またキックバックだ。コノヤロウ!

またメルクシパインの集成材の挽き割りで、キックバックを起こす。前回と同じ所を打つ。今度は材料が大きかったためか3秒ほど息が出来なかった。歩行に支障が出る程度に痛みも残る。さすがに2度目となると、言い訳できないし、痛いのは自分なのに言い訳を探してどうする。500幅の板なので、逃げ場がない。まだ、延々と挽き割りの作業があるので、これからは横切り盤でする。

どう考えても、4日までの納期に間に合わないので、明日からまたにの若森くんの応援に来てもらうことにした。彼は、私の多少なりと大きな現場や、ややこしい仕事の時はいつも手伝ってもらっている。付き合いが長いので、こちらの顔を見るだけで、どれくらいのペースでどこまでやらそうとしているのかを判断してくれるので、細かい指図が必要ないのもありがたい。


単純なものは良い。五感にも神経にも優しい。ベラ・バルトークがハンガリーの民謡を採譜してピアノ曲集にまとめたもの。

ベラ・バルトーク・ピアノ曲集『子供のために』

ベラ・バルトーク・ピアノ曲集『子供のために』

 

ブナ

晩秋の山は、落ち葉のせいか意外に道を間違えやすい。それにもともと方向感覚が悪い。一昨日も途中で登る沢筋を間違える。見覚えのない景色にそれに気付くが、これも一興と暫く歩を進める

落雷を受けた(?)ブナ

落雷を受けた(?)ブナ
RICOH GXR A12 28mm

このブナは、雷にでも打たれたか?幹はまだ若いし健康そうだ。そういえばまわりの木々も、衝撃を受けたような痕跡があった。


今日は、大阪での展示会の打ち合わせをパスさせてもらう。その主催者(まどり)の代表が、来月に還暦のお祝いに娘さんのプレゼントで台湾に行くそうな。安かったらカラスミを買ってきてあげるとのことだが、安かったらを3回繰り返される。3割ほど期待しておくというと、それくらいで丁度いいと返答される。

集成材を挽き割っていたらキックバックしやがった

引き受けた納期モノの下請け仕事。幼稚園か保育園の脱走(?)防止用の柵らしい。持ってきた材料というのがメルクシパインの集成材。集成材というのは、板として使うものだと思っていたが、なるほどこれをフィニッシィング・ソーとかで挽き割れば、木作り不要で部材取り出来る訳か・・・聞けばメーカーでは当たり前のことのようだ。

しかしだ、この手の集成材というのは、微妙に平面が出ていないぞ。それに木端も、サンダーで無理から仕上げてごまかすためか直線も矩手も出ていない場合が多々ある。しかし、納期的に挽き割った部材を木作りし直すのは無理だし、仕上がり寸法=材料厚みなのでどうしようもない。それなりに仕事をするしかない。と思って、細かい桟の材を昇降盤で割っていたら、詰まってキックバックを起こして左の太ももに当たる。まあ、軽い材なので大怪我にはならなかったが、かなり痛い。厚み方向は、手の出しようもないが、せめて木端は手押しをかけ直さなくては危ない。

しかし、メーカー製の別注什器というのは、この程度のものなのだとあらためて思った。

山にミズナラを見に行く

昨日の朝、思い立って山に行って行きました。私の場合、山というと行く所は決まっているし、そのコースも最近は定点観測している樹木のいくつかを回ることが多くなりました。本当は何十年も前から見ている木に会いに行く、感覚的にもそういう感じなのですが、なんだか木工作家の言辞めいていやなので今後は使いません。

mizunara11

落葉したミズナラの森
RICOH GXR A12 28mm

 

入山規制の関係もあってこの5年ほど見ていなかったミズナラを目指しました。朝、出る時は特に意識していなかったのですが、車を降りて登山靴の紐を絞めるときには、そうだ今日はあのミズナラを見に行こうと考えていました。その木は源流域の沢筋にある巨木なのですが、5年前にはナラガレにやられてすでに立ち枯れ状態でした。7年ほど前の画像でもすでに樹勢は衰え葉の茂り具合も悪い。記憶では、そのさらに4〜5年前まではあの立派に大きく振った枝に青々とした葉をたたえていたように思います。ナラガレというか、寄生する線虫が導管に入って塞がれてしまう、つまり水を絶たれた状態にされてしまうようですが、そうなるとこうした巨木でもたちまち枯死してしまうのですね。

倒れたミズナラ 逆光で盛大にフレアを起こしていますが、逆に雰囲気は伝えています GXR A12 28mm

倒れたミズナラ 逆光で盛大にフレアを起こしていますが、逆に雰囲気は伝えています
GXR A12 28mm

GXR A12 28mm

GXR A12 28mm

 

ですから、予想はしていたのですが、やはり倒れていました。それに枝の先端の部分は、すでに朽ちているし、太い幹の部分も雨と腐朽菌にやられて上皮なども剥がれ落ちていたり苔がむしていたりします。たとえでも言葉の修辞でもなく、実際に土に還ろうとしています。もう何年も前に倒れていたのですね。倒れても立派な大きな枝ぶりの樹勢はかわりません。名残りを留めているというよりも立っている時とは別の角度からその姿を見せてくれるため、あらためて良い木だったんだなと感心しました。

2005年10月9日 NIKON D70

2005年10月9日
NIKON D70

 

2007年6月17日

2007年6月17日

不思議と喪失感とか悲壮感はわきません。このまわりにも、というかこの森全体で、そこかしこに倒木があります。それぞれ倒れた時期が違い腐朽の具合も違います。大きな時間の流れの中で命の循環がある、無機物と有機物の環がつながりまわっていく。私達理系の人間は、それを熱力学の法則という理屈で説明し、宗教は輪廻とか縁起という言葉で説明しようとしています。森の中というのは、当たり前の話ですが、それが実際に止まることなく行われていると、その中に身を置いて実感しました。下山し、近くの温泉の湯に浸かった時は、すこし肩の力が抜け、身が軽くなっているように思いました。

母親の葬儀のこと 1

葬儀は、残された者のために行う儀式だとよく言われます。

そのとおりに違いないのですが、そうであれば葬儀は、残された者の亡くなった人への愛惜の情や悼む気持ちを出来る限り素直に表明してもらえる場と機会でありたい。そのために概ね以下のように決めました。翌日には通夜ということで、葬儀屋の段取りもあって兄弟には事後報告で、ほぼ独断で決めました。

  • いわゆる葬儀場・会館は使わない。狭くて汚くても親の暮らした家で行う。
  • 献花・香典・弔電の類はすべて断る
  • 実際に母親と親交のあった家族・親族、ご近所、友人にのみ参加してもらう
  • 儀式としての通夜式は行わない、僧侶も呼ばない。通夜の晩は出来る限り弔問客に自由に出入りしてもらう。
  • 母親が認知症であったこと、施設に入所してそこで臨終を迎えたことなど、晩年の様子を隠さず伝える
告別式の朝の実家

告別式の朝の実家

実家は、かつて鋳物屋や万古屋(陶器)などが多くあった下町で、タバコ屋と駄菓子屋を兼ねた小さな店を営んでいました。今思うと、よくここに親子5人暮らしていたなというくらいの小さなしもた屋です。でも、この程度の家でも妙な見栄を張らず、本当に母親を悼む気持ちを持った人にだけ集まってもらえば、十分に葬式は出せるはずだと思いました。実際には我々を含めて30人ほどの人に集まってもらえましたが、多少窮屈でしたが、逆に知らない同士も含めてお互い良い距離感で接してもらえたのではないかと思います。なにより、棺が同じ高さ目線にあるというか同じ畳の上にあるというのは、まだ故人が仏ではなくこちらの世界にいるということを感じさせて、良いものでした。通夜の間は、葬儀屋の了解を得てずっと棺の上蓋を外して置いたので、訪れてくれた人に直接顔を見てもらい、あるいは話しかけてもらったり触れてもらうことも可能でした。もちろん誰のものであれ、死体に触れるのはもちろん近くに寄るのもいやだという人もいるでしょうから、強要はしません。それぞれの形で別れを惜しんでもらいました。母親が若い時に、親代わりになってお世話をさせてもらったという人も来てくれました。いまは目が悪いそうですが、枕元に座り棺の縁を両手でつかみ、覗きこむようにして顔を見ながらおばちゃん、おばちゃん!と呼びかけてくれます。書いてきてくれた手紙を語りかけるように読み上げて、そのまま棺に収めてくれました。私自身が遺族なので、おかしな話ですが、その真情に触れて、もらい泣きしそうになって困りました。

通夜には僧侶をあえて呼びませんでした。お坊さんを呼び経をあげてもらうと、どうしたってそれ中心の儀式になってしまいます。少なくとも私はそうです。そういう儀式も必要だとは思いますが、通夜くらいはそうあってほしくない。縁なき衆生たる私にはお経なしですませても良かったのですが、色々考えて、従兄弟に唱導してもらって正信偈しょうしんげを読んでもらいました。プロのお坊さんと違って、たどたどしさもありましたが、それがかえって仏の前で平等な門徒どうしが集まって経を唱えているという雰囲気が醸しだされて良いものでした。そのあとは、いわゆる通夜ふるまいになるのですが、お酒が用意してなかったりで、招く方も招かれる方もこうした通夜の仕方は久しぶりか初めての人もありそうで、母親が好きだった賑やかな宴という程にはなりませんでした。

翌日の告別式は、まあ通常の葬儀場で行われているような次第で、淡々と進みました。それでも進行を務めてもらった葬儀屋が比較的若い人で、またマイクを使わない地声だったので、あのいやらしい慇懃かつ大仰なものには聞こえませんでした。焼香は、回し焼香といって小さな焼香台を順に回してもらってその場で行なってもらいました。それぞれのペースや作法で、やってもらうことができるし、こちらも一々返礼をする煩わしさから解放されて良かったです。商業主義の葬儀場でよくある棺と遺族が、焼香台を挟んで一般の参列者と向かい合うようにパイプ椅子に座る構図は、故人を悼む気持ちを分断してないがしろにする葬儀屋の陰謀のように思っていました。ここでは、座る位置は少し違っても、ふすまを取り払った畳の上に棺もすべての参列者も座っています。あまりにも当たり前の姿なのですが・・・。

ある経験から(松田和美さんのこと)、こうした場合のBGMは、モーツアルト、それもレクイエムとかいった辛気臭いものではなくて、パパゲーノとか、ケルビーノやバルバリーナなんかの思いっきりノーテンキなアリアなどを流したいと思っていましたが、さすがにそこまで気がまわりませんでした。

喪主の挨拶に時間をもらって、父が亡くなって以降の、すなわち母親が入院・介護施設への入所によって家族とごく少数の親族以外の人の前に出れなくなってからのことを報告しました。もちろん、認知症のことも末期の措置とそれについての考えも触れました。こうした場合、大事なことは遺族としての心情の告白などというつまらないことではなく、家族だけしか知りえなかった故人に対する情報の提供だと信じています。

少人数であったこと、焼香がスムーズに行なってもらえたこと、などからか出棺前の故人とのお別れに十分な時間がとれたのも幸いでした。私は、臨終の日に買ってきて、その時も枕元にあったバラの花を棺に入れました。伯母は、自ら選んだ着物を、横浜から来てくれた叔母は、一週間前に買って直接着せてくれたばかりの緑の素敵なカーディガンとスカーフを、親代わりと言ってくれた早苗さんは母親が好きだったという大振りなミカンを、よく施設の母親を見舞ってくれていた同世代のご婦人は、やはりよく持って行って食べさせくれたという大きくて甘そうなプリンを、など参列してくれた多くの人が棺を囲み、言葉をかけ、棺を閉じる時は花で埋めてくれました。後で聞くと、兄は私が被災地住田町の仮設住宅のご婦人から頂いて、母親の病室に慰めのために置いていた小さな手製のフクロウの手まりを入れたそうです。それは、いただいた経緯もあって形見としてとっておこうかと思っていたので、残念でしたが、東北の被災地の仮設住宅で生まれて、三重まで来て、そこで認知症の老女をしばし慰めてくれて、ひとつの役目を終えて一緒に灰になったというのも、まあいいかと思います。


自分に対するケジメという意味もあって母親の看取りに関することは、あと1回で終わろうと思っていたのですが、長くなりました。もう少しだけ続けさせて下さい。自分なりに考えてまとめた、葬儀のあり方という事も最後に書かせて下さい。

棺の中に納めた着物のこと

母親の火葬の際に、棺に納めた着物は実家の箪笥から引っ張りだしたものの中から、伯母に選んでもらいました。

通夜の朝に、棺の前で伯母がどうしても和子には着物を着せてやりたいと言います。実は老健から実家に戻る時に仮に着替える時も、納棺師が死装束に着替えさせてくれる時も、好きだった着物を着せてやりたいと言っていました。それで、せめて棺の中に納める事が出来るようにと実家の二階の母親の箪笥から目ぼしい物を引っ張りだしたのですが、伯母の記憶にある母親自慢の着物がありません。それでも時間がなかったので、引っ張りだした中から選んでもらったのが前の記事の写真で棺にかけられていたものです。

通夜に集まる弔問の皆さんの母親の思い出話のネタになるように、施設にも持っていった古いアルバムや未整理の写真の何枚かを選んでいたのですが、よく見ると棺にかけた着物を着た母親の写真があります。

ひとつはまだ赤子の兄を抱いた写真、兄は今60歳ですからおおよそ60年前、母親が25、6の頃になります。

kazuko_makoto

60年前の赤子の兄と母親

 

もうひとつはまだ学生だったと思われる私と父親と写っているもの。およそ35年ほど前になります。

学生時代の私と両親

両親と学生時代の私

よくわからないのですが、たしかに伯母の言うとおり何かのおりには、もっと上等な着物を着て母親は出かけていったような記憶があります。それとこの着物も、普段着的に着ていたかな。本当のところ、よく覚えていません。ただ、箪笥から出したこの着物には仕付け糸が付いたままでした。何回目かの洗い張りに出して、それ以降着る機会がなかったのでしょうが、そうして長い間大切に着続けてきた好きな着物であったのは確かなようで、一緒に棺に入れられて燃やしてもらうにふさわしいものであったように思います。


さて、昨日はお寺とお世話になっていた介護施設に挨拶に行き、そのあと母親の年金の廃止などの手続きに必要な書類を市役所に取りに行きました。それで一日が終わってしまいました。今日は、母親の遺品整理というと聞こえがいいですが、遺品の処分のための片付けを弟と二人で終日行なっていました。中には見てはいけない、見たくないようなものもありますが、もう今さら母親や父親の生臭い過去を詮索する気にもなりません。それらしいものは、そのまま開かれることなく葬ります。明日は、初七日の法要になります。実家の整理や片付けは、もう暫く時間がかかりますが、兄はすでに今日から仕事に復帰しましたし、弟も明日帰ります。私も、明後日からは通常の仕事中心の生活に戻ります。ここの記事も、あと1回、葬儀のことについて触れてからこの話題は終わりにします。

親を送る

母親の骨を拾い、骨壷に収めて実家に持ち帰る。夕方にはいつものようにタロー(雑種犬・12歳)の散歩に出る。帰りは道を普段より少し遠回りをしてみる。

60年前、赤子の兄を抱いた写真の母親が着ていた着物を棺に入れる

60年前、赤子の兄を抱いた写真の母親が着ていた着物を棺に入れる

母親を看取る

母親の移された部屋の殺風景さにようやく気がついて、今日(日付の上ではもう昨日になりました)19日のお昼にはバラの花を10本買って花瓶に生けました。かすかに笑顔らしきものを見せてくれた朝とは違って、目を開け、下顎と肩を上に突き出すように喉を鳴らしながら息をしています。苦しそうというより、今思うと、断末魔という言葉がふさわしかったのかもしれません。体調を崩してからは母親の薄くなった髪を撫で上げ、頬を擦りながら話しかけるということが、ようやく出来るようになっていたのですが、この時も、またすぐ、夕方に来るからな。でも、辛いな、辛かったらもう頑張らなくてもええで。と言って午後2時過ぎに部屋を出ました。その時、母親は焦点の定まらない視線をそらしたまま苦しそうな息をしていたのか、あるいは視線をこちらに向けてなんとかはい言おうとしたのか、今はもう思い出せません。 後者のようであった気もするし、それは自分の願望をすり替えただけかもしれない。

生けた10本のバラと伯母の家の花

生けた10本のバラと伯母の家の花とメモ

夕方6時過ぎ、伯母とふたりで部屋に行った時はまさに母親が、その頑張りをやめた、やめてくれた時でした。必死に脈を探してくれていた看護師に手を握ってあげてくださいと言われて、母親の手をとった時、それはまだ暖かい生きた人間の手でした。その時、また脈があったか、かすかでも息をしていたのかは、分かりません。でもその時は、昼間のような苦しそうな息はやんでいたが、暖かい手をしていました。伯母は、アッちゃんが来るのを待っていたんやでと言ってくれました。私は、そうした偶然に意味を付与するような考え方は、あえてしないようにしていますが、もし、本当に母親が待っていたとしたら、それは自身老いた身体を引きずるようにしながら、妹の身を案じ施設に通い続けた伯母のことではないかと思います。