餅つきでした

今日は連れ合いの実家の餅つき。これまで年末の仕事の追い込みで不義理をしていたが、今年は義兄をはじめ男性が病気やら都合やらで不足していることもあり杵つき要員として参加する。三重と岐阜の県境にある山村であるが、近年はNHKの朝の「連続テレビ小説」 のヒロイン(実在の著名な編集者)の父親の出身地として知られているらしい。餅つきの最中に犬を連れて通りかかったご婦人がいて、あのひとはその(ヒロインのモデルの)従姉妹とか言われていた。 一昨日の雪が村内に積もっている。

一昨日の雪の残る村内。
RICOH GXR S10

例年盆と正月には泊まりがけで帰省している。その時は色々すったもんだしながらタローも連れて行った。今回も正月の予行もかねて太郎を乗せていこうとした。ここに連れてこられた時も愛護団体のスタッフの軽自動車に乗せられて来たので、大丈夫なのだろうと勝手に判断していた。ところが車のドアを開けた段階で4本の脚を踏ん張って低い姿勢をとって拒絶する。単に狭いところ知らないところに入れられるのが不安で嫌というより、明確な拒否という反応だ。リードを引いても言葉をかけても決して動こうとはしない。結局あきらめて、少し冷静に考えると無理強いするのもかわいそうに思えてきた。保健所に保護されて以降、車に乗せられて良いことなんぞなかっただろう。去勢手術・ワクチン接種の病院、トレーナーとか預かりボランティアなどいくら善意からとは言え車に乗せられタライ回しのような生活をさせられてきたとも言える、犬の立場からは。ここに来たのもその一環でもあるのだ。

犬でも90ミリ相当のレンズで撮るとそれらしく写る。
OLYMPUS PEN E-P5 M.ZUIKO 45mm F1.8

太郎には他にも一般に躾けと言われることや我々への接し方で不安定さのようなものを感じる事がある。それもこれもこれまでの過ぎ越しからくる情緒不安や人間との関係への根深いところの不信のようなものがあるのかなあ。あっても仕方がないと思う。それもまたかわいそうに思えてくる。基本、かわいい良いやつだし。焦らずじっくりと取り敢えずは、もうここにずっていてもいいのだと思ってくれまで過ごしてもらうのが第一だと考えている。

ペット親ばかブログと言われてもかまわないと居直って、これからは犬の画像を載せる。

太郎のトライアル5日目

太郎とは、12月10日(日)の四日市動物愛護団体つむぎさん主催の譲渡会で出会いました。以前に地域誌に載った記事で、この会と譲渡会について知りました。10月の譲渡会にも出向いたのですが、開催場所が分からずに引き返していました(南部丘陵公園の南ゾーンの別の駐車場に行っていました)。まだその時はタローは健在でしたが、かなり弱ってはいました。若い仲間が一緒にいると元気になるという話も聞いていたので、相性はあるが大人しい若い犬はいないか捜してみたい。それと白状するとタローが亡くなった後に、別の犬をもらってくるのに色々な譲渡や引取・保護の情報を得ておきたいという思いもありました。

12月16日。4日目で少しは慣れたかというリラックスポーズ。後ろはおもちゃにした私の長靴。

12月10日というと、タローが死んでちょうど1週間目でした。タローに関係したものは火葬の翌日にはあらかた処分してしまったですが、未開封のエサと衛生用品はとってありました。わずかですがそれが犬猫を保護養育している団体で役に立ててもらえるならと考えました。ついでにどんな犬が保護されて譲渡先をもとめているのか一度見てみたいと思ったのです。

10時開始には少し早くついてしまったのですが、エサと衛生用品を気持ちよく受け取ってもらい、連れてこられている犬たちを見せてもらいました。大半の犬は少しの距離をあけてリードで繋がれています。ゲージの中ではありません。ですから撫でたりあやしたりも出来ます。それぞれの犬の近くに簡単なステッカー状のプレートがかけられています。そこに名前・犬種・雌雄・年齢(推定も含む)・フィラリアの有無・狂犬病ワクチンの接種歴・性格についてのコメントなどが書かれています。そこに「太郎」の他に「タロウ」もいました。

その「タロウ」は、タローとよく似た茶色の雑種犬でした。ややこしいですが、我が家にもといたのは「タロー」です。父親が付けた名前ですが「ー」という音引き(長音記号)で、譲渡会にいたのが「タロウ」と「ウ」を使ったカタカナの長音表記になります。そのタロウですが、雑種・雄・10才・14キロ・おとなしく人懐っこい性格とありました。スタッフの人に聞くと、元の飼い主のおじいさんが亡くなられて引き取ってきたとの事でした。虐待されたり、飼育放棄されたわけではないようです。ずいぶん心惹かれたのですが、亡くなったタローと似ている分なにかと比較してしまうのではないか。それにタローに比べると姿形も少々不細工です。まあそれは暫く一緒にいれば慣れるでしょう。もうひとつ気になったのは、10才という年齢の割には顔も体つきも老けて見えることです。もとの飼い主が高齢だったため散歩も含めた健康管理がどうだったのかなとも思ったりしました。つまりは、またすぐに死なれたりしたらかなわない。あとでスタッフの人に聞けば、ここにいる犬はみな預かりボランティアのもとで飼われているので、引取り手がないからと殺処分されてしまうわけではないらしい。それで少し安心して、次に書くように「太郎」の方はすでに譲渡を希望する人がいるらしいので、あと何回かこの譲渡会を訪れて貰い手がないようであれば余生を過ごしてもらうつもりで引き取ってもいいかと考えたりしました。

「太郎」はひと目でああいい犬だと思いました。20キロと譲渡会の中でもひときわ大きな犬ですが、顔つきや仕草に攻撃的・威嚇的なところが全くない。スタッフによるとむしろ甘えん坊で困るそうです。鈴鹿の保健所で保護されて、鑑札もなく、迷子の問い合わせもないまま「つむぎ」さんに引き取られたそうです。これも飼育放棄されたかその来歴は不明ですが、少なくとも人間に対する恐怖や憎しみは宿していないようです。ただし、「太郎」にはすでに譲渡を希望する人がいると聞かされました。

こちらを見ながら途中から左の方へ小首をかしげたりする。

そうした仕草も含めて「なんだかゲイっぽい」というのは連れ合いの言。手前のクロックスのパチもんも齧られ壊滅状態。
NIKON D300

 

「つむぎ」さんは誰彼なしに犬猫を譲渡するわけではありません。私もまずは、住環境・家族構成・犬の飼育歴などに関する身上調書を書きました。その上でスタッフが自宅(飼育場所)を訪れて面接します。それからトライアル期間として希望する犬を一定期間預かることになります。そうして犬も人間も双方ストレスなく過ごすことが出来ると判断したなら、正式に契約して必要な経費を支払うことになります。太郎の場合、後日明細は明らかにするが去勢手術代などもあって5万円くらいは考えておいて欲しいと言われました。トライアル期間はエサも小屋もリードなどの道具も無償で貸与されます。これはよく考えられた、おそらくは色々な経験を踏まえて作られたシステムなのでしょう。無責任な思いつきや、タダでもらえるのだろうという安直な考えの人間や、住環境も家族の合意や関係もふさわしくない所に犬を渡さない。それは「つむぎ」さんの活動の目的が虐待や飼育放棄で最悪殺処分される犬を保護し、きちんと育ててくれる人の元に届けるという事になるからでしょう。

太郎には、すでに譲渡希望の人がいてほとんど決まっていると言われました。ただし譲渡は先着順で決めるわけではないとも言われました。それは仕方がないし、今後のこともあるので面接と自宅訪問はお願いしておきました。ところがその夜、面接の日取りを決める電話で、先の希望者が辞退したので訪問の当日からトライアルを開始することも可能なので太郎を連れて行こうかと提案されました。半ば諦めかけていたので驚いたのですが、連れ合いも合意してくれたし、これも縁だと感じて連れて来てもらいました。

もうひとつ書いておくと、「タロー」という音の犬が2頭もいたのが愉快で不思議でした。まあ和犬系の雄の名前としてはありきたりとも言えるのですが、「太郎」と「タロウ」のように漢字だったり表記が微妙に違うのも面白いですよね。おなじ呼び名で、タローの代わり扱いは構わない、でもそれぞれ違う個性なんだぜと言われているようです。


そんな経過で12日、譲渡会から2日後に太郎が我が家にやってきました。それからわずか5日ですが、少しずつ太郎も慣れて馴染んでくれています。私たちも、もう返す気は毛頭ありません。つむぎのスタッフからも一度様子伺いの電話を頂きましたが、服部さんのところなら安心と言ってくれています。年内には正式な手続きを済ませて、年が明けて少し仕事に余裕が出来たらタローには結局作ってやれなかった小屋を作ろうと思っています。

タローが太郎を呼んでくれた、と思いたい

四日市動物愛護団体つむぎさんによって保護・養育されていた太郎君を今日から連れて来てもらいました。推定年齢5〜6才、紀州犬(もしくはその雑種)、去勢雄、20Kg、おとなしいなかなかのイケメンです。とりあえず暫くはトライアル期間となりますが、もうこちらからお引き取り願うことはないでしょう。詳しくは後日。

若い、でかい、性格は若い時のタローに似ています。

マッチョだ!おとなしい奴だが、色々気をつけねば。

タローを火葬した

昼、仕事場から食事に戻っても物音もせず生き物の気配もない。それが随分味気ないものだと今さら分かった。連れ合いがこんなことを言います。

タローは一人ではどこへも出かけないから、いつもここに居てくれたんだ。

帰ってくると普通にタローが居て、場合によっては散歩や餌の催促でバタバタ音を立てたり鳴き声を出したりと反応していた。 当たり前のように思っていたが、それが得難い日常の慰藉(いしゃ)だったのだ。とくにここに戻って一人で母親の病院や施設に通い看取ったりもした5年あまりは、こいつがいなかったらどうなっていた事だろうかと思う。と、いい年をして若干のペットロス状態です。いや年をとったからか。

2016年4月22日、こう見ると小さかったが、飼い主がでかいからかそう見えるのか。
DMC-GX7

 

3日にタローが死んで、翌日の4日の16時半(一応心肺停止24時間後)には市内のペット斎場で火葬しました。立会・骨上げもして他一切のオプションなしで20,000円(税込み)でした。市のクリーンセンター(清掃工場)に持ち込めば1,620円ですみますし、多くの人はそうしています。冷凍庫に安置して数がまとまった段階で焼却するとの事でした。もちろん骨上げなど出来ません。それでいいのですが、今回は色々思うことがあって個別火葬を謳う業者にお願いしました。骨上げの妙な作法(竹と木の箸で2方から挟んで壺に納める)を指示されない以外は人間の斎場と同じような段取りになります。次の5日の午前中には小屋や餌のトレイや残った餌やおやつ、晩年の薬や介護用品なども全て片付けました。骨をいつもの散歩道だった川沿いに散骨して、残りは庭に埋めてその上に金柑の苗木を植えて弔いとしました。人間の場合は、四十九日を過ぎてとなるのですが、要らぬしがらみも不要不急なものも持たない犬の場合はなるだけ早く簡素にすませるのがふさわしいと思います。家の中での折々の静寂を逆に不自然に思い寂しさを募らせますが、それにも暫くすれば慣れることでしょう。

タローが死んだ

我が家の高齢雑種犬・タローが今日の午後4時頃に死にました。16歳と4ヶ月にわずかに足りない、今時の飼い犬としては平均的な寿命だったのでしょう。

2017年11月1日。近所の空き地。もう歩けなくなっていたが暫し日に当てるために連れ出していた。
KOWA PROMINAR 8.5mm PEN E-P5

昨晩、臭いのきつい軟便(宿便)を出し、今朝がたは最後と思われる尿をだしたばかりでした。もともと何によらず手のかからない奴でしたが、最後もあっさりと逝ってくれました。ただ夜勤に出た連れ合いが戻るまで待っていて欲しかったとは思いますが、雄とか男は無理に頑張らないものかな。長い距離の散歩が出来なくなって1年余、自力歩行が出来なくなってほぼ4ヶ月、自分で寝返りも出来ないような寝たきり状態になり、摂食も排便も介助が必要になって約2週間、最後に餌を食べて2日(一昨日の夜)、最後に水を飲んで1日(昨日の朝)でした。ちゃんと死ぬ兆候を順に示してくれたおかげで、こちらも心構えと必要な準備も出来ていました。明日、息を引き取ってからちょうど24時間後くらいの時間に火葬してもらいます。元気で毎朝夜明け前(季節により5時から6時)散歩の催促にガサガサ暴れ出した頃から、要介護状態になった最近まで、生活のリズムとはりのようなものを与え続けてくれていました。最近の食事や排泄の介助も慣れてくると、よりスキンシップ的な近い関係のように思われて、それはそれで楽しくなってきていました。

もともと父親がこの家で飼いはじめた犬でした。父親が亡くなって私がこの家に戻ってきて8年ほどを一緒に過ごしたことになります。連れ合いとは2年余り。この家では、タローが近所の間では一番の古株になります。 散歩のおりの声かけとか、以前から繰り返して父親も私も困らせた脱走騒動の思い出話とかで、近所の人たちとも仲良くしてもらうようになりました。このあたりは、中野孝次さんが『ハラスのいた日々』に描かれていた通りでした。

失くした画像ファイルが出てきた

11月2日は父親の、19日は母親の命日でした。それぞれ8年目と4年目になります。一昨年は7回忌と3回忌の法要を合わせて行い、兄弟とごく親しい親族それに母親の友人にだけ集まってもらいました。

もう10年以上使っているWindows XPのパソコンを入れ替えました。替えたといっても2,980円(+送料800円)の中古パソコンでWindows 7pro・ドライブなし・リカバリーCD付きというものです。どうせ仕事の伝票や葉書・ラベルの印刷とjw_cadくらいしか使わないので、それで充分なのです。私はマイクロソフトもアップルも色々な意味で全く信用していないし、こんなグローバリズムの代表のような企業の製品を自分のメインの道具(コンピュータ)として使う気になれません。

それで古いXPのディスクを整理していたら失くした思っていた画像ファイルを見つけました。印刷のためメインのパソコンからコピーしていたのだと思います。今はLinuxでも普通に印刷は出来ますが、色々と印刷の細かい設定はWindowsの方がやりやすい。これはまあOSのシェアから言って仕方がない。むしろプリンター各社がよくLinux用のドライバーを公開してくれていると思います。出てきたファイルがこれです。2012年4月10日、実家の近くの海蔵川に伯母と母親と私の3人で花見に出かけたおりの写真です(こうした場合、デジカメのExifデータというのは本当に便利です)。老婆の写真など見たくもないと思われるでしょうが、ブログなんて半分以上は自己満足と備忘録のようなものと思って容赦ください。車椅子に乗っているのが母親で、それを押しているのが伯母です。この頃は母親はもう介護施設に入所していました。伯母に頼んで海苔巻きなど弁当を作ってもらって、施設から連れ出しました。もう認知症のかなり進んでいた母親は、こんないい所、初めて来たとか繰り返しながら、たいへん喜んでいました。

車椅子の母親とそれを押す伯母

海蔵川、2012年4月10日

いずれも、NIKON1 V1

この写真を撮った翌年の11月に母親は亡くなっています。痩せて老いさらばえてはいますが、まだこの頃は死相のようなものは現れていません。翌年の4月には、その前月の圧迫骨折の影響もあって花見どころではありませんでした。仕方なく施設の近くの公園の桜まで連れだしたのですが、痛がって早く帰りたがるばかりでした。その時来てくれていた兄と弟にもう年内もたないかもしれないと言ったのを覚えています。そして実際そうなりました。伯母もこの4年後の3月に亡くなるのですが、この頃はまだ元気で妹の車椅子を押して歩くことも出来たのだと感慨深くなります。二人は色々と確執めいたものもあったと子供ながら多少は見知ってきました。でも最後の写真を今見ると、3年程の月日の経過はありますが、老いた姉妹が二人して花のトンネルを抜けて別の世界に逝ってしまったのだと思えてしまいます。

『朝日』の記事がひどい!
教科書の文章がピンチ、それが理解できない?『朝日』の記者・編集者に日本語やその読解力を語る資格はない

11月7日付けの朝日新聞デジタルの記事、教科書の文章、理解できる?中高生の読解力がピンチを読んで腹がたって仕方がない。

この『朝日』の記事を一読してその主旨に納得し賛同したとしたら、あなたも相当にピンチなイヤな中高年になっています。よく言われる今の若者は・・・の無自覚で無責任なオヤジの一人だと言う事です。

まずは、この記事に引用されている4つの教科書の文章は、いずれもひどい悪文です。理解しにくい、誤読しやすい文章です。あえて言うなら良く試験の5択問題(誤っているものを選べ)にある引っ掛け回答、つまりわざと間違いやすく誤読しやすように書かれた文章のようですらあります。具体的に見てきます。

最初に、記事の冒頭にあるメジャーリーグ選手の出身国の内訳の記述です。

朝日新聞デジタル11月7日付け

メジャーリーグの選手のうち28%はアメリカ合衆国以外の出身の選手であるが、その出身国を見ると、ドミニカ共和国が最も多くおよそ35%である。

単純に文章として読んでみても、選手という言葉が重複して使われて煩わしい。ここは、アメリカ合衆国以外の出身である。として、句点で区切ったほうがはるかにすっきりした分かりやすい文章になると思う。その点はまあ置いておく。この文章は、文章自体の論理からいうと、問に対する答えは特定出来ない。つまりその出身国そのが、メジャーリーグの選手をさすのか、アメリカ合衆国以外の出身の選手をさすのか、判別できない。28%と35%という数字の大小の包含関係からそのが、 アメリカ合衆国以外の出身の選手をさしているのが分かる。ちなみにこの35%を10%と換えてみると、これはどちらとも解釈可能になる。つまり、そのメジャーリーグの選手として、メジャーリーグではアメリカ合州国出身の選手が72%、ドミニカ共和国出身が10%、その他の出身の選手が18%と読んでも理解としては、正しい。少なくとも間違った読み方とは言えない。正答の②の図とも合うしね。文章が悪いのだ。

多少譲って、これはそうした数字などコンテンツの分析も含んだ読解の問題なのだと言われるかもしれない。だが、この元の教科書は『中学生の地理』なのだ。アメリカ合州国の野球選手の出身地が多様化しているということを伝えるのが主題だろう。そうであれば、より論旨明確に分かりやすく伝える書き方がある。たとえば、下のように合衆国以外の選手全体のというフレーズを加えるだけで、はるかに分かりやすくなる。

メジャーリーグの選手のうち28%はアメリカ合衆国以外の出身の選手である。その出身国を見ると、ドミニカ共和国が最も多く合衆国以外の選手全体のおよそ35%である。


2番めの『新しい社会 歴史』から引用された文章も、読点の打ち方がデタラメで下手をするといかようのも解釈可能な酷い悪文だが、設問自体が下劣でここでは省く


3番目の文章も酷い。どうも英語の教科書か副読本の引用のようだが、こんな文章である。

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexasandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

ここから、Alexandraの愛称は( )である。という設問に4択で答えさせている。答えはAlexなのだが、ここでは、文章(質問者)自体に言葉の定義に問題がある。通常の日本の概念から言えば、名前で、この場合では、AlexandraAlexanderが、それにあたる。それに対してAlexは、愛称でしょう。ところが、Alexは・・・名前で、・・・愛称で、・・・愛称でと文章自体に言葉の定義の不一致があって、その事で回答にためらいが出てくる。これも意図的にしているとすると、野球選手の出身の問題と一緒で、一種の引っかけ問題(受験者を間違わせるための設問)のようだ。


最後の『地理』の教科書からの問題例ですが、これはもう言葉を失います。読点乱用でまともな日本語になっていません。試しに読んでみて下さい。

仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている。

これは、並列して書かれている名詞(地域名)の間を読点ではなく・(ナカグロ)とすればまだなんとか読むことはできる。

仏教は東南アジア・東アジアに、キリスト教はヨーロッパ・南北アメリカ・オセアニアに、イスラム教は北アフリカ・西アジア・中央アジア・東南アジアにおもに広がっている。

こんな酷い文章が教科書で、それをまた天下の公器たる大新聞の記者が無批判に引用して中高生の読解力がと表題をつけて載せているのですから、情けない限りです。お前も朝日新聞の記者なら、大先輩の本多勝一の書いた『日本語の作文技術』でも一度読んでみたらどうか。そこには、読点のことも詳しく書かれている。その程度の基本的文献も読まずに駄文・悪文を書きなぐって金をもらっているのか。

この朝日の記事を読んでまず思ったのは、こんな酷い文章の教科書を今の中高生たちは与えられているのかという事です。そしてそれを元にしたここにある設問が、これも破廉恥と言うレベルで酷い。読解力を試すというより、よくある引っ掛け問題で受験者を間違わせるための設問です。こんな仕打ちをされて、教科書の文章、理解できる?中高生の読解力がピンチなどと言われる今の中高生がかわいそうですし、ひたすら申し訳なくなります。それにこの体言止めのネット用語のようなゲレツな表題も気分が悪い。これが平気になっているとしたら、もうあなたの言葉の感覚は、汚いネット言語に相当麻痺させられていると思います。子どもたちも、こんな表題や記事を書いたり載せたりする奴に読解力などと言われたくないですよね。


よくゆとり世代が〜と言われます。それに先行する教育課程を履修した人間が若い世代を侮蔑するのに使われているようです。これなど、年寄りの定番の今の若いものはと同じ事です。この記事に引用された教科書やそれに基づく設問をこうして読まされると、ゆとり呼ばわりしているそうした50代の連中を共通1次・センター試験世代と呼びたくなります。こうした誤読させる間違わせるための文書を解読するのが、読解力であり、それをもとにした引っかけ問題の罠をくぐり抜けてきた要領だけの良い人間が評価されている。そうした連中が、自分のくぐってきた不毛な罠を下の世代にも強要して、それを上手くこなせない当たり前の感覚に対して罵倒を浴びせている。そのようにしか思えません。

第69回 正倉院展に行ってきました  1

公開講座・『正倉院の鏡』

第69回正倉院展に行ってきました。最近は、会期中に3回ほど行われる公開講座を受講してから閲覧するようにしています。この公開講座は、おもに奈良国立博物館の学芸部研究員が担当して、それぞれの専門分野の最新の成果を紹介してくれています。毎回よく出来たレジュメとプレゼンテーション、時間配分もほぼ完璧になされています。入念な準備に加え、おそらくリハーサルもされているものと思います。こうした講座の場合、現役の若い学芸員などの担当するものは、有意義で面白いものが多い。それに対して、館長とか、所長とか、名誉なにがしといった年寄りのものは、概して冗長で内容がなく下らないものになりがちです。もう第一線の研究に対する関心も緊張感もなく、惰性と昔の研究の記憶やプライドだけしかないのと、その割にはまわりから持ち上げられてしまうからでしょう。


昨年、名古屋市美術館の藤田嗣治展に合わせて開かれた講演会はひどいものでした。私が行ったのは、副館長の深谷某という人間の番でした。ダラダラと藤田の縁戚関係とかエピソードが語られます。それもたいていは藤田の甥の蘆原 英了や、『評伝』を書いた読売新聞の田中穣の本にある内容です。それで、この調子で続けると予定した内容の半分も終わらない云々という言い訳兼ウケ狙いの戯言を5回以上も繰り返していたでしょうか。結局なにが言いたいのか話の主旨もわからないまま終わりました。まったくの時間の無駄でした。結局この御仁はまともな準備もしないまま話をした無責任野郎か、根っからのウツケのどちらかでしょう。


正倉院展の公開講座に戻ります。11月4日は、中川あやさんという研究員の『正倉院の鏡』と題する講座でした。後で調べると京大の文学部と修士課程を修了した39歳の気鋭の才媛でした。良く出来た懇切丁寧なレジュメ・プレゼンと論旨明瞭、滑舌良好なお話しぶりで惹きつけられます。正倉院のそれぞれ北倉と南倉に収められた鏡を唐で製作されたものか、日本で製作されたものか、前者であればその年代と持ち帰られた遣唐使の推定などを史料をもとに推測・分類されます。北倉に収められたものは、ほとんどが唐製の最新のものであるとして、その理由をあげられます。まだ活字には出来ないがとして、桓武天皇や光明皇后が新しいもの好き、舶来品好きだったのでは、とユーモアを混じえて話されていました。これまで漠然と見てきた正倉院の鏡ですが、そうした由来なども頭に見るとまた新鮮な驚きと感慨があります。

それと、当時の日本製の鏡は、唐のそれと似せようとして頑張ったが残念!違うというものだったと具体的なデザインなどの例をあげて説明されていました。この時代に限らない中国の文化への模倣の長い歴史を考えると、ごく最近の中国のコピー商品をあげつらって民度やら国民性まで云々するのは恥ずかしいことだとあらためて思います。