだけではすまされない問題だと思います。

この連中は、ある種の高揚感から舞い上がっていたのでしょう。それで、状況の説明としてはあまりに杜撰で不正確な、かつ適当とも思われない完全にという言葉を連発していたのでしょう。その言葉の多少なりとポジティブなニュアンスは、自分たちの気持ちを反映しているのだと思います。報道とかメディアと呼ばれる仕事に従事している以上、大きな事故や事件、災害が起きた時、欣喜雀躍とまでは言わずとも、多少なりと高揚感を抱いてしまうのは仕方がないとも思います。それが職業意識とも言えるでしょう。ただ、こうした災害や悲惨な事故・事件などの場合、その犠牲者や被害者を思いやる気持ちが必要です。そうした最低限の倫理観すら持たないメディアの人間の傍若無人は、これまでも繰り返し批判されてきましたが、基本的には少しも変わっていないように思います。