映画 『チリの戦い』を観た

先週、久しぶりに映画を見てきました。シニア割引という対象年齢になってはじめてになります。『チリの戦い』という、チリのアジェンデ首班による人民連合政権と、それに対するピノチェトによる軍事クーデターの記録映画です。3部構成で、午前11時から午後4時過ぎまでの5時間通しです。途中入れ替えによる休憩はありましたが、やはり辛かったです。ただ、同じシネマテークで昨年観たクロード・ランズマンの『不正義の果て』のように、3時間以上も延々と立て板に水のような言い訳と自己弁護を聞かされる苦痛よりはマシです。戦いの記録ですから。もっともランズマンの『ショア』も、『不正義の果て』も、あえて無編集のように延々と映像を見せつけることで、ホロコーストとそれに携わった人間の闇の深さと恐ろしさを表していたと思います。

以下、まとまらない感想をいくつか羅列します。


アジェンデ(チリ社会党)による人民連合政権というのは、選挙によって成立した初めての社会主義政権ということでした。当時中学から高校生であった私も昂奮して見ていました。日本でも東京、大阪など大都市をはじめとして各地で革新自治体が誕生して、やがては民主連合政権なるものが実現するかもしれないという淡い期待を持ったりしました。

自分の言葉に責任を持って戦った政治家がいたのだ。それで、反乱した軍の辞任と亡命の勧告を拒否して、空爆と戦車の砲撃する官邸に留まって死んだ。死を覚悟したアジェンデの最後の演説というのは、本当に感動的です。もともと医者であった彼が、チリ国民への呼びかけの最初に女性をあげているのも、彼の理想の社会主義というのがどういうものだったのかうかがい知ることができます。今は、この映画だけでなく、ネットでその肉声を日本語訳の字幕つきで聴くことが出来ます。

中南米の人たちにとって、9.11というのは、長らくこの1973年9月11日、アメリカの後ろ盾によるピノチェトの軍事クーデターの日のことだったそうです。あるいは今もそうかもしれません。選挙で選ばれた大統領を、その官邸を戦闘機と戦車で攻撃して殺してしまったのです。きっとアメリカに対する9.11で、快哉を叫んだのはパレスチナの人に限らなかったことでしょう。そういえば、東欧革命のあと東ドイツを追われたホーネッカーを受け入れたのがチリでした。ピノチェトの死後、再び民主化の戦いが進められていた最中でしたが、なにか奇異に思えました。ピノチェトのクーデターの時、人民連合の活動家などの多くのチリの人々の亡命を受け入れたのが、ホーネッカーの東ドイツだったからだそうです。ホーネッカーは、ルーマニアのチャウシェスクと並んで、東欧のもっとも残忍で頑迷な独裁者とされていたのですが、いろいろな見方あるし、あるべきだと思いました。

この時代のチリの「新しい歌」運動の担い手であったビオレッタ・パラ、ビクトル・ハラ、キラパジュン、インティ・イリマニなどのレコードを、かつて四条木屋町にあったコンセール四条というレコードショップなどに注文して買っていました。今のように簡単にネット通販で手に入る時代ではありませんでした。ハラは、クーデター後、政治犯を収容したサッカー場で撲殺されてしまいました。この人たちの歌は、今聞き返してみても、単なる懐かしさだけのふやけたフォークソングとは違います。ノーベル文学賞とやらで持てる者にも結局受け入れられる音楽でもない中南米の働く人々の息吹のようなものが感じられます。この映画の第3部にキラパジュンが登場します。当たり前ですが、皆、若い!

久しぶりに取り出して聴いてみたインティ・イリマニ(左)とキラパジュン(右)のLP

久しぶりに取り出して聴いてみたインティ・イリマニ(左)とキラパジュン(右)のLP

「ホリイ」ではなくて「サカタ」だったか? 前の記事の訂正

前の記事で、ホリイの謄写版について、良くない記憶があると書いてしまいました。少し気になってネットを徘徊してみると、当時私たちの周りで萬古と並んで使われていた謄写版はホリイではなくサカタだったのではと考えるようになりました。

ひとつは神戸にある雑駁商会さんのブログ記事・「サカタ謄写版」に載せられたサカタのロゴのシール見覚えがありました。40年近く前のことですが、この特徴的な色使いとフォントが記憶に残っている気がします。まあ、これもいい加減なものですが、どこか懐かしさを感じて初めて見たように思えないのです。

もうひとつ、『ガリ版ものがたり』の志村章子さんのガリ版ネットワーク日誌[2001年6月]に、関西方面からの恵贈品で多いのが「萬古」と「サカタ」ブランド。中古の謄写版から、当時の市場を知ることができる。とありました。萬古もサカタも大阪発祥の会社のようですし、関西では普及していたのかな。むしろ謄写版のリーディングカンパニーであった「ホリイ」のものは、高価で貧乏な学生団体では買えなかったのかもしれません。中国に叩き売られる前の、IBMのThinkPadが高すぎて買えなかったのと同じかな。志村さんの前掲書によると、ホリイは2002年に倒産しています。かと言って、というかだからこそ、あいまいな記憶で、いい加減な事を書いてはいけないと反省しております。

ガリ版伝承館に行ってきた

雨の中休みのような先週・10月1日(土)、東近江市のガリ版伝承館と、西堀榮三郎記念探検の殿堂に行ってきた。

ガリ版伝承館。創業者の堀井家の旧宅とのこと。

ガリ版伝承館。創業者の堀井家の旧宅とのこと。

前者は、以前から気になっていた。懐かしさ半分、それと65歳になったらパソコン・インターネットをやめると公言していることもあって(65歳までに止めること、する事)、自分にとっての原初的な情報発信とか記憶伝承の方法としてガリ版というのもあるかなと思ったりしていた。実際に、鉄筆、ヤスリ、ロウ原紙を目にすると時間のフィルターで淡くぼかされていた記憶が、リアルな感覚を伴ってよみがえる。あの鉄筆でロウ原紙を刻んでいく作業は、指と手首を緊張させ、相応に神経を使う作業だったのだ。それを10代の終わりから20代のはじめにかけて、連日のように繰り返していた。若く、肩こりというものを知らなかった当時だからやれたものの、今ならとても無理そうだ。そのせいで、すっかり癖となった金釘流の文字と重い筆圧というものに、その後ずっと悩まされていた。これは本当に、おもな筆記の手段がいったんキーボードに代わるまで続いた。

「ホリイ」製の謄写版

「ホリイ」製の謄写版



どうも下の記述で、「ホリイ」の謄写版と思っていたのは、当時関西で普及していたという「サカタ」のものだったのではと訂正します。いい加減な記憶でものを書いて申し訳ありませんでした。[2016年10月23日]


なんでも凝り性だった私は、ガリ切り(カットと言っていた)とか、謄写版による印刷(こちらはスットと言った)にも多少のこだわりがあって、通常1000枚刷る事ができれば上出来だったロウ原紙と謄写版で、2000枚慎重にやれば3000枚近く刷ることが出来た。そんな事、今となっては何の自慢にもならないのだが、そうしたこだわりの中で、謄写版は萬古(ばんこ)「堀井」の二つのメーカーのものがあり、使い勝手とか作りの良さとかで、「萬古」のものの方がずいぶん上等に思えた。当時の学生自治会のボックスとか、寮の作業部屋には、たいてい複数の謄写版が並んでいた。「萬古」のものが多数を占めていたように記憶しているが、たまに先客がいる場合など、空いている「堀井」の器械を使った。堀井のものは全体に作りが悪く、快適で安定した作業が出来ない。謄写版というのは、単純な機構のものだが、下の台、ロウ原紙と絹のスクリーンを固定してインクの着いたローラーに押され続ける枠、それを絆ぐ丁番など、相応の負荷を受けながらスムーズに安定した動作が保たれないとリズムよく印刷が出来ない。


当時は、堀井が特許を持っていた創業社だとは知らなかった。むしろ、萬古と比べて品質の落ちる安物の製品しか作れない二流メーカーだと思っていた。そんな事も関係しているのか、堀井謄写堂ホリイ株式会社は、倒産してしまったようだが、萬古は、バンコ株式会社として、今も存在している。加えて、今も鉄筆を販売している。どうも、ペーパークラフトとかネイルアートに使えるらしい。

ガリ切りに使うヤスリ、修正液、鉄筆、ロウ原紙など。

ガリ切りに使うヤスリ、修正液、鉄筆、ロウ原紙など。

ロウ原紙、鉄筆、ヤスリ、ブラシと机の上に並べられていると、昔日の作業環境を思い出すが、一つ足りないことに気付く。当時、スパノールという商品名の薬品を使っていた。それとブラシを使って、ヤスリにこびりついたロウ原紙のカスをこそぎ落とすのだ。これもほとんど必需品と言えた。これは今もある工業用の洗浄剤のようだが、一般には市販されていない(さすがのネット通販でも見ない)。これを今から40年も前に、背広姿のおじさんが夜の大学の怪しげで雑然とした学生自治会の部屋や寮に売りに来ていた。良くしたもので、ちょうど在庫が切れそうな頃を見計らったように来る。今思うと、あの人はいったい何だったのだろう?まあ、それで助かっていたのだからいいのだけれど、不思議な気がする。本来の大学の業務用には、普通に昼間にまとめて納入するだろうから、問屋か小売店の営業マンがノルマの帳尻合わせか、あるいは横流しの小遣い稼ぎだったのか?ほとんど毎日のように大量のビラ類がまかれていた当時の京大なら、我々以外の○○同盟とか、×学同とか合わせるとそこそこの量はさばけただろうなと思う。

アクセスエラーのお詫び

昨日、久々に更新しようと思って管理ページ(ダッシュボード)にアクセスしたら、真っ白な画面しか表示されません。ブログの通常のトップページも同様です。chromeで、アクセスしたら、http error 500 と出ました。要するにサーバー内部のエラーのようですが、同じサーバー内のホームページの方は普通に表示されます。いつからこうなっていたのか、更新をサボっていたため分かりませんが、せっかくアクセスして下さった皆さま、申し訳ありませんでした。

レンタルサーバー会社にメールで問い合わせると、こちら(クライアント)でインストールしたwordpressの動作に関しては立ち入れないが、たぶん.htaccessの記述ミスか、phpからみだろうとの事。.htaccessは、以前に弄って、やはりアクセス出来なくなったので、初期のままに戻してあります。それで、教えて貰った方法でphpエラーを表示させると、以下のようなメッセージが出ました。

Fatal error: Class ‘slim_browscap_db’ not found in /home/rokutaru/www/blog/wp-content/plugins/wp-slimstat/browscap/browser.php on line 22

要するに、wp-slimstatというプラグインが悪さをしているようで、このプラグインを更新してからおかしくなったのか?それで、FTPでアクセスして、乱暴にこのプラグインをディレクトリごと削除したら、何事もなかったかのように復帰。


wordpressを運用している皆さん、おかしなプラグインは入れないほうが良いです。それで、もし私のようにアクセスエラーになったら、FTPからアクセスして、プラグインディレクトリ("wordpressのディレクトリ"/wp-content/plugins/)の下のディレクトリとファイルを全部を一端削除してしまうとよいかもしれません。必要なプラグインは、復帰したらまた入れ直したら良いだけです。

定点観測

久しぶりの休日の晴れ間に、KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8を持ち出してみた。いずれも老雑種犬・タローの散歩コースだ。

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 LUMIX DMC-GX7 9月25日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 / LUMIX DMC-GX7 9月25日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 LUMIX DMC-GX7 4月8日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 / LUMIX DMC-GX7 4月8日


KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 LUMIX DMC-GX7 9月25日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 / LUMIX DMC-GX7 9月25日 。中に白い彼岸花が3輪。

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 LUMIX DMC-GX7 4月8日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 / LUMIX DMC-GX7 4月8日


KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 LUMIX DMC-GX7 9月25日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 / LUMIX DMC-GX7 9月25日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 4月8日

KOWA PROMINAR 8.5mm F2.8 / LUMIX DMC-GX7 4月8日


おまけ。老犬の背中の上の彼岸花に、2匹のアゲハチョウがカップリング中。

中央付近に2匹のアゲハチョウがいます。

中央付近に2匹のアゲハチョウがいます。


いずれも、レンズ側で絞りを8にして撮っている。カメラ側のモードを絞り優先AEにしておけば、自動で露出(シャッター速度)を決めてくれる。フォーカスは、無限遠付近にしておいて、カメラのフォーカスアシストを使って一応確認しながら撮っているが、8まで絞れば、ほぼパンフォーカスと言える。MFレンズだからといって、とくに難しい訳でもない。ただ、こうした屋外でMFレンズを使う場合は、ファインダー(光学、EVF)は必須だ。

ネットにおける著作権 1 わたしのサイトからの画像盗用について

別に大仰な議論を展開しようというつもりはありません。後で述べるように、わたし自身のサイトからの画像の盗用の問題に触れるために、自分なりに問題を整理したいだけです。また、しばしば映画や楽曲の違法コピーの流布・販売として問題になる著作財産権の問題は触れません。あくまでも、自分が書いた文章や、撮影・編集した画像のささやかではあれ、絶対的な権利とそれの盗用の問題についての私見です。

他人のコンテンツを拝借するのは、引用盗用のどちらかである

色々なサイトの日本語による著作権表示を見ると、転載転用無断転用引用などの言葉が使われています。基本は、それらすべてを禁止した上で、そのために、やれ事前承認が必要とか、事前連絡が必要とか、あります。その言葉の定義とか使わけ、違いがよく分かりません。おそらくこんなことを書いているサイト管理者も、よく分からずに何かの雛形か、もともとのブログやサイトのテンプレートをそのまま使っているのでしょう。

ネット上で、他のサイトの画像や文章や他のすべてのコンテンツ(嫌いな言葉ですが、こうした例ではよく使われるのであえて書きます)を、自分のサイトに取り込むには、引用盗用の二つしかありません。どちらか一方です。上にあげたようなその他の、転載転用無断転用などという言葉は、それを曖昧にしているだけです。

引用元(出典)を明記しないものはすべて盗用である

その引用と盗用のどこが違うかは、原著作者名と引用元(出典)を明記するかしないかだけです。そして、原則としてすべての引用は、引用元の承認や通知と無関係にすべて合法であるべきです。逆に、引用元(出典)を明記しない転載はすべて盗用であり犯罪です。ついうっかりとか、盗用の意識はなかったというのは、関係ありません。よく盗用者が言い訳にするそうした口実は、少なくとも現在の日本の法規範の基礎をなす意識・常識から言って不当な言い逃れにすぎません。これはまた別に書きます。

たとえば夏休みの宿題で、一枚の絵を描いて提出という課題があるとします。私たちの頃は、定番でした。まあ、別に子どもの宿題ではなくて、公募展への応募と考えてもいいでしょう。どこかに他人の描いた絵かポスターが張り出してあったとします。人に見てもらうために敢えて外に掲示してありました。それを無断で持ってきて、自分の描いた絵だとして宿題として、あるいは公募展への応募として提出したら、それは許される行為ではありませんね。もう少し言えば他人をあざむく詐欺であり犯罪です。他人の管理するサイトから無断で画像を持ってきて、自分のサイトに原著作者名や出典などなしに貼り付けるのはそれと同じことです。あとであげるわたしのミズメの画像の盗用などは、パクってきた写真を自分の個展の写真の中に、こっそり混ぜて展示するようなものです。

引用の例

具体的な例をあげます。まずは、引用です。よい例です。DIY FACTORYというサイトの、オーク(ナラ)材の特徴と、DIYで扱う場合の加工や塗装方法について。というページに、わたしのサイトからミズナラの森の写真が使われています。ただし、出典 roktal.comとして、そこにわたしのサイトへのリンクが貼られています。事前にも事後にも連絡をもらっていませんが、今回自分の画像転用を調べている際に見つけました。もちろん正当な引用でありまったく問題はありません。むしろ元の画像は、家具材料にされる樹木の姿とかその森の様子を家具や木工に関心のある人に触れて欲しいと思って載せたものです。ですから、こうしたDIYを運営するサイトにおいて材料としてのナラを解説する一環として画像を使ってもらうのは大歓迎です。それが営業のサイトであるか、ボランタリーなサイトであるかも関係ありません。

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引用されたミズナラの森の画像


盗用の悪質な例 2件

8年間も盗用され続けていた

今度は、盗用されている例をあげます。わたしの本サイトのミズメという記事にある画像が、あるサイトに8年間も盗用されています。下の画像です。ちなみに、この画像の元のデジカメデータは、そのEXIFとともに保存してあります。盗用者に居直られたり逆ギレされたりした時のために、こうした元のオリジナルデータは保存しておくべきだと今回痛感しました。

盗用されたミズメの幹の画像

前者は所属する会のブログへの投稿、後者は個人ブログのようですが、投稿者したがって盗用者は同一のように思われます、特に後者の記事では、他の多くの花などの画像が並ぶなかで、わたしのサイトから盗用したミズメの画像が貼られています。善意の第三者が見れば、この画像も投稿者である浅木、及び定年生活なる人物が撮影・編集したものと当然思うことでしょう。盗用者は、分別のあるはずの定年生活者であり、サポートレンジャーとか指導員とか呼ばれる人のようですが、少なくともネットの世界においては良識とか定見とかとは無縁な人物のようです。実に不愉快です。

盗人猛々しい同業者サイト

読んでくださっている人も不愉快だと思いますが、もう一件画像盗用の例におつきあい下さい。こちらは商用のサイトであり建築設計業務という広い意味で同業者であること。他人の画像を盗用しながら、自分ではぬけぬけと著作権表示を自分のサイトでしていることなど、かなり悪質です。

こちらはタクミホームズ提供する建築用語集ー現場で使える建築用語の中の1ページです。ここに、わたしのサイトの留隠蟻組・座卓の製作の中の画像が、盗用されています。この画像はわたしの工房の中で、三脚を立ててタイマーを使って撮りました。部材の後ろに写っているのは、わたしの足です・・・。これもオリジナルデータがあります。

盗用された留隠蟻組座卓の画像

この盗用者のサイトには、他にもたくさんの画像があります。そのすべてがパクリとは思いません。管理人や社員が撮ったものもあるでしょう。それなら、こうした作業中に仕掛品の写真を撮って編集するというのが、そこそこ手間がかかるというのは分かっているはずです。それを承知で他人のサイトからパクってきて載せるというのは、いかにもさもしい行為だと思います。それにいやしくもを名乗っているなら、これくらいの組手は、見本としてでも自分たちで作ったらよいでしょう。なんだか画像(わたしの仕事)に対する説明もおかしいですしね。自分でおやりなさい。

それとさらに許しがたいのは、このサイトのトップページには、Copyright kenchikuyogo.com All Rights Reservedとヌケヌケと著作権表示がしてあることです。著作権表示の件は、また別記事で触れたいと思いますが、それ自体に法律的な意味はありません。こうした表示をしようがしまいが全ての著作物は、それが出来た段階で著作権が発生します。それを敢えて表示するのは、まあこけ脅しのようなものです。しかし、ここのようなパクリサイトにこれをやられると別の意味を感じます。All Rights Reserved、つまり、パクったわたしの画像も含めて全ての権利を保持すると言っているのです。盗人(ぬすっと)猛々(たけだけ)しいとは、こうしたことです。他人の物を盗んできて、あらためてこれはオレのものだオレに権利(著作権)があると言っているのだから、もうあきれる他ありません。

画像のパクリは、簡単に分かるようになった(くやしいがGoogle様のおかげ)

ご存知の人も多いと思いますが、ネット上の画像の盗用を調べるのは実に簡単に出来るようになりました。興味があれば、Google 画像検索とかで検索してみれば、そのやり方はすぐに分かります。わたしも最近その事を知って、試しに自分のサイトの画像を調べてみたのです。そうすると盗用先が出てくる出てくる。かなり暗い気分になって途中でやめていましました。もうね、特に公的、社会的、あるいは商業サイトでもない個人がやっているブログなどは、どうでも良いかという気になります。ただ、上にあげた例のように、特に悪質と思われるものは、ネットにおける最低限の良識とか秩序を守るためにも晒していこうと思います。

藤田嗣治の戦争画について 2


哈爾哈ハルハ河畔之戦闘》について

《哈爾哈河畔之戦闘》は、藤田嗣治が戦争画のエースとしてのめり込むように製作を始める端緒となったと言われています。製作の経過からも内容からも、そうだったと思われます。その間の経緯を少し見ておきます。

1938年5月に、陸軍の「中支那派遣軍報道部」(上海)というところが、8人の洋画家を招待して絵画の製作を依頼します。翌年7月、その「作品」は、第1回聖戦美術展に出品されのちに最初の作戦記録画とされたそうです。対抗するように同年9月、海軍軍事普及部が、6人の洋画家を中国南部・中部に派遣、一人2点の絵を委嘱します(「『作戦記録画』小史 1937〜1945」 河田明久  所収)。 この中に藤田嗣治が含まれています(その他、藤島武二、石井柏亭、石川寅治、田辺至、中村研二)。

南昌飛行場の焼打 『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

南昌飛行場の焼打
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

武漢進撃
『藤田嗣治画集 異郷』を撮影

この時、藤田の描いた作戦記録画2点、《南昌ナンチャン飛行場の焼打》と《武漢ウーハン進撃》は、翌々年1941年5月の第5回大日本海洋美術展に出展されます。この2点の絵は、この後に描かれることになる暗く禍々しさにあふれた玉砕画に比べると、なんとも気の抜けたような絵に思えます。そもそもどんな作戦を記録した絵なのかもよく分かりません。《南昌飛行場の焼打ち》は、まだエコール・ド・パリの乳白色に繊細な線描というフジタらしさを感じさせる絵かもしれません。中央から右側に大きく描かれた飛行機とその搭乗員などは非常に細密に繊細に描かれています。遠方に黒煙がたなびき、破壊された青天白日の国章のついた飛行機などもあります。しかし、「作戦」の緊張感は感じられません。もう1枚の《武漢進撃》となると、さらにこれのどこが、「作戦記録画」なのかわかりません。一応長江が舞台としてもただそこを小さな軍用鑑が進んでいるだけ。絵としても面白くもない拙劣な出来で、2枚提出というノルマによって、いやいやながら描いただけの絵のように見えます。

この《武漢進撃》の製作年を見ると1938〜1940年となっています(7)。中国への従軍の約半年後の39年4月、藤田はフランスへ行きます。ナチのパリ占領から逃げるように日本に戻るのが翌40年7月です。早描きで知られた藤田が、この軍の宿題たる作戦記録画を、2年間も放り出してパリへ行っていたということになるのでしょうか?この時期のパリ行についても、色々取りざたされた(されている)ようです。田中穣などは、洋行帰りに甘い日本画壇に対してもう一度”国際画家フジタ”のメッキをつけなおしてくる必要がある9 p234)と思い立ったためとしています。とにもかくにも、この時期までの藤田は、戦争画に対して積極的に取り組む意欲を持っていなかったのは確かでしょう。

ところが、40年7月にパリから戻った時から藤田は変わります。パリでは、迫り来るドイツ軍の占領を目前にした喧騒を目の当たりにしてきたわけですし、戻った日本も1年の間に随分変わっています。国家総動員法が施行され、この年から画家だけでなく、文学者や音楽家も次々に従軍して中国へ向かっています。社会の変化に敏感で抜け目のない藤田が、そうした動向に気付かないはずがない。帰国早々にトレードマークにしていたオカッパ頭を角刈りにします。それを、毎日新聞にスクープさせ大々的に報道させます(田中穣・)。エコール・ド・パリのフジタから、国家総動員体制下の臣民・藤田への転身をアピールしたのでしょう。

その40年9月から、前年のノモンハン事件の指揮をとった退役中将荻洲立兵からの依頼で、《哈爾哈河畔之戦闘》を描くことになります。軍からの委嘱ではなく退役軍人とはいえ個人の依頼で描いた絵は、後に陸軍に献納されて作戦記録画となる。製作にあたり荻洲の斡旋で戦闘の舞台となった中国東北部に取材し、戦車や戦闘機にも搭乗したといいます。

藤田の甥で、当時慶応に在学中で藤田のアトリエの近くのアパートにくらしていた葦原英了は、その間の様子について次のように書いています。

荻洲中将というのは、ノモンハン事件に参加して、敗戦の責を負って予備役に編入された人である。この人は戦死した部下の霊をねぎらうために、自分の貰った一時賜金を全部投げ出して、永久に記念として残る戦争画の製作をフジタへ依頼してきたのであった。

フジタがこの絵から戦争記録画に本腰を入れ出したというのは、依頼者の頑張りが何をおいてもフジタを圧倒し尽くしたということである。荻洲中将は何かといえば製作中のアトリエに現れ、兵隊の鉄砲の持ち方がいけないの、バンドの締め方が間違っているのと指摘した。そしてお仕舞いには実物の兵隊を陸軍から借りてきて、アトリエでポーズさせたりした。鉄兜に網をかぶせて、その網目に草やら葉のついた小枝をさしたりした兵隊が、広くもない庭を駆け廻ったり、伏せたり、鉄砲を打つ恰好をしたりしていた。ノモンハンの草原に生えている草花をありのまま描いてもらいたいというわけで、フジタを現地に派遣すべく尽力して、遂にそれを実現させたほどの頑張り方であった。

フジタは荻洲中将の余りにも強い熱意に、初めのうちはたじたじだったが、次第に戦争画そのものに興味を覚えてゆくようだった。戦闘帽のデッサンから、鉄兜、靴、背嚢、水筒、ゲートル、さては小銃、短剣、機関銃、迫撃砲、大砲など兵器に至るデッサンまで何百枚と出来た。戦車にも乗ったり、戦闘機にも乗ったりした。そして戦車や戦闘機の絵もたくさん描かれた。上空の雲の絵までが何十枚と出来たいた。戦争期記録画に必要なこういうデタイユが、腕を通してフジタの知識となった。そうして、フジタは次第次第に戦争画に熱意を覚えていった。

葦原英了 「小説 藤田嗣治」『芸術新潮』1950年5月号 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』2007年9月 新宿書房 11 所収

哈爾哈河畔之戦闘 上 全体 下 部分 『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

哈爾哈河畔之戦闘
上 全体 下 部分
『藤田嗣治画集 異郷』林洋子監修・小学館を撮影

さて、この当初退役軍人という一個人の委嘱によって製作されたはずの絵は、いつの間にか陸軍の作戦記録画として、41年7月東京上野の第2回聖戦美術展に出品されます。そこでの評判を、田中穣はつぎのように書いています。

フジタの戦争画中もっとも率直に、日本の古い合戦絵巻の魅力を現代的に再現した作品となった。

「平治物語絵巻」や「猛攻襲来絵詞」など鎌倉時代の傑作とされる合戦絵巻の持つ日本の大和絵様式が、そのまま現代の油絵の郵送闊達な合戦絵巻に写しかえられているすばらしさに、人びとは目を奪われ、舌をまいた。

たしかに国家総動員体制といっても、まだこの時期は、出征兵士の家族以外のほとんどの人間にとっては、所詮他人事だったと思います。そうした他人ごととしての戦争というのは、こうしたあっけらかんとした勇壮な絵巻として眺めるには心地よいものだったのでしょう。今の日本で、多くの人たちにとって、あの三代目のアホぼんの進める海外派兵や憲法改正の威勢のよい中身のない形容詞まみれの言葉が、おそらく心地よく響くのとよく似ているように思います。

藤田嗣治の戦争画について 1

もう終了してしまいましたが、先月、名古屋市美術館での藤田嗣治展(生誕130年記念 藤田嗣治展 —東と西を結ぶ絵画— 4月29日~7月3日)に行ってきました。なお、兵庫と府中では現在開催中、今秋開催予定です(展示会概要)。


これは、以前にこのブログでも書いたことがあるのですが(「モーツアルトのピアノ協奏曲」)、美術評論家で画廊経営者でもあった洲之内徹は、司修との会話の中で、藤田は戦争責任なんて感じていないと思う、藤田の絵は戦争画しかない、あとはクズだよと言い放ったそうです(司修・『戦争と美術』1992年 岩波書店)。もちろん表立ってこんな事を言ったり書いたりはしていないようです。私は、洲之内徹という人が大嫌いなのですが、絵に対する眼力は確かで、あたりさわりのないありきたりの事しか言えない凡百の評論家とは比すべくないと思っています。また、自身が美大出の左翼活動家で転向者という事もあって、戦中戦後の画家たちの振る舞いに対する覚めた冷徹な見方をしています。この藤田に対するオフレコな発言も、藤田の絵と人に対するきわめて的確な見方だと、展示を見てあらためて思いました。

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

日本の戦争画に関しては、その返還や公開に関しては色々な曲折があったようです。特に藤田嗣治のそれに関しては未亡人の君代さんの意向などもあって一筋縄にはいかなかったようです。それでも、この司修さんの『戦争と美術』が出版された1990年代からは少しづつ公開されはじめ、芸術新潮の特集『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』1995年8月号などで、図録としても紹介されだしました。元美術少年としては、この戦争画の問題はずっと気になっていました。とくに敗戦の夏になると、司さんの本を取り出して、その冒頭に掲載されているシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を読み返したりしていました。このシャガールの痛切な自己批判とナチを通り越してドイツ人やその画家に対する糾弾と怨念の言葉は心を打ちます。美術が政治や、まして戦争と無縁な超越した存在では決してありえない事を思い知らされます。シャガールの献辞は、「日本の侵略戦争の犠牲になった中国人(アジア人)画家(作家・音楽家・すべての表現者)展」のそれとして、文中のデューラー、クラナッハ、ホルバインを、藤田嗣治、川端龍子、横山大観と読みかえれば、日本の戦争画の果たしたもうひとつの役割が見えてきます。             

少し長くなりますが、このシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を文末に引用しておきます。わたしの書いたものなど、まあどうでもよいですがこの献辞だけでもぜひご一読下さい。


結論から書いておくと、私は藤田嗣治の絵が嫌いです。とくに今回見た彼の戦争画対しては強い嫌悪感を覚えました。なにかしらおぞましいものを前にした時の血圧が上がり、胃がキリキリとして悪いものがこみ上げてくる感覚です。この嫌悪感は、針生一郎がこの絵に対して作者の魂はまったくここに関与していないと喝破したように、いくら戦争画とはいえ死者(この場合は米兵になるが)や死にゆくものに寄せる同情、哀れみ、たむけ、痛憤そうした人間らしい一切の思いが感じられないことからくるのでしょう。かれら(玉砕してゆく兵隊)を手ゴマのようにもてあそぶ態度で、嬉々として兵士たちの絶望的な死闘を描き続けたのでは、と河田明久は指摘しています。そのとおりだったのでしょう。あとでもう少し詳しく検討したいと思います。

次に、藤田の戦争責任、この直截な表現が嫌なら藤田の戦争画がそれを見る人に与えた影響はきわめて大きい。藤田自身のものも含めて、戦争画の数々を図版で見ていると、彼は名実とも美術界における戦争協力のトップランナーであったとわかります。今回の展示の「アッツ島玉砕」は、玉砕戦肯定・賛美の絵であり、その後の追随者エピゴーネンたちによる同じような暗い玉砕賛美の模倣画の先駆けとなります。また最後の戦争画である「サイパン同胞臣節を全うす」は、軍人の玉砕とともに民間人の集団自決を臣節として賛美・強要するものになっていると思います。ただ、こちらは敗戦によって追随者エピゴーネンどもが蠢き出す間もなかっただけの話です。この点も、敗戦後の戦争責任に対する論争とも関わってきますが後でもう一度触れます。


さて、はじめに整理・俯瞰する意味もあって藤田嗣治の戦争画(軍委嘱の作戦記録画及び戦争に関係する絵画)で手持ちの書籍や図録と市と県の図書館で見ることができたものを列挙すると下の表のようになります。当然遺漏もあると思いますが、敗戦後、米軍に接収されその後無期限貸与という形で、現在東京国立近代美術館に所蔵されている藤田の絵は14点とされています。それは網羅していますし、あらかたこんなものでしょう。このうち今回の名古屋の展示で出展されていたものは、以下の3点です。

  • アッツ島玉砕
  • ソロモン海域に於ける米兵の末路
  • サイパン島同胞臣節を全うす

続きます


藤田嗣治の「戦争画」一覧
題名 製作年 出品 所蔵先 注)1 備考 収録誌・画集 注)2
千人針 1937年 所在不明 (7)
千人針 1937年 個人蔵 (7)
島の訣別 1938年 第25回二科展 事変室 所在不明 6
南昌ナンチャン飛行場の焼打 1938〜39年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 3 , 7
武漢ウーハン進撃 1938〜40年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
哈爾哈ハルハ河畔之戦闘 1941年 第2回聖戦美術展(1941年7月) 東京国立近代美術館 個人委嘱、後に献納。陸軍作戦記録画 (2) , 3 , 6 , 7
十二月八日の真珠湾 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
二月十一日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 所在不明 陸軍作戦記録画 6
佛印・陸からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
佛印・海からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
アッツ島玉砕 1943年 国民総力決戦美術展(1943年9月) 東京国立近代美術館 後、軍に献納。陸軍作戦記録画に (2) , 3 , 4 , (5) , 6 , 7
ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 4 , (5) , 6 , 7
○○部隊の死闘 ー ニューギニア戦線 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 陸軍戦争記録画 6 , 7
神兵の救出到る 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , (5) , 6 , 7
血戦ガダルカナル 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
ブキテマの夜戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
大柿部隊の奮戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 6 , 7
サイパン島同胞臣節を全うす 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , 4 , (5) , 7
  • 注)1 所蔵先・東京国立近代美術館とあるのは、接収元の米国からの無期限貸与という扱いらしい。
  • 注)2 収録誌・画集のナンバーは巻末の参考文献から。( )内は、文中口絵として掲載のもの。

シャガールの献辞(「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」)

わたしは彼ら全員を知っていたか?
わたしは彼らのアトリエにいたか?
わたしは彼らの芸術作品を近々と、あるいは、離れて、見たか?
そして今、わたしはわたし自身を離れ、
わたし自身の実体を離れて、
彼らの知られざる墓へおもむく。
彼らはわたしを呼ぶ。彼らはわたしを、
自分たちの墓穴へ引きずり込む・・・
わたしは、無辜の罪を犯した者だ。
彼らはわたしに問う。「おまえはどこにいたのだ?」
・・・わたしは逃げていました・・・
彼らはあの死の浴室に連れて行かれ
自分たちの汗を味わった。
彼らが不意に、まだ描かれていない自分たちの絵画の光をみたのは、
そのときだった。
彼らは達成されなかった歳月を数えた。
夢を、夢を満たすためにたくわえ、待ち望んでいた歳月を
・・・眠らなかった、眠たくなかった・・・
彼らは、自分たちの頭の奥にある、子供時代の跡を突き止めた。
そこでは、衛星を持つ月が、彼らに輝かしい未来を告げていた。
暗い部屋の中や、山々や谷間の草地の中での若い愛が、
かたちのいいあの果実が、
温かい乳が、咲き乱れる花々が
彼らにパラダイスを約束していた。
彼らの母親の両手と両眼は、
彼らとともにあの遠距離列車に乗っていた。
わたしには見える。
今、彼らはぼろをまといて、裸足で、
沈黙の道を、足を引きずりながらのろのろ歩いているのだ。
イスラエルの兄弟たちの、ピサロの、そして
モディリアーニの・・・わたしたちの兄弟たちは・・・ロープに導かれ、
デューラーの、クラナッハの、
そしてホルバインの息子たちにみちびかれた・・・
あの焼却炉の中の死へと導かれていった。
どうすれば、わたしは涙を流すことができるだろう。
涙を流すには、どうすればいいのだ?
彼らが塩漬けにされてから、
長い年月が経った・・・わたしの目からこぼれた塩に・・・
彼らはあざけりとともに乾燥され、だからわたしは
最後の希望を捨てるべきなのだろう。
嘆き悲しむにはどうすればいいのだ?
わたしの屋根から、最後の屋根板がはがされている音が、
毎日、聞こえてくるのに。
かつてわたしが置き去りにされ、
いずれはそこによこたわって眠るための
ほんのささやかな土地を守るために、
戦うには疲労しすぎているときに。
わたしには、あの炎が見える。立ちのぼって行くあの煙とあのガスが、
あの青い雲を黒雲に変えるのが見える。
わたしには、むしり取られたあの髪の毛と歯が見える。
あの髪の毛と歯は、わたしに向かって不穏な棺衣を投げかける。
わたしは、スリッパや、衣類や、灰やがらくたの山のまえの
この砂漠に立って、カーディッシュの一節をつぶやいている。
そして、そんなふうに立っていると・・・
わたしの絵から、わたしに向かって下りて来るものがある。
片手に七弦の竪琴を持っているあの描かれたダビデだ。
わたしが嘆き悲しみ、
詩篇を唱えるために、彼は手を貸したいと思っている。
ダビデに続いて、わたしたちのモーゼが下りてきてこう言う。
誰も恐れるな、
新しい世界のために、わたしが新しい銘板を彫り上げるまで、
おまえは静かに横たわっているべきだ、と。
最後の火花が消え、
最後の死体が消滅する。
新たなる大洪水を前に、それはじっと動かなくなる。
わたしは起き上がり、きみに別れを告げる。
わたしはこの道をたどって新たなる神殿へおもむき、
きみの絵のために、
一本の蝋燭に火をともす。

(英文からの邦訳、麻生九美)司修・『戦争と美術』より重引


藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

参考文献

  1. 『戦争と美術』 司修 1992年7月 岩波書店
  2. 『日本の戦争画 ーその系譜と特質』 田中日佐夫 1985年7月 ぺりかん社
  3. 『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』 芸術新潮1995年8月号
  4. 『LEONARD FOUJITA』生誕130年記念藤田嗣治展 ー東と西を結ぶ絵画図録 2016年
  5. 『戦争と美術 1937〜1945』 針生一郎他 2007年 国書刊行会
  6. 『画家と戦争 日本美術史の空白』河田明久 別冊太陽 2014年8月 平凡社
  7. 『藤田嗣治画集 異郷』 林洋子監修 2114年2月 小学館
  8. 『戦争画とニッポン』 椹木野衣x会田誠 2015年6月 講談社
  9. 『評伝 藤田嗣治』 田中穣 1988年2月 芸術新聞社
  10. 『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』 近藤史人 2002年11月 講談社
  11. 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』 葦原英了 2007年9月 新宿書房