たろう5歳、 小太郎1年

5月24日で飼い犬・たろうが5歳になった。4年前のゴールデンウイークに家に迎えた。もう一匹黒猫の小太郎は昨年の6月17日に保護してほぼ1年となる。

たろうは、市内のあるペットサロン(ペットのトリミングや一時預かりが業態、生体販売はしない)から頂いた。もともと某ディスカウントストア系のペットショップで買われて1ヶ月もしないうちに飼育放棄されたそうです。いろいろたらい回しされた挙げ句そのペットサロンで半年以上も預けられていた。たろうを迎えた経過はまた別に書きます。

4年前迎えたばかりのたろう

黒猫の小太郎はいつものたろうの散歩道の河川敷に捨てられていた。見かけた人も多くそこで2週間ほどもいたらしい。通り掛かる人を見つけては足元にすり寄っては食べ物をねだっていたようだ。首輪の痕もあるしこれまで見かけなかったので野良ではなさそうだ。放っておけば他の野良や狐やイタチ・カラスに狙われそうだし、食べ物は人間にねだってもらうものだと刷り込まれていそうだ。もともと飼い猫ならこれから梅雨や夏を乗り切れそうもないかな。よくて野良を1匹増やすことになる。

保護猫・小太郎

保護猫・小太郎。はじめは小顔で細かった・・・

犬仲間などそこを通る何人かに声をかけて、誰か保護できる人はいないか尋ねるが、うちはアパートだから・・・とか親が猫が嫌い嫁さんが猫がだめなどなど埒が明かない。保健所に迷子猫の届けもないし保護か収容を依頼しても犬は収容するが猫は・・・とにべもない。民間の保護団体に尋ねてもやはり届けはない云々。仕方がないので連れ合いに話して了承をえた上でうちで飼うことにする。以前うちに迷い込んできた子猫を結局飼ってやらなかったことに少し後ろめたさもあった。
高齢雑種犬がなんとか冬を乗り切った

実家には犬がいた。記憶にあるだけで4匹、いずれもどこかからもらわれてきた。うち1匹はビーグルであとは雑種。最後のタローは父親が死に母親を施設に入れたこともあって後半の8年ほどは私と連れ合いで面倒を見た。ただこの年になるまで猫は飼ったことがない。少し気楽に考えすぎていた。

三里塚の3月 その2

古典的レジスタンスゲリラはもう今のものではない

前の記事のモロトフのカクテル投擲の前にも出撃しています。その前日の深夜だったと思いますが、これも定かではありません。もう40数年前のことです。 ヘルメットにタオルといういつもの格好に鉄パイプを携え、ただしカクテルを持っていったかは記憶にありません。どこに行き何をするのかは知らされません。またそうした軍事機密について問わないという事を了解はしている程度には皆兵士でした。

灯りもない夜道をどの程度歩いたか小高い雑木林の丘に駐屯しました。ここで夜を明かすのかはたまた時間を合わせてどこかに夜襲をかけるのか、どちらにしろもう早く決めてくれよと苛ついていました。3月末とはいえ北総の台地の夜は冷え込むのです。どれくらい経ったか遠くにヘリコプターの飛行音が聞こえます。その音が大きくなり強いライトを点けたヘリが視認できるくらいになると、それがほぼ真っすぐに私たちの方へ向かって飛んでくるのが分かりました。ほどなくこちらに到着して頭上でホバリングします。手が届きそうなという表現はやはり大げさでしょうが、その時はそう感じました。投石すれば届きそうです。かなり低い高度であった事はたしかです。仰ぎ見るその機体はでかいし、頭の真上で聞くヘリの爆音や風圧は凄まじいものです。催涙ガスか着色放水でもくらうのかと怯えながらじっとしているしか術はありません。ずいぶん長い時間そうしていたようにも思いますがよく覚えていません。やがてヘリはそのまま去ってきました。

それから20〜30分ほどもしてからでしょうか。再びヘリが現れます。やはりまっすぐ私たちの頭上にやって来てホバリングします。何かしらの準備を整えてきて今度こそ攻撃されるのだろうと覚悟を決めて身構えていましたが、やはりそのまましばらく頭上にいて旋回して去っていきました。私たちもしばらくその場に待機していましたが、やがて作戦が変更されたのか単に指揮していたやつがびびったのか、そのまま何もせずに小屋に戻りました。衛星も含めたさまざまな監視網によって我々も含めた反対派の動向はあらかた把握されていたのでしょうが、ヘリの赤外線スコープによってこちらの人数など詳細を把握しにきたと思われます。2回目は、脅しとバレバレだぞお前らという警告か?

とりあえず作戦中止となったわけですが、何の目的で何が目標で夜中にそんなところに出張ったのか知らされていませんでしたし、もちろん今もわかりません。それでも一旦出撃した以上何もせずにすごすごと戻ることに強い敗北感がありました。それに、ここがベトナムであのヘリが米軍の攻撃用ヘリコプター・アパッチだったら、ロケット砲と機銃掃射を食らわされて最後にナパーム弾など落とされて、たちまち皆殺しにされていただろうなとか思っていました。まだベトナム戦争が終わって(サイゴンが開放されて)3年足らずでした。もっともベトナムの賢く勇敢な民族解放戦線のゲリラはこんな間抜けなことはしない。我々のやっていることは警察と国の過剰警備の境界線の隙間にうごめく半合法の戦いでしかない。まあ分かっていたことだけど。

私たちの行動もやはり筒抜けだったわけです。そのこともあらためて実感させられました。たぶんずっとどこかから昼夜を問わず監視されていた。それに当時(1970年代後半)すでに軍事衛星も実用化されていました。さすがに今のようにリアルタイムというわけではなく画像解析にはある程度時間はかかったかもしれません。それよりかなり時間は遡りますが、ベトナムですでに米軍は軍事衛星によるスパイを行っています。1968年のテト攻勢の時、ベトナムの総司令官であったボー・グエン・ザップはその事を承知の上で逆手にとります。ジャングルの空の見える空き地であえて顔を晒すように上を向いてバレーボールに興じた。司令官が呑気に遊んでいるのだから予想された攻勢はなかろうと油断させた云々。後に西側のテレビのインタビューでこのように回顧していました。あまりに出来すぎた話に思えて真偽は不明なのですが、軍事衛星による偵察というのがこの頃にはすでに実用化されていたということは確かなようです。少なくともザップはその事を分かって作戦立案していた。私たちはいかにも間抜けでした。

今、ウクライナ情勢を傍観してレジスタンスだ、義勇軍だと騒いでいる人たちの認識や感覚も当時の私たちと同じようなものでしょう。耳学問として偵察衛星とかGPSとかは頭にはあるのでしょうが・・・。私もそうですが、レジスタンスなんてもちろん実際には知りません。せいぜいが映画や記録フィルムなどで見たイメージしかありません。それはアイルランド独立戦争におけるIRAであったり、フランスの対独レジスタンスであったり、堅忍不抜の八路軍であったりします。山中の一本道を行軍してくる敵の正規軍をヤブと木立に身を潜めたレジスタンスが待ち伏せて迎え撃つ。そうした古典的レジスタンス像はすでに半世紀前には存在しえなくなっているのです。衛星やドローンによる監視システムと誘導ミサイルの現代ではなおさらでしょう。

三里塚の3月

火炎瓶では戦車と戦えない

モロトフのカクテルを作ってそれを実際に使ったのは40数年前の3月北総の台地でした。寝泊まりをする小屋に隣接する物置のような場所に行動隊として徴集されたメンバーが集められそのカクテルを作りました。私を含めほとんどのメンバーが、おそらくは作り方を指示していた者も初めての体験だったと思います。

もうその頃は腹をくくっていたのか楽しんで作業していた記憶があります。なるほど例のカクテルはこうして作るのかという興味もあります。それにね、思い出して下さい。20代前半(10代もいたかもしれません)の男女が何人か集まって一緒に作業するというのはそれだけでワクワクするものです。それに何かしら一緒にヤバイ事をやっているという共犯意識のようなものも互いの気分を高揚させます。学園祭の準備をしながらちょっとしたイタズラでもやらかすノリでしたか。カクテルには自動着火型と導火線型のおおまかに2つのタイプがあったと思います。つまり投擲して瓶が何かに当たって割れると自動的に着火するものとあらかじめ口に差し込んだ導火線様のものに火をつけてから投てきするものです。作ったのはその両方の折衷型のようなものであったと記憶しています。

その当日は、反対同盟の主催する午後からの集会とは別に朝から小学校跡地で開かれた突入三派中心の集会が開かれていました。その後者の方に参加してから現場に向かったように思いますが、必ずしも記憶に定かではありません。ただその三派のうちのひとつ(たしか第4インターだったか)の代表が集会での演説で涙声で、我々は組織をかけてたとえ組織が潰されても戦い抜く云々とアジっていた記憶があります。まあいわゆる新左翼党派の常套句ではあるのですが、その時はただならぬ気配をかもし出していました。後になってつまり彼らが実際に管制答に突入・占拠したと知った時、その演説の意味がわかりました。本当に組織の存続をかけていたんだ。死者の出ることも想定していたのではないか等など

空港を囲むフェンスの前に着くまでの記憶はありません。まったく土地勘のない現地で辿った道もそもそもそこが空港のどの辺りなのかも知りませんでした。その後も今もはっきりと分かっていないのですが、管制塔とか第5ゲートといった主戦場やその近辺でもありませんでした。やはり相応に緊張していたのだと思います。もっとも私たち兵隊はどこで何がやられるのかなど一切知らされていませんでした。雑木林の小道を抜けた少し傾斜のある草地に出ると、フェンスの向こう側には30人ほどの機動隊が待ち構えています。そこから空港敷地内に向かってカクテルを投てきするのですが、フェンスまで届きません。中身の詰まったビール瓶などせいぜいが15mから20mほどしか投げられません。それに多くのカクテルが不発でした。フェンス前のアスファルトの道路までも届かずに草地に落ちた瓶は割れません。割れた瓶も着火しません。仕方がないので導火線に火を着けてから投擲を試みますが、着火した途端に瓶ごと燃えだしそれが衣服に燃え移ったりもしました。足元が不安定な中でそうした不意の延焼にビビりながらでは余計にうまく投げられません。結局は戦果としては空港敷地前の草むらを何箇所か焼いただけでした。私たちの部隊というより集団は各個バラバラに目標も示されないまま適当に空港と機動隊に向かって瓶を投げているだけでした。その時に感じた虚しさと怒りを通り越した絶望感、それはまた別に書くべきことです。撤収の途上で管制塔を占拠しているらしいと伝えられてきましたが、まだ半信半疑でした。小屋に戻ってテレビを視て初めて戦いの全容らしきものが分かってきました。もちろん一緒にいた仲間と喜びあいましたが、自分もその一端を担ったのだという気持ちにはなれませんでした。

今、言っておくべきなのは所詮しろうとの作った火炎瓶などその程度の武器でしかないということです。そしてこれをまた訓練もされていない集団が使ってもさしたる威力もなく無駄な犠牲を生むだけです。現にその時の一連の闘争で3人の仲間が逮捕されました。それにその時私たちに向けられ撃たれた機動隊の催涙ガス弾が自動小銃であれば、たちまち全滅させられていたでしょう。


ロシアの侵略に対するウクライナの広い階層の人たちの防衛・反撃その準備の様子が伝えられています。義勇兵への志願、民間防衛組織の結成と武器使用などの訓練、中には火炎瓶の製造からその投擲訓練の模様も流されていました。こうしたものはおもに海外のメディアの提供する動画や画像としてテレビや新聞、それにネットニュースやSNSなどにあふれています。そこでは義勇軍志願兵レジスタンス武器を取る国を・街を・家族を守るなどの勇ましい言葉が流れています。まずいなと思います。

報道によれば今はウクライナの正規軍が組織と戦力を維持しながら頑張って持ちこたえているようです。こうした状況が保たれるなら素人の義勇軍やら民間の防衛隊にも後方支援とかせいぜいが兵站といった役割があたえられるでしょう。年寄りやひ弱な若者、子どもたちに武器を渡して前線に連れて行ってもかえって足手まといにしかならないくらいは、まともな軍人ならわかりきっているでしょう。まして火炎瓶などおもちゃ以下のシロモノだと相手にもされないでしょう。

しかし想像したくないことですが、もしロシアの軍隊が首都キーウ(キエフ)に突入し市街戦の末ウクライナ軍の組織的反抗が壊滅させられる。そうなった時、分断・孤立化された市内外の若者や子どもたちが、義憤と憎しみ愛国心とかヒロイズムにかきたてられ武器を手にします。中には火炎瓶を武器に戦車や装甲車と戦おうとする子どもたちが出てくるかもしれません。いやきっと出てくるでしょう。

『橋』というドイツ映画をご存知でしょうか。第二次世界大戦末期、徴兵年齢の引き下げにより昨日まで半ズボンを履いていた村の子どもたちが招集されます。老教師の説得にも耳をかしません。戦場に出さないため戦線から遠い村の橋の防衛という任務を与えられますが、いろいろな偶然も重なって結局その橋で連合国軍を迎え撃つことになります。投降の勧告も聞かず殺されていきます。実話をもとにした話だそうです。ヒトラー最後の映像と言われているのが、赤軍の迫るベルリンの首相官邸の庭で年端も行かない子どもを閲兵するパーキンソン病で手の震える老人の姿です。背の高さも着ている軍服も年齢もまちまちなその子どもたちを待ち受ける悲劇が、『ヒトラー 最後の12日間』に描かれています。守るべき祖国がウクライナかナチの第三帝国か神国日本かはたまたプーチンのロシアか、そんなこと子どもには関係ありません。

戦争の当事国の為政者やメディアが愛国心とか敵国への憎悪をあおり、軍人軍属以外の市井の人々の動員を呼びかけるのは常套手段です。今回のウクライナのように国力や軍事力に圧倒的に不利な場合はなおさらです。普段の理性的な判断を消し去るような狂信の渦を作らねば戦争など遂行できません。私はその手のファナティシズム(狂信的扇動)はすべてファシズムと同じだと思っています。大嫌いです。ただウクライナの人々がそうした自国の為政者やメディアの流すキャンペーンに賛同し、SNSなどを使って拡散するのは仕方がない。自分たちもその当事者であり結果はやがて自分の身に降りかかってきます。

それに対して海を隔てた遠い所にいて間違ってもミサイルや砲弾の飛んでこない又秘密警察に命を狙われることもない人間がウクライナを英雄視して義勇軍だ、レジスタンスだ、武器を取れだとネットで騒ぎ立てるのは犯罪だと思います。お気楽に他人の血や命を借りて、自分の熱さ男らしさをひけらかしたいだけの卑怯極まりない下劣な所業です。普段はネットの力だの世界に発信だとか言っているわけでしょう。そうしてお気軽に拡散されたものがやがては回りまわってウクライナや周辺の国に届き、そこの青年や子どもたちのヒロイズムや憎悪を焚き付けます。その中から火炎瓶でロシアの戦車と戦おうとする子どもたちが現れるかもしれません。間違ってもそんな事を引き起こさないように、そのためには卑怯者弱虫売国奴非国民などと罵られても止めさせる。それが私たち老人の役目だと信じます。それがまたかつて特攻や無謀で無意味な作戦でたくさんの若者や子どもの命を奪った日本の役目だと信じます。

「定額給付金」・10万円の使い方 

例の「特別定額給付金」が支払われました。その申請と「給付」の問題はまた別に触れます。

10万円のうち、とりあえず5万円を伊藤詩織さんの民事裁判を支える会 #Open the Black Boxにカンパしました。

1万円を反貧困ネットワークに、賛助会費(5000円)と「反貧困犬猫部」へのカンパ(5000円)として送りました。「反貧困ネットワーク」は都知事選に出馬を表明されている宇都宮けんじさんが代表世話人を務めています。その「犬猫部」は雨宮処凛かりんさんが代表です。彼女の「『昨日から私も犬も食べてません』。ペットとともに住まいを失った女性。の巻」という記事を読むと同じ犬を飼って暮らす者として他人事とは思えません。

あと2万円を職とすみかを奪われた外国人労働者や技能実習生を支援する地元での活動にカンパするつもりでその先を検討しています。残りの2万円は、自分の道楽もかねてなにか不要不急とされてしまったもの、コンサートとか小規模映画館に出かけて使おうと思います。多少なりと息苦しい生活をしてきたのですから、そうした使い方もかまわないと思います。

私たちの「世帯」は、連れ合いと私の二人です。私は半分リタイアした兼業主夫の木工屋です。今問題にされているフリーランスの人と実体はほとんど同じですが、さいわいなことに仕事はほそぼそながらいただいています。連れ合いは医療従事者です。 ですから「世帯」としての実収入は保証なき自粛下でもほとんど変わりません。だからといって辞退などする気はありませんでした。トランプのアメリカからイージスアショアなる無駄なシステムや人殺しの武器を爆買いしたり電通やパソナに中抜きされる税金を奪い返す、それで今本当に必要とされているところに回すために使います。私の大嫌いな大阪の元知事で元市長で声の大きな男が、90万円は自分のために使うとかほざいています。黙っていればそれでもかまわないのですが、それすら政敵攻撃のネタにするのがたいへん見苦しい。その点はまたあらためて。

ジョン・ケージ プリペアド・ピアノのための音楽
「地球は再び生まれる “And the Earth Shall Bear Again”」

以前、youtubeの動画は貼らないと書きましたが、この時期の気休めとして容赦ください。宣伝もありませんし。それにプリペアド・ピアノがどういうものか知るにはやはり視覚的要素(動画)があったほうがいいですね。

steffen schleiermacher : John Cage “And the Earth Shall Bear Again”

ジョン・ケージの初期のプリペアド・ピアノのための音楽です。もうこれくらいになると現代音楽と言うより古典ですよね。作曲されたのが1942年となっています。太平洋では、ミッドウェーで日本の連合艦隊が壊滅させられ、年末にはスターリングラードでドイツ軍が大敗します。戦争の流れの変わった年であったと今なら簡単に言ってしまいますが、当時アメリカにいたケージは何を思ってこんな標題をつけたのでしょう。” shall bear again”というのが、お気楽な「再生」とか「再建」といった意味でないことは曲想から感じられます。同じ時期に”In the Name of the Holocaust”と題された曲もあります。題名の詮索は別として、こちらはピアノの弦を爪弾いたり鍵盤を拳や肘で叩いたりとよりそれらしい奏法になっています。これも探せば動画がネットにあります。

鍵盤を拳で叩いたり弦を爪弾いたりあるいは弦の上に何かを載せたり挟んだりというのは、いかにも子どもがおもちゃのピアノでやりそうなことです。私も従姉妹の家にあったおもちゃのピアノでそうしたいたずらをした記憶があります。ケージの一連のプリペアド・ピアノの作品もそうしたことの延長上にあると思われますが、実用的理由(”practical reasns”)もあったようです。

後で紹介するMDGレーベルのCDの解説には以下のようにあります(意訳)。

ケージは大半のプリペアド・ピアノの曲をダンスパフォーマンス用に書いた。彼は1940年代にはたくさんのダンスグループ(とりわけマース・カニングハム)のピアノ伴奏者として旅した。打楽器のアンサンブルを連れて行くより、バックに消しゴムやボルトや木片や竹を詰め込む方がはるかに簡単で安上がりだった。どんな小さな劇場でも小さなグランドピアノくらいは置いてあった。

ケージのこの曲、あるいはプリペアド・ピアノのディスクもLP時代からいろいろあります。私の持っているものの紹介です。

JOHN CAGE Complete Piano Music : Steffen Schleiermacher

新しいMDGレーベルのケージのピアノ曲全集・10巻18枚組。演奏者は、上の動画の Steffen Schleiermacher。この人は同じMDGレーベルのハンス・アイスラー歌曲集全4巻の伴奏もしている。すでに絶版だが、このレーベルの録音は妙な加工をせず非常に素直でかつ鮮明で聞きやすい。プリペアド・ピアノの面白さを実感するにもお奨め。分売もされていますがその多くは在庫切れとなっています。

John Cage Complete music for prepared pian : Giancarlo Simoncci

こちらは、格安レーベル・Brilliant Classicsのプリペアド・ピアノのための音楽を集めたもの。3枚組。昔Naxosレーベルで出ていたもの。中古だと1,000円程度で買える。

「関心失えば壊れる憲法」『中日新聞』日曜版

中日新聞日曜版、内容はテキストに。
『中日新聞』2020年5月3日憲法記念日・日曜版

東海3県(愛知・三重・岐阜)を中心に発行部数2,200万部、購読者割合60%とされる中日新聞の日曜版で、こうした全面記事が子供向けに載せられるのは嬉しいことです。かの朝日新聞が政府批判にすっかり腰抜けになり、従前からの権威主義的な物言いばかりが目につくようになってしまいました。ときの権力者に対しては常に批判的で監視の目を持ち憲法を守るというのは最低限のメディアの役割でしょう。

見出しとイラストの説明にはこうあります。

13条 個人の尊重

憲法学者の多くが最重要と考える条文
  • おとなしい子、活発な子、スポーツが好きな子、勉強が好きな子
  • みなさんは一人一人違って、そのままで守られています

9条 平和主義

非武装は世界に先がけたルール
  • 戦争で悲惨な目に遭ったから、日本国憲法は誕生しました
  • もめ事は、戦いではなく、話し合いで解決する。それが私たちのルールです。

立憲主義

権力から国民を守る
  • 強い人が勝手にルールを決めて弱い人をいじめたりしたら困りますよね
  • 憲法は強い人たちに対するブレーキです

タケノコをもらった

向いの元陶芸家のお兄さんから掘ったばかりのタケノコをもらった。

向かいの人から頂いたタケノコ。頭が出かけているが十分食べられる。

例年親戚の山に掘りに行っていたのだが、この3年ほど不作でまったく取れない。今年はどこもとくにひどいようで、いつもの市場でもほとんど出回っていない。もっともいくら朝掘りとうたわれてもタケノコは買う気がしない。タケノコは生物なまもので、掘ってすぐに糠で湯がかないとアクがまわる。30分置くとダメだという人もいるくらいだ。まあ刺し身で食べるのでなければ、あまり神経質になることもないのだろうが、逆に掘ってすぐにアク抜きするのであれば、多少頭の出たものでも十分食べられる。別にグルメを気取るわけではないが、タケノコが放っておけば1日10センチ以上も伸びるようなシロモノなので、眠っている朝の間に掘って、すぐにアク抜きすべしという流儀も理解できる。こういうことが出来るのは田舎暮らしの利点だ。

まずは刺し身を三杯酢で。あとはシンプルに醤油と酒で炊いて鰹節をけずってまぶす。ワカメと合わす。筍御飯くらいは楽しめそう。

ルイス・セプルベダがコロナ肺炎で死んだ

ルイス・セプルベダが死んだ。スペインで新型コロナウイルス肺炎による合併症とのことだ。まだ70歳、若い。私と7歳しか違わないではないか。最近の画像を見ると随分太っていたし、ピノチェト独裁下でその手先やイスラエルのモサドやブラジルの秘密警察などのクズたちによって2年半にわたって虐待されてきた。そのあたりの陰惨なありさまは『パタゴニア・エキスプレス』の前半に書かれている。その後遺症もあるはずだ。

彼の書いたものはみな面白い。といっても私が読んだのは翻訳のある4冊・5作品だけだ。今は読み返す時間がない。ノートに写した抜粋を書き込む。

『ラブストーリーを読む老人』 旦敬介訳

アントニオ・ホセ・ボリーバルは字を読むことはできたが、書くことはできなかった。(中略)

読むのはゆっくりと、音節をつなぎあわせるようにしながら、まるで口のなかで味わうように小さな声に出して呟いていき、単語全体がつながるとひとつに続けて言ってみるのだった。それから文全体についても同じことをやっていき、そうしてページにちりばめられている感情や思想を読み取っていくという具合だった。

ある一節がとくに気に入ると、人間の言語というのもまた存外に美しいものでありうるのだと納得が出来るまで、何度でもくりかえして読んでみるのだった。

読書にはルーペを使った。これは所有物のなかで二番目に大事にしているものだった。一番目は、入れ歯だった。

p39-40

考えないようにしている自分の荒れた過去とはまったく異質な本だけをこれからは読みふけり、記憶の中に開かれている深淵は、果てしない愛の幸福と愛の苦悩で埋めていけばいいのだった。

p80

このアマゾンの川沿いに小屋を建てて一人ラブストーリーを読む老人は、もっとも好ましくも憧れる私のヒーローだ。彼は誇り高き現地の戦士にも認められた狩人で、アマゾンに金目当てにやってくる人間よりも、彼らを襲う山猫と心を通わせる。

『パタゴニア・エキスプレス』 安藤哲行訳

最後にイルカたちが姿を消すと、少年の喉からは鋭い金切り声が、漁師たちを警戒させ鶏を驚かすような甲高い音が出たが、それが一頭のイルカを呼び戻した。


そしてイルカはもどってきた。

パンチートは変わった。おしゃべりで陽気な子になり、自分の体が不自由なのを冗談の種にするくらいになった。急激に変わった。イルカとの遊びは六度の夏のあいだ繰り返された。パンチートは読み書きを、友だちのイルカを描くことを学んだ。ほかの子供たちと同じように網の修繕を手伝い、底荷の準備をし、海産物を干したが、水面を飛び跳ね、彼のためだけに素敵なショーを見せてくれる友だちのイルカといつもいっしょだった。

1990年の夏のある朝、イルカはいつもの約束の時間に姿を見せなかった。漁師たちは心配してイルカを探し、端から端まで海峡を調べた。見つからなかったが、海の殺し屋の一つ、ロシアの工船に出くわした。その船は海峡の二番目の狭い場所のごく近くを航行していた。

二ヶ月後、パンチート・バリーアは悲しみのあまり死んだ。泣きもせず愚痴もこぼさずに眠りについた。

p130-132

訳者の安藤哲行さん、本多勝一と八木啓代さん以外にアメリカ合州国という言葉を使う人がいたんだ。この本、全編どこまでフィクションかセプルベダの体験かわからないような物語が続く。その中でパンチートの話を抜粋した。ロシアの殺し屋ではなく、日本の殺し屋がオーストラリア近海に出没して、調査捕鯨と称して現地のウオッチャーが名前をつけて観察していたクジラを殺していた。その事を思いだしてしまった。

『カモメに飛ぶことを教えた猫』 河野万里子訳

でも本当は、きみは猫じゃない。(中略)きみのおかげでぼくたちは、自分とは違っている者を認め、尊重し、愛することを、知ったんだ。自分と似た者を認めたり愛したりすることは簡単だけど、違っている者の場合は、とてもむずかしい。でもきみといっしょに過ごすうちに、ぼくたちにはそれができるようになった。いいかい、きみは、カモメだ。

p122-123

これはもう教科書にもなっているらしい。大人も素直に読める、ああいい話だ。


『センチメンタルな殺し屋』に併載されている『ヤカレー』が、悲しくもとてもいい。アマゾンの二人の戦士が、自分たちの森の仲間を絶滅させて鞄にしたイタリアのデザインブランド一家を復讐のため殺しにくる。サスペンス仕立ての中に、滅ばされていく者や動物たちへの目がやさしくも痛々しい。 その森の仲間の遺体の中に隠れての決死行が痛快だ。