熊本2日目

昨日、熊本洋学校ジェーンズ邸として載せた画像は、天理教の神殿でした。ある目的があって、その瓦礫の廃材を手に入れたかったのです。朝の6時に現場に行って作業員の人に、ここはジェーンズ邸か?そうであれば瓦礫の中の廃材を欲しい旨伝える。怪訝な顔をされて、ここは天理教の神殿だと言われる。どうりで天理教の名を関した人たちばかりだと思った。それにしても、どうみても本格的な重機もそろえた本格的な建築チームが一宗教団体で集めることが出来るというのはすごいことだと思いました。

あらためて、外に出て散歩中の人に尋ねて行ってみたジェーンズ邸は、既にブルーシートに覆われていました。

 

 

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

熊本初日

今回、お世話になっている熊本聖三一教会の近くの水前寺公園辺りを、早朝に散歩してきました。

熊本洋学校ジェーンズ邸

熊本洋学校ジェーンズ邸水前寺公園近くの天理教の神殿

明治4年建設の熊本洋学校ジェーンズ邸は、瓦礫の山になっていました。
天理教の神殿でした。

水前寺公園の能楽堂

水前寺公園の能楽堂

公園内の能楽堂は、外見からは無事のようです。

このあと土砂災害のひどかった南阿蘇村へ。

熊本に来ました

熊本空港。搭乗した飛行機

熊本空港。搭乗した飛行機

熊本空港着。天候不良(視界不良)とのことで着陸やりなおし。上空で30分ほど待機して、結局1時間ほど遅れる。福岡空港に廻るかもしれないとアナウンスがあったので、まあ着けただけで良かった。

熊本空港に来たのは20数年ぶりになる。この前はサラリーマン時代で仕事だった。その頃に比べて、随分小ぎれいになったが、山の中の空港というイメージは同じ。市街地に入ると、所々、屋根にブルーシートがかけられた家が目に付くが、道路は普通に乗用車で渋滞している。少なくとも県庁周辺は被災地という雰囲気は感じられない。

想定外は、言い訳にならない 熊本の震災について

熊本で地震のあった14日から、何が出来るわけでもないのに、しばらくはテレビのニュースを見ていました。16日の本震の後に、倒壊した家屋や集合住宅の映像を見ると、やはり21年前の阪神淡路大震災の事が思い出されます。

まず感じたのは、住宅や構造物が21年前と同じ壊れ方をしているという事です。特に、1階が店舗とか駐車場になっている鉄筋コンクリート造の中層の集合住宅の壊れ方は、あの時、私がたくさん見せつけられた状況そのものです。駐車場の柱が座屈して、2階部分がだるま落としのように、地上近くまで落ちたマンション。店舗部分の柱が折れて、全体が大きく傾いたマンション。その中で、座屈した柱をクローズアップした映像がありましたが、茶筅のように、湾曲して飛び出した主筋の鉄筋がいかにも細い。25ミリないのではないか?まさか柱の主筋に22ミリ以下を使うか?それに異型鉄筋ではなくて、プレーンバーのようにも見えた。それに数自体も少なそうだ。

この熊本の映像にあったものは、実際に目にしたわけではありませんので、いい加減な事は言えません。ただ、21年前には、上に書いたようなものを、西宮で、芦屋で、神戸で散々目にしました。そして、その後、叫ばれてきた耐震補強とは一体なんだったのか。木造の戸建て住宅に筋交いや補強の金物を施す事が主眼で、こうした古い、さらに言うと手抜きで施工された鉄筋コンクリート造の耐震診断とか、補強はなされてきたのだろうか。

さらに、21年前の震災の後では鉄骨プレハブ作りの建物が震災に強い・強かったと喧伝されました。それもあってか、従来の木造軸組に代わって戸建てのプレハブ住宅や、○○ハイツと称する2階建ての集合住宅が増えたように思います。後者は、いたる所で目にするようになりました。学生向け、あるいはこの近辺では非正規の派遣労働者向け寮として使われているようです。今回の熊本に地震では、こうしたプレハブ造りの建物も倒壊しています。南阿蘇村では、2人の学生が亡くなっています。こうした安手のプレハブ造りが、喧伝されていたような耐震性を有していたのか、これも疑問に思います。

今回も、二日の間に2度の震度7の本震に相当する揺れがあったという想定外がキャンペーンされています。不可抗力を強調することで、本来は問われるべき責任を曖昧にしてしまうのです。21年前は、古い耐震基準というものが、責任回避の題目にされていました。しかし、私が当時現地を歩いて、目にしたものはそうした高尚なレベルの問題ではなくて、明らかな施工不良、手抜き工事の数々でした。一番ひどいと思ったのは、山陽新幹線の高架橋でした。震災の二日後だった思いますが、当時の会社の高齢の顧問の安否確認も兼ねて、西宮の仁川に向かいました。阪急西宮北口で降りて、今津線沿いに北へ向かったのですが、門戸厄神の駅を過ぎて目にしたのは、山陽新幹線のもろくも破壊された橋脚と落ちた橋桁でした。ざっと見回して武庫川の西側のあの近辺では、まともに残った高架橋はなかったと記憶しています。武庫川に架かる橋梁も潰れていました。尼崎と西宮の間を流れる武庫川には、他にも山陽本線、阪神、阪急の私鉄や高速道、一般国道など多くの橋梁が架かっていますが、山陽新幹線以外はすべて無事でした。新幹線のすぐ南を走る阪急電車などは、震災の翌日から西宮北口までの運行を開始して、私もそれを利用しました。神戸まで歩く事を考えるとずいぶん助かりました。明治から戦前にかけて基本的な構造が作られた山陽本線の橋梁が無事で、1960年代につくられた新幹線の橋脚が潰れているのです。

実は、そのすぐ後に、この新幹線の武庫川橋梁の補修工事に、私自身も鉄筋の供給・加工のメーカーの担当として関わる事になります。それが、サラリーマンとしての最後の仕事になったのですが、その事は、やはりまた別に書きます。忸怩たる思いで、社内報に書いた報告記事は、昨年このブログで転載しました。

神戸 20年前に社内報に書いた被災地の報告

土建屋や役所が、原因と責任の所在を曖昧に、かつ隠匿して、その情報を公開してこなかった。なら、私たち末端の民間の人間が、業務上知り得た情報に関する守秘義務云々にこだわる必要もありません。

4年目の3.11

4年前の今日は、穏やかな日差しも暖かく、春の到来も間近と思わせました。地震のあった時、私は工房の2階にいて大きな横揺れを感じて、船酔いのような状態になってしまいました。すぐにただならぬ事態を予感してテレビをつけました。

それから、10日ほど後工房悠の杉山裕次郎さんらと共にたどり着いた被災地・石巻市は今日のように雪の舞う日もある刺すような寒さの中にありました。その地で、水も電気もない状態でヘドロと汚水と重油にまみれた幾日かを過ごします。

初めて訪れた石巻市街地。露出もピントもデタラメな汚れたフロントガラス越しのこうした写真が、かえって今は当時のおののきを現しているように思います。

初めて訪れた石巻市街地。露出もピントもデタラメな汚れたフロントガラス越しのこうした写真が、かえって今は当時のおののきを現しているように思います。 RICOH GXR P10

今、思い出しても50余年生きてきた中で、あんなに人に感謝をされ、心からのお礼の言葉をかけられたことはありません。逆に言うと、それだけ切実に援助が求められていたのだと思います。行ってよかったし、行くべきであった。それにこれからも、もし同じような悲惨と災難があれば、もう一度蛮勇を奮って、さらにガタの来はじめた体を引きずって出向こうと思っています。そんな事にならないのが一番なんですが、もうひとつ、自分の親のような世代の人に、決して頭を下げさせてはいけない。それは震災下という状況であっても社会の欠陥であり理不尽ですらある。「安全」が誰のためのものか?あらたな災害が確実視される中で、ひたすら自衛隊を外の戦争に送り出すことばかりに腐心していてよいのか?あの事(被災地であった老婦人)を思い出して、人に語ろうとすると今でも声が震えて涙目になってしまいます。それで、震災ボランティアに行って感じた一番大事と思うことを直接伝えられないもどかしさがあります。


短期集中木工修行中の芸大生が、修行を一旦中断して、青春18切符で東北を旅行するそうです。遊びで出掛けていいのだろうかと言います。オッサン、オバハン、年寄り連中があれからもノーテンキに海外などに出かけるのに比べれば、あなた達若い人が今のこの時期に東北に行こうとする志がある、それ自体がすばらしい事だと思います。

神戸 20年前に社内報に書いた被災地の報告

1月19日(月)、神戸に行ってきました。古くからのお客さんに呼ばれてのことでしたが、あれから20年という感慨はやはりありました。

20年前の震災の時、私は大阪市内のある建材(鋼材)のメーカーに勤めていました。地震があった時間は当時住んでいた大阪南部の住宅で起床する僅かに前でした。いつも使っていた南海本線が全面不通で、開通の目処なしとのことで、仕方なく家に戻ってテレビを見ていると、阪神や淡路島の甚大な被害が徐々に伝えられていました。

結局、その日は自宅に待機していました。次の日から出社しましたが、どうせ仕事にならないし、じっとしているのも嫌だったので、神戸とか伊丹に住んでいて連絡のつかなかった高齢の顧問の安否確認とか屁理屈をつけて被災地に入りました。いつもの社内での服装、作業着上下に、安全帽、安全靴に脚絆という出で立ちに、70リッターほどのリュックに水と乾パンなどの非常食を詰め込んで、神戸市の東灘区と伊丹の仁川に向かいました。途中で、避難所とか困っていそうな人を見かけると適宜、水と食料を渡して歩きました。途中、仕事柄、壊れた建築物や土木構造物があると写真に撮りながらです。

被災地で見たものや、撮り貯めた膨大な写真をもとに社内で報告会を持ち、その抜粋を社内報にも載せました。集めた資料や写真の類は、個人的に求めたものも含めて全て退社する時に後の資料として社内に残して置きました。後にその会社自体が吸収合併されて雲散霧消してしまいましたから、残念というかもったいないことをしたと思いますが、仕方ありません。ただ、その社内報は手元にありました。社内報といっても、ゼネコンを含む取引先にも配っていたものなので、随分持って回った言い回しになっていますが、これも仕方がない。ただ、他の土建屋や同業他社が右往左往するしかない中で、かなり早い段階での被災報告と分析であったと思っています。

実際に被災地の倒壊した建物や土木建造物を目の当たりにして、当時よく言われた古い建築基準が云々という高尚な問題ではないと強く確信しました。一言でいうと、そうしたレベルの問題ではなく壊れた構造物はほとんど例外なく素人目にもわかる手抜き、施工不良によるものでした。その事は、自分の記憶に残る事だけでも書き残すべきだと20年が経った今、あらてめて思います。とりあえず当時書いた社内報の記事を転載しておきます。写真などはすべて私が撮ったものです。画像ファイルにしてあります。クリックで拡大します。


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核のない世界へ!に行ってきました。

服部良一衆議院議員を迎えての学習会に行ってきました。社民党の脱原発アクションプログラムの概要を直接聴けたのは良い機会でした。戻ってから、あらためてこのアクションプログラムをさっと一読しましたが、良くまとまって説得力もあると思いました。今の社民党で良くこれだけの物が作れたな、というのがむしろ正直な感想です。それだけ脱原発ということに力を注いでいるのでしょう。それに、もうそれくらいでないと、この党の存在価値はないとも思います。

このプログラムの中で具体的に揚げられた数字で、目をひかれたのが東電管内での埋蔵電力(正確にはどう表現すべきか知りません)、つまり自家発電が500万KW、他社受電が700万KWあるということです。原発がないと、日本の産業がなりたたなくなるとか、また計画停電などをせざるをえないという電力会社とか産業界の恫喝に対しては、政策立案の立場からは具体的な数字を揚げることがやはり必要です。

出席者は20人ほど、ほとんどが私より年長の人たちで、良一さんと学生運動をともにした京大出身者がメインという感じで、懐かしい顔もチラホラ。それはそれで、ずっと社会に対する問題意識を持ち続けているという事で、たいへん立派なことだと思います。しかし、話を聞いていると3月11日の震災以降、実際に東北の地に赴いたのは服部議員と私を除いて誰もいないのではないかと感じました。東電福島第一原電の事故も、東日本大震災の中で考えるとすればという事ですが、どこか、発想というか問題意識のあり方に私が見てきた被災地の現実との乖離を感じてしまいます。それに被災地のボランティアやこちらでの反原発の集会に集まった若い人たちが、スマートフォン片手にツイーターやSNSを使って軽やかに情報を発信し交換しあっている姿と、今日集まったおじさん、おばさん達とは絶望的に接点がないように感じました。それは単にジェネレイション・ギャップという言葉であらわされる以上のものがあるように思われます。それは、その双方にとって残念なことです。

3月、一緒に石巻に行った60代の杉山裕次郎さんは、スマートフォンの使い手ですがツイーターはやっていません。私は、スマートフォンを持っていないしツイーターもしていませんし、これからもやらないと思います。それでも現地で活動している中で、ごく自然に単独で来ていた若い人たち何人かと活動と寝食をともにするようになっていました。今日も、京都での集会を企画して提案している人がその報告をしていました。いいなと思いました。3月の石巻には、原発の状況が非常に危険で、なおかつ今被災地に行くのはかえって迷惑だというおかしなキャンペーンがなされる中でも、たくさんの若い人がボランティアで来ていました。たいへん頼もしいし、これからの社会を動かしていくのもそうした若い人たちであるのは間違いありません。具体的に体を動かすことで、自分たちおじさん達もそうした流の中に入ることは可能です。もし私たちに伝えるべき経験というものがあるなら、そうして自分の体を動かすことでしか出来ないでしょう。

あるお客さんに聞いたのですが、その人のお父さんは退職した警察官だそうです。それで愛知県の退職した警察官が集まって福島の汚染地域の治安維持にあたる部隊を作ったそうです。もう年だから勝手にさせておくと、その人は言ってましたが、かっこいいなと思いました。東電や国の対応を批判して自分や家族の身を守るために活動するというのは、当然の権利ですし、そのために反原発の声をもっとあげるべきだとも思います。ですが今も東北では被曝の恐怖の中で人が暮らしているし、若い人たちがボランティアで赴いています。これを言うと誤解をまねくのですが、私のように50代も後半以上のおじさん、おばさん達は自分たちが放射線の盾になる、せめて若い人たちだけに危ない目はさせないというくらいの気概がないと、本当に世の中はかわらないように思います。

組手什(くでじゅう)

今回、東北に行ったのは組手什(くでじゅう)おかげまわし東海の6人の皆さんと一緒でした。正確にいうと、便乗させていただいたという形です。組手什に関しては、本家のサイトをご覧ください。その規格も公開されいます。

組手什加工標準(PDFファイル)

組手什開発説明書(PDFファイル)

杉の端材(胴縁)を材料にしたフレキシブルな組み立て家具(什器)のキットというところでしょうか。

組手什を説明する渡辺さん

住田町仮設住宅の集会場で組手什の説明をする渡辺さんと地区のリーダー

岩手県住田町の仮設住宅での説明と実演がメインの企画でした。そこに集まったのは中高年の女性が主でしたが、その反応はすばらしいものでした。私も一人のご婦人に相談を受けて、お住まいの仮設住宅にお邪魔して実際に棚を作っておきたいという場所を採寸して、その間口や奥行き、棚板の数などの一緒に考えました。この組手什がすばらしいなと思うのは、杉材の軽さとか切断などの加工性の良さもあって非常にフレキシブルで、様々な要求にこたえる事ができることです。それで、これを使えばこんな物が出来るのではと、それぞれの人の要求や積極性を引き出す。出来合いのものを差し出して、どうぞ使って下さいではなくて、こうした素材を提供できますし、それを使ってこうしたものも作れます。お手伝いはしますが、何をつくるかは皆さんで考えて下さい。会の渡辺径さんは、住民を前にその事を強調されていました。そのため配分や管理も住民のまかせるそのために地区のリーダーに、その事を理解してもらうように意を尽くしているようでした。

組手什と住民

組み上がった組手什を前に記念撮影