第64回 正倉院展

第64回正倉院展チケット

第64回正倉院展チケット

棚厨子たなずし

今年も正倉院展に行って来ました。今年の展示の目玉は、螺鈿紫檀琵琶らでんしたんのびわとか、瑠璃杯(るりのつきなどのようです。私的には、棚厨子たなずし(収納棚)を是非見たいと思っていました。

棚厨子図録

棚厨子図録

この棚厨子は、木工を生業にしようと本格的に勉強を始めた頃に書籍などで見てしっておりました。今手持ちの本の中では『木工の伝統技法』 梅田総太郎、『木工の鑑賞基礎知識』 木内武男に写真入りで紹介されています。特に前者では和風の棚の原形と紹介されており、実物を見たいとずっと思ってました。今回その念願かなって実物を目にすることが出来たわけです。

この棚の展示での扱いは極めて地味なものでした。事前の報道でも知る限り取り上げられることもなかったし、実際の展示でも他の宝物に比べてあまり関心を集めておらないようで、立ち止まって凝視する人もあまりおりませんでした。まあ、宝物というよりはそれらを収納するために什器という扱いなのでしょう。購入した図録の写真も、先にあげた2つの書物に収録されたものと同じものが使われておりました。つまり20年以上前に、調査のためかあるいは今回のように出展された時に撮られたものを使い回しされているのかもしれません。まあその程度の扱いをされているのは確かでしょう。

しかしながら、実用的な家具や木工品を作っているしがない木工屋としては、こうした1300年前の実用什器に大いに惹かれます。実物を目にして、また図録の解説を読んで、今まで不明な点があったその構造がわかりました。

スギ材を木表使いした素木しらき製の横長の棚で、三段からなる。台框上に、両端と真ん中に各一組ずつ柱を立て、柱部分を刳り抜いた一枚板からなる棚板を二段入れた上で、同じく一枚板からなる天板をめている。各板の固定には柱に孔を穿ってぬきを通し、さらにこれが抜けないよう鼻栓を施して停めている。天板・棚板と柱の交差点には鉄製の丸釘を打って補強するなど、堅牢な作りをみせる。天板・棚板はそれぞれ上面の周囲に面取りを施し、下面の中央は浅く刳るしゃくりを施している。なお、隅柱一本の下部と台框は新補である。

前掲の梅田総太郎さんによると材は桧となっていたが、実物を見ると図録にある通り杉のようです。それとこれまで見ていた写真では分からなかったのですが、棚板の上面が凹んでいます。四辺の縁の部分が残されているようにも見えますので、収納物の落下防止の為にしゃくっているのかとも見えます。それにしては平面を出さずに中央部にいくほど凹んでいます。ちょうど図録の棚板下部の説明がそのまま当てはまるような感じです。あるいは杉のような軟材を使っているので、収納物を出し入れを繰り返しているうちに削れてしまったのかなとも思いますが、よく分かりません。

図録の解説にあるように棚板の固定はきわめてシステマティックになされています。各パーツを規格化して、に開ける棚板固定の貫を通す孔の位置を変えれば、棚板の数・間隔を容易に変更することができます。あるいは、この棚は収納する宝物の種類、大きなに合わせて様々な設定のものが用意されていたのかなと考えるのも楽しいものです。いわばこれは天平の時代のエレクターのようなものでしょう。

紫檀金銀絵書几したんきんぎんえのしょき

紫檀金銀絵書几(したんきんぎんえのしょき)図録

紫檀金銀絵書几したんきんぎんえのしょき図録

もうひとつ今回の展示で興味を惹かれたものに紫檀金銀絵書几したんきんぎんえのしょきがありました。図録の解説には巻子かんすを広げて見るたのも書見台とあります。また一見して華奢な構造のため、日々の実用に耐えうるものであったとは考えがたい。(中略)本品は何らかの仏教儀式に用いられた可能性が考えられるだろう。とも書かれています。

しかし、これを一見した時、とても瀟洒な作りながら実用的で素敵だなあと思いました。正倉院の宝物には螺鈿紫檀琵琶らでんしたんのびわのように聖武天皇の遺愛の品の他に、もっぱら儀式・祭礼の用途に作られたものがあります。むしろそちらの方が多いくらいでしょうか。そうしたものは精緻を極めた作りに華麗な装飾が施された見事なものですが、実用を旨としたものを作っている立場からは、やはりどこかよそよそしさを感じてしまう場合があります。この紫檀金銀絵書几したんきんぎんえのしょきには、そうした印象を受けませんでした。巻子かんすのための書見台という点を除けば、近世の指物によく見られる書見台をさらに繊細にしたようにも思われます。今なら譜面台とかメニュースタンドとして応用出来るかもしれません。


第63回 正倉院展

今年も、行きました。例年、混雑を避けて平日の午後から入場するのですが、今年は例年になく入場者が少なかったように思います。入場の列はありましたが、とくに待つというでもなくすっと流れて入れました。私が行った日がたまたまだったのかもしれませんが、不景気とか震災自粛の影響なのでしょうか。

金銀鈿荘唐大刀

今回の出陳の目玉は、金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)でした。あらためて図録で見ると、装飾の細部の緻密さに感嘆させられます。そうしたものばかりに目がいってしまうとブルーノ・タウトの言ういかもの的な代物に思われるかもしれません。しかし、実物を目にすると一振りの大刀としての落ち着いた上品な佇まいを持っています。不思議なものです。(つか)には、鮫皮(エイ皮)が使ってあり、これなども下手をすると限りなく下品になるように思うのですが、蒔絵や銀、玉の他の装飾を引き締める別の質感をもったアクセントになっている様でもあり、よく吟味されているなあと感心させられます。

白木三鈷箱

白木三鈷箱

今回の出陳では、木工品それも実用に賦されたものがいくつかあり、我々木工屋にとっては楽しい。図録からいくつか載せておきます。そのうち、素木三鈷箱(しらきさんこのはこ)は、同時に出陳されている鉄三鈷(てつのさんこ)を収納するための箱です。2本のダボによる会わせ蓋となっています。その形状は、鉄三鈷のおどろおどろしい形と正反対に丸みを帯びた二つの花をあしらったような穏やかなものです。材はサクラだそうですが、鉄三鈷を納める部分は、きちんとその形状に合わせてエッジを効かせて見事に彫り上げられています。こういう仕事を見ると嬉しくなります。

柿厨子

柿厨子(かきのずし)


みつだえくもうさぎがたせきしつのひつ

密陀絵雲兎形赤漆櫃(みつだえくもうさぎがたせきしつのひつ)

そのほか、木工品だけでも複数の()や箱が出陳されています。それに復元された織物や漆皮の箱などがオリジナルのものと同時に見ることができて、これも面白い。などなど、いつもながら実用の家具や什器の制作に追われる身には心洗われるような展示です。会期は、11月14日(月)までです。

木の仕事展IN東海、終了しました

木の仕事展、終了しました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。今回は時間的にも空間的にもゆっくりと見て頂いて、出展者とも話してもらえて、たいへん良い展示会だったと思います。私は、BGMを担当して、木工房の都築さんが提供してくれたテーブルと椅子に座って、コーヒーとお茶も出すようにしました。これも来場者にゆっくりしてもらう機会きっかけになったようです。

出展者個々の売り上げなり宣伝に直結しないこうした合同展は意味がない、という意見を聞くこともあります。しかし、来場者にお話をうかがうと、こうして工芸でもなく、店舗や法人向けでもなく、個人向けの別注家具を作ってくれる所がある事を知らなかったと良く言われます。まだまだ、我々のような小規模家具工房は、その存在さえ認知されていないというのが現状です。今回の合同展のように、けっこう身近にそれぞれに個性と作風を持った小規模木工・家具工房があって、そこに相談したり細かい注文したり出来るという事を知ってもらうためにもこうした展示会は大いに有意義だと思います。

木の仕事展IN東海

買い物

手元にある300Bシングルアンプ2台のうち、1台は修理したものと同様初段のプレート抵抗が2Wの金属皮膜抵抗を使ってあった。これも、交換しておきたいと思ったが、もう手持ちの3W〜5Wの51KΩの酸金抵抗がない。何かのついでに名古屋の大須か、大阪の日本橋にでもよって買えばよいし、今ならネット通販でも買える。送料はかかるが、大須に出るだけでも電車代だけで1,480円もかかるから、かえって安い。

冷静に考えればそうなるが、一度思いつくと落ち着かない。ちょうど次の仕事に必要な金物(配線孔キャップ)もあるし、それも大須の電気屋街ならあるだろうし・・・と理由をこじつけて出かけた。少し寄り道をして買ってきたものは画像のとおり。

大須での買い物

  • 酸化金属皮膜抵抗・5W 51KΩ 4本 と 電解コンデンサー・160V 47μF 2個
    それぞれ単価は、80円と220円。これが本日のメイン。本当は、赤い円筒状のタイプのものが欲しかったのだが、これしかなかった。これは、従来の緑色のタイプの3W型より小さく頼りないが、耐熱性がよいのだろうと思っておく。
  • 老眼鏡
    老眼鏡をかけだしてまだ5年ほどだが、すでに誂えるのは4つ目になる。前のものは先日東北に行った際、陸前高田の材木屋かその前後の行程でなくした(たぶん)。その材木屋に行ったのは、そこが赤松を中心に商売しており、陸前高田の被災の松も扱っていたからだ。一緒に行った都築宏行さんがその事を事前に調べて、京都五山の送り火の件など話を聞きたいということだったのだ。さて、次に老眼鏡を作る時は、手元(読書用)ともう少し先(パソコンの液晶)に焦点のある近々または中近両用レンズというものにしようと思っていた。実際に試してみるとたしかに両方に焦点が合い快適であるが、少し目線を斜めに回すと象がゆがんで気分が悪くなる。上下左右で目線の動かし方が制約されて、なんだか目付きまで悪くなるような気もしてやめる。
  • ペンケース
    老眼鏡の出来るまでの時間つぶしに某関東電鉄系高級ホームセンターで見つけたもの、1,280円。けっこういろいろな種類の筆記具を持ち歩くほうなので、重宝しそうだ。ここの材木売り場に行くと、私たちが端材としてストーブの薪として人にあげたりしているようなものに何千円の値札がついていて驚く。それを商売と考えて、商業地区の一等地に並べることが出来るか否かという違いだ。私もアマチュア時代に大阪江坂までわざわざ出かけてこうしたものを買っていた。今、木工を仕事にしてみると、ここにはこうした材料はもちろん、道具すらもまともに使えるものは何も揃っていないということがわかる。
  • 紅茶(オレンジペコ)とスコーン
    帰りに名古屋駅前のこれも某関東系高級スーパーで購入。こんなものさえ、四日市では買いづらい。
  • 核のない世界へ!に行ってきました。

    服部良一衆議院議員を迎えての学習会に行ってきました。社民党の脱原発アクションプログラムの概要を直接聴けたのは良い機会でした。戻ってから、あらためてこのアクションプログラムをさっと一読しましたが、良くまとまって説得力もあると思いました。今の社民党で良くこれだけの物が作れたな、というのがむしろ正直な感想です。それだけ脱原発ということに力を注いでいるのでしょう。それに、もうそれくらいでないと、この党の存在価値はないとも思います。

    このプログラムの中で具体的に揚げられた数字で、目をひかれたのが東電管内での埋蔵電力(正確にはどう表現すべきか知りません)、つまり自家発電が500万KW、他社受電が700万KWあるということです。原発がないと、日本の産業がなりたたなくなるとか、また計画停電などをせざるをえないという電力会社とか産業界の恫喝に対しては、政策立案の立場からは具体的な数字を揚げることがやはり必要です。

    出席者は20人ほど、ほとんどが私より年長の人たちで、良一さんと学生運動をともにした京大出身者がメインという感じで、懐かしい顔もチラホラ。それはそれで、ずっと社会に対する問題意識を持ち続けているという事で、たいへん立派なことだと思います。しかし、話を聞いていると3月11日の震災以降、実際に東北の地に赴いたのは服部議員と私を除いて誰もいないのではないかと感じました。東電福島第一原電の事故も、東日本大震災の中で考えるとすればという事ですが、どこか、発想というか問題意識のあり方に私が見てきた被災地の現実との乖離を感じてしまいます。それに被災地のボランティアやこちらでの反原発の集会に集まった若い人たちが、スマートフォン片手にツイーターやSNSを使って軽やかに情報を発信し交換しあっている姿と、今日集まったおじさん、おばさん達とは絶望的に接点がないように感じました。それは単にジェネレイション・ギャップという言葉であらわされる以上のものがあるように思われます。それは、その双方にとって残念なことです。

    3月、一緒に石巻に行った60代の杉山裕次郎さんは、スマートフォンの使い手ですがツイーターはやっていません。私は、スマートフォンを持っていないしツイーターもしていませんし、これからもやらないと思います。それでも現地で活動している中で、ごく自然に単独で来ていた若い人たち何人かと活動と寝食をともにするようになっていました。今日も、京都での集会を企画して提案している人がその報告をしていました。いいなと思いました。3月の石巻には、原発の状況が非常に危険で、なおかつ今被災地に行くのはかえって迷惑だというおかしなキャンペーンがなされる中でも、たくさんの若い人がボランティアで来ていました。たいへん頼もしいし、これからの社会を動かしていくのもそうした若い人たちであるのは間違いありません。具体的に体を動かすことで、自分たちおじさん達もそうした流の中に入ることは可能です。もし私たちに伝えるべき経験というものがあるなら、そうして自分の体を動かすことでしか出来ないでしょう。

    あるお客さんに聞いたのですが、その人のお父さんは退職した警察官だそうです。それで愛知県の退職した警察官が集まって福島の汚染地域の治安維持にあたる部隊を作ったそうです。もう年だから勝手にさせておくと、その人は言ってましたが、かっこいいなと思いました。東電や国の対応を批判して自分や家族の身を守るために活動するというのは、当然の権利ですし、そのために反原発の声をもっとあげるべきだとも思います。ですが今も東北では被曝の恐怖の中で人が暮らしているし、若い人たちがボランティアで赴いています。これを言うと誤解をまねくのですが、私のように50代も後半以上のおじさん、おばさん達は自分たちが放射線の盾になる、せめて若い人たちだけに危ない目はさせないというくらいの気概がないと、本当に世の中はかわらないように思います。

    曼珠沙華(彼岸花)


    つきぬけて 天上の紺 曼珠沙華

    この山口誓子の句を読むと研ぎすまされた日本語の表現力はすばらしいなと思います。

    曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花は、つきぬけるように空に伸びその青と鮮やかな対比をなしている。平たく言えばそういう情景を詠んだ句なのでしょう。つきぬけてという言葉からは、あるいは田の畔に寝ころんで、彼岸花の花弁を通して空を見上げるとそう感じるのかしらと思ったり。また、逆に白い雲をつきぬけて宇宙につながる紺青の空に鮮やかな紅の花弁がある、といったきらめく色の対比の世界を夢想してみたり。この句は、秋の澄んだ空、田の畔や堤防に咲き誇る彼岸花、そうした目に入る諸々の秋の景色を、様々な視点・視座から一挙に鳥瞰して大きな世界を描いているように感じます


    彼岸花を地表から見上げる

    可動式のライブビューカメラ(LUMIX G1)だとこうしたアングルからの撮影も可能

    同じような感慨は蕪村の有名な句菜の花や月は東に日は西にを読んだときにも持ちます。わずか17文字の言葉で、身近な光景からこんなに広い世界にまで思いを寄せることが出来るのは本当にすばらしい。

    この句は、学生の頃に教えてもらいました。はがきに手ずからの彼岸花の小さなイラストと共にこの句が書かれていました。私たちがかつて一緒に通った高校のグランドに沿って流れる小さな川が、昔は彼岸花の宝庫であったともありました。少し恥をさらすと、私はこの句の(こん)(ひも)だと長い間思い込んでいました。今時の娘と違って整ったちゃんとした字を書く人だったのですが、無粋で無教養だった私はそう読み違えていたのです。字面は似てますよね。それでへんな句だなと思いながら、彼岸花の花弁を紡いて真紅の紐にして天上のお釈迦様は何かにお使いになっていると考えるのも一興ということか、などと思っていました。カンダタがぶら下がったのも蜘蛛の糸ではなくて、この赤い紐かもしれない云々。それはそれでこの花の彼岸に咲くということを含めた禁忌めいたいわれを表現しているとも考えたりしていました。

    だれにどう言われたとか聞いたからという記憶はないのですが、私もこの花をなんとなく遠ざけて楽しめないものと感じてきました。灰谷健次郎さんの『太陽の子』にもその冒頭にこの花の咲く丘に親子で出かけるシーンがありました。そこでもこの花は死を象徴する不吉なものとして扱われていたと思います。その中で、白い彼岸花を主人公のふうちゃんが見つけます。私も一度だけ白い彼岸花を見つけたことがあります。菰野町の今はオーナーが変わってしまった蕎麦処『菊井』から「菰野富士」と呼ばれる小高い山に行く道すがら林道から少し脇にそれた小道の際でした。珍しいものを見つけたという軽い興奮もあったのですが、この『太陽の子』のシーンが思い出されて不吉なものに出会ってしまったという思いにとらわれてしまいました。その時は大阪からの友人を案内していたのですが、しばらく暗い気分で、でも逆に妙に饒舌にこの花やそれにまつわる『太陽の子』のことを話した記憶があります。

    この花は、田の畦や堤防など人里の周辺に見られます。飢饉の際の救荒食であったとも有害鳥獣を避けるため毒をもつこの花を田の畦に植えたとも言われています。そのあたりから禁忌なイメージも作られているのは確かなようですし、今も田や堤防の草刈ではこの花を避けて刈られています。しかし、動物がこの花を避けるというのはどうも事実とも思えません。画像は散歩中の実家の犬ですが、別に嫌がっている様子もなくかき分けて、別のシソに似た草を食んでいます。

    彼岸花に分け入る草をはむ飼い犬

    どろぼう市場

    展示会の関係で月曜日の朝まで大阪は釜ヶ崎の簡易宿泊所(ビジネスホテル)にいた。せっかく日曜日の朝にここにいるのだからと、南海線のガード沿いのどろぼう市場を覗くことにする。以前(といっても10年以上前になる)に比べて明らかに店の数も少なく、活気もない。以前はどこからも持ってきたか(それこそどろぼう市場の名の由来であろうが)電動工具の中古品やらわけありそうなものが並んでいて、それ目当ての客も相応にたむろしていた。現に私の知人の同業者でも、ここで電動工具をあらかた揃えたと言っていたヤツもいたくらいだ。今は複製品のDVDやら、たしかこんなものもあったなあといった類の電化製品、なんに使うのだろうというガラクタのようなものがブルーシートに寂しく並んでいる。

    それでも中に、少し大きめの薄い台に、これも薄手の一枚刃の鉋身を仕込んだものがひとつあった。地金もスの入った柔そうなもので裏も腐れもない。見るからに木口削り用の鉋で、荒使いにも重宝しそうで値段を聞くと1,000円と答える。600〜700円程度にまでなら値切れそうだ。ずいぶん迷ったが、もうこれ以上物や道具は増やさないと決めているので買わなかった。

    もう時間も遅かったせいか(午前6時前)、職安近辺の道路には4~5台の手配師の車が並んでいたが、やる気もなさそうに車の中で新聞など読んでいる。年齢・風体からいって私などとくに違和感もなさそうと思うのだが、声もかからない。原発からみで、また悪質な手配師の出入りが多くなったと聞いていたのだが・・・。十数年まえに所用で三角公園(わかる人にはわかるでしょう)の前から少し路地を入ったところにある労働組合事務所に行ったところ、その路地のそこかしこでやられていた野球賭博のオッズか星取表のようなものをあわてて取り込んで、文字通り脱兎のごとく中に隠れるという光景を目にする。不思議に思って、その組合の人に尋ねるとああ、私服(警官)と思われたのだろうとのこと。まあ、当時からガタイはでかかったが、そんな人相が悪いかなあとあまり気分は良くなかった。そこから出るときは、もう安心されてたか皆なにもないように博打に興じていた。そういえば、昨年ここに泊まった時は、夜は覚せい剤の売人と覚しき中近東風の人間が結構たむろしていたのだが、それも取締の関係か今回は見ない。これはありがたい。

    釜ヶ崎

    木の仕事の会主催の木の仕事展´11に出展させてもらっている。そのため今日から三日間大阪泊となる。最近は大阪に泊まるときはもっぱら釜ヶ崎のドヤ(簡易宿泊所)にしている。かつての労働者の街もいまや半ば高齢者とバックパッカーの街となり、こうした宿泊所の客も半数は外国人という感じだ。それも微妙な住み分けがあるようで前に泊まった一泊1,500円なりの宿は中国人や韓国人と思しきアジア系の人たちが多かった。中の案内の表記もハングルや中国語が英語とならんであった。今日の一泊2,000円のところは英語表記のみで、客も白人のしかも女が多い。ムームーのようなだらしないワンピ姿で足を組んで、一階の無料のネットパソコンを占領している。一旦外に出て2時間後くらいに戻ったらまだその一段がパソコンをいじっていた。

    釜ヶ崎の簡易宿泊所街

    500円の違いは、歯ブラシやバスタオルのあるなしと、ネット環境の違いか?しかし無線LANに接続しようとすると、無数のアクセスポイントがある。となりの宿のそれの方が無線が強かったりする。バックパッカーとりわけ海外からの人にとってはネット環境というのはある意味必須の条件だろうな。5年ほど前に訪れたイギリスやアイルランドのネット環境が、多少は時代の違いはあるとは言え極めて貧弱だった事を考えると当然に無線LANが使えて、しかも無料使用のパソコンが並んでいるというのは、まあすごいことなんだろうなとは思う。

    部屋に入ると少し汗臭いのは、この手の宿はどこも同じ。それと今回はバスタオルがどこかタバコ臭いぞ。喫煙者は両方ともおそらく気にならないというか気がつかないような話。そんなこともあるかと自前でバスタオルを持ってきたのでそれを使う。洗濯機も簡単な調理器具もあるが、普通の金銭感覚ならそんな物必要ないほど近辺は食うのも飲むのも安い。一般に思われているよりよほど治安もいいし、その意味ではここは天国釜ヶ崎というのは変わらないと思う。