53回目

桜の花が終り、いつも散歩する堤防にはモズが目立つようになった。ミミズでも探しているのか河川敷の土を群れてつついているが、妙に人慣れしているのか3メートルくらい近づくまで逃げない。それより近くになるとヒョコヒョコ跳ねるように遠ざかる。その姿がマヌケで愛敬があって面白い。花の前にいたセキレイやモズや、マガモもオシドリももういない。

今朝は、川には3組くらいのカップルのカイツブリがいた。ケケケケケとけたたましく鳴く。かと思うと、カップルのカタワレが水上を歩くように滑空して見せる。あれも求愛の行動なのだろうか。また時にずいぶん長く水中に潜ったりもしながら、ピッタリ並んで泳ぐ。うらやましいくらい仲が良い。ツバメも見掛けるようになった。


50歳を過ぎての誕生日というのは、終末に向けてのカウントダウンなのだ。自分の中で未消化で未整理にしてきたものに、一つずつ折り合いをつけてゆく。そのための区切りと考えれば意味がある。何によらず中途半端に済ませてきて達成感のようなものがない私は、しかし、そうした清算をしてゆくことに、恐怖とためらいがある。

お前は流れから外れたんだよ、大将。
お前は流れの中にいなかったんだよ、大将。
お前はえらすぎるんだ、物持ちすぎるんだ。
特別すぎるんだ。
だから死ねないんだ。

ベルトルト・ブレヒト 「折り合うことについてのバーデンの教育劇」 千田是也・岩渕達治訳 より

LPレコードのコレクション

ひょんな縁で、たくさんのLPレコードを頂ける事になった。10数年前に亡くなったお父様の残したものだそうで、業者に引き取らせてお金に換えるよりは、同好の人に譲って聞いてもらうのが故人の供養になるのではと、ご家族でずっと保管されていたそうだ。

お宅にお邪魔してコレクションを拝見する。4000枚ほど残されたそうだが、人にお譲りになっりして数は相当減っているとの事。実際に拝見すると、たしかにベートーベンとかモーツァルトの曲、演奏者で言うとカラヤンとかベームといった有名所がない。逆に、バルトークとか、シェーンベルク、それにシュトックハウゼンやメシアンといった現代の作曲家のレコードがたくさんある。中にはCD化されていないものもたくさんあるだろうから、その意味では希少なコレクションかもしれない。

これを私がまたストックしてしまっても意味がないので、検索可能なリストを作って公開して利用してもらえるようにしたいと思う。以前、遊びとスキルアップを兼ねてXMLを使って蔵書と所有するCDのデータベースを作りかけた事があった。それでやってみようと思う。

良寛の歌 その2


月読(つくよみ)の ひかりを待ちて 帰りませ 山路は栗の いがの多きに 312

たまさかに来ませる君をさ夜嵐いたくな吹きそ来ませる君に 579

天が下にみつる玉より黄金(こがね)より春の初めの君がおとづれ 4

あづさゆみ春になりなば草の(いほ)をとく訪ひてましあひたきものを 635

註) 歌の末尾の数字は引用元の『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社での通し番号です

前2首は、阿部定珍を、後2首は貞心尼を詠んだ歌らしい。いずれの歌も恋の歌のようでもあり、友人の来訪を待ち焦がれ帰途を案ずる歌でもあるように読める。人によりまた時により違う感興をもたらす。実際に斎藤茂吉は、あづさゆみ〜の歌を友に贈った歌であろうとしていた(斎藤茂吉・『良寛和歌集私抄』、後に訂正)。前に引用した歌

わかれにし心の闇に迷ふらしいづれか阿字の君がふるさと

この歌も、本来の意味は「仏の道に分かれて(捨てて)心の闇の中に迷っている君の本当の心のふるさとは何処なのだ」と叱責し窘めるものなのだろう。しかし、私には「まあ、仕方がない。今は迷い惑っても、そうした時もあるさ。でも自分のこころのふるさとをまた考えてみる時がくるさ。」と、現状をひたすら肯定しながら諭してくれているように読める。決して非難などされているように感じない。

本当に良い歌、あるいは芸術というのはそういうものだと思う。平易で具体的な描写でありながら、描く世界、呼び覚ます感情、ましてや倫理や規範や世界観を押しつけない。むしろ優しく包みながら、外の世界に対する穏やかで優しい心持ち、澄んだもの高いものへの憧れ、そうしたとっくに忘れてなくしたつもりでいたものを、たとえ一時であれ呼び覚ましてくれる。感じ、考えるのは自分自身なのだ。

阿部定珍

西蒲原郡渡部村。通称は酒造右衛門。家世々庄屋をつとむ。壮にして和歌詩文を好み江戸に遊ぶこと三年諸名家と交わる。帰来家職を()ぎ理民の材を発揮す。公暇風月を友とし吟詠雅懐を()ぶ。良寛国上(くがみ)在庵の時より施主たり交遊たりしは其文書によりて明なり。天保九年六月二十日、西国霊場巡拝のため土佐にありて瘧病(おこり)のため死す。

貞心尼

長岡藩士、奥村某の女、幼にして浄業を慕ふ。妙齢に至り北魚沼郡小出郷の医師某に嫁し、幾年ならずして不幸所天を喪ひ深く無常を観じ、遂に柏崎町洞雲寺泰禅和尚に従ひて剃度を受け、後不求庵に住す。是より先良寛禅師の高徳を敬慕せしが、文政の末年禅師を島崎村に訪うて和歌を学び且つ道義を受く。師其敏慧にして和歌に堪能なるを愛し、懇切に指導せしと。始めて値遇せしは、師七十歳貞心二十九歳の時なり。爾来六星霜、花に鳥に月に雪に風に雨に往訪して敬事し、歌を練り道を講じ其傾写を受け、禅師終焉の際所謂末期の水を呈せいしは弟子としては此尼公のみなりきと。又禅師の詩歌の今日に伝はりしも尼公の蒐集せし力多きに居る。又禅師の肖像として後世に遺るもの亦此尼公の描写せしものなり。(中略)明治五年二月十日寂す。(後略)

斎藤茂吉 「良寛和尚雑記」 『斎藤茂吉選集 第15巻 歌論』岩波書店

今年ばかりは

3月は年度末納期の急な仕事を頂いたりでバタバタ過ごしていました。いつも朝の散歩と体操に出向く堤防は桜の名所のひとつです。散歩に出る朝の6時前はまた日が昇りきらず、花もモノトーンな淡い穏やかな階調のたたずまいです。去年教えてもらった光源氏の独白を思い出してしまいますが、もちろん薄墨に咲いているわけではありません。

海蔵川の桜

海蔵川の桜2

海蔵川の桜3