親を看取る

今、私の母親は死の床についています。

嚥下力の弱っている母親は、施設の看護師や介護士の援助と監視を受けながら摂食してました。他の入居者に比べれば摂食・嚥下力ともまだ正常な方です。16日朝食時、薬を飲んで、食事を2口ほど含んだ段階で、介助の人が他の入居者の介助に行って、戻った時は上を向いて口を開け、ほとんど呼吸停止状態だったそうです。連絡を受けて行くと、いつものベッドに横たわり酸素の吸入を受けていました。その時は、呼吸は少し荒くタンを喉で転がすような音を立てていましたが、顔色やクチビルの色はだいぶ良くなったと看護師から説明を受けました。しかしながら、もう長くはないと素人ながら思わざるをえない状態でした。 16日の朝に倒れ、以降3日間点滴と酸素注入で生きながらえています。17日には一時熱も下がり、本人の応答も回復して、医師から治癒の可能性も示唆されたました。しかし18日には血液検査と隣の病院の専門医の往診の結果、誤嚥性の肺炎を起こしており、治癒の見込みはないとされました。一時消えていた肺雑音も復活し、夜には再び呼びかけへの応答もほとんどなくなりました。

親の末期の姿を記憶意外にも留めておきたい。がデジカメは絶対にいやだ

親の末期の姿を記憶の他にも留めておきたい。がデジカメはいやだ。万年筆とメモ用ノート

16日の段階で、末期の過ごし方について施設長、医師、担当の看護師から説明を受け、選択肢を与えられました。詳しくは触れませんが、隣接する系列の病院に移ってよく言われる延命的措置を施すか、あるいはこちらで点滴と鼻からの酸素注入という最低限の措置により末期を迎えるかという事です。具体的には家族の判断と選択に任せるということでしたが、たくさんの高齢者の最期を看取ってきた3人からは、本人の苦痛という面からも病院への転院やそこでの措置を薦められないという意見をお持ちなのは明らかでした。

16日の段階では、私の一人の意見として転院による延命措置を断り最終的に翌17日、兄と弟含めた3人の意見として確認を取りました。ただし、その時は治癒の可能性も示唆され、母親の様態もはっきり回復しかけていたので、延命措置を断るということの深刻さを、私も含めてちゃんと認識していなかったように思います。しかし、昨日治癒の見込みなしと診断され、実際に苦しそうな荒い呼吸を続ける自分の母親を見ていて、延命を断るというとカッコいいですが、それは言葉を変えると自分の親を餓死するに任せる、上手く言い換えても極端な栄養不良状態で病状に放置するということだ気が付きました。

末期の過ごし方について、考えが変われば何時でも言ってくれれば、それに従うと施設からも言われていたので、たとえ1日でも2日でも胃に開けた穴からでも中心静脈からでも栄養を摂取出来て、すこしでも空腹感がやわらいで命が伸びるなら、そうしてもらおうかと考えました。しかしながら一晩考えて、悩んでやめました。いくらもう意識の混沌とした状態でも、母親をあれだけ入院に抵抗した病院にストレッチャーで運び、そこでまた機械的にテキパキと太い点滴の針を、こんどはより深く刺される、軽い処置になったとはいえお腹に穴を開けられる、気管支に管を入れられる、それぞれの措置についても事前の家族の同意を求められるとはいっても、転院(入院)するというのは、そうした医療行為が前提というかその為に入るのです。

本人も望んでいない(いなかったであろう)とか言うのは、おためごかしにしか過ぎません。そんなことは本人にしか分かりません。元気だった頃の言動から慮るというのも、あてにはなりません。この(昭和ひとけた生まれ)世代の女性と一般化するのは、少しばかりためらいますが、少なくとも母親に関して言えば、表向きの発言とはまったく別のところに本音があることは多々ありました。特に、所詮他人ごとと高を括っていたことが、自分が思わずも当事者となってしまった場合はとりわけ顕著でした。ですから、本人の望み(推測)というのを言い訳にするのは、一切やめようと思っています。

病院に入院するだけで、不安定になりせん妄を生じさせる。あるいは様々な処置なりその事前の準備自体が苦痛で嫌がる。たとえ意識のレベルが低下していてもそうした親の姿を見ていたくない、これは自分の願望であって、当事者のそれではありません。自分なら、そうした行為(延命的措置)を受けてまで薄れる意識のもとで生きていたくない。これは自分の価値観であって、親のそれではありません。特に事前の意思表示がない以上、結局は、自分の判断、意識、感情、価値観で親の末期の姿を決めた。その事はずっと自分で背負っていくべきだと自分に言い聞かせています。

しつこくパトリシア・プティボンの歌について

パトリシア・プティボンの歌について続けます。前の記事でSend in the clownsの歌詞についてこんなふうに言われても心は動かないとか失敬なことを書いてしまいました。次の節をツラツラ聞いていると、そんなことでもなさそうです。

Don’t you love a farce? My fault, I fear
I thought that you’d want what I want, sorry my dear
But where are the clowns? Quick send in the clowns
Don’t bother they’re here

私が恐れていたこと、私の失敗とここで言っているのはなんでしょうか?あなたの望みが私の望みでもあると考えてしまっていたこと、ん?別にそれならいいじゃないか、と思えます。この芝居を最初から見ればストーリーからわかるのでしょうけど、別にそこまでする気はありません。これは、男の方が結婚したら彼女に女優を引退して家庭に入ることを望んだ。女はそれを拒んで、女優を続けた。でも、それ(女優を辞めること)が本当は自分の望みでもあった。そのことに気づくのが怖かったし、今にしてみれば失敗だった。また遠まわしの言い方ですが、後ろの節のキャリア云々と相まって、そんなところではないでしょうか?

でも、その後続けてごめんなさいとちゃんと謝っています。グタグタ文句をたれているだけじゃない。でも言ったあと、ピエロはどこよ。早く呼んでちょうだいと慌てて叫び、最後はすべて諦めたようにもういい。ピエロはここにいる(自分がピエロだ)としめます。この節の情景は、これまでと打って変わって、とてもかわいいですね。ここがこの歌のクライマックスのようです。他のステージでは、どちらかというとサービス精神旺盛なオチャラケ系の演技を見せているプティボンが、ここではDon’t bother they’s hereと歌い上げて、その後口をすぼめて切なそうに頭を垂れます。もちろん、これも演技なんですが、見ていてこちらも切なくなります。

だからなんなんだ、という事になります。続けて書きたいことがあったのですがやめておきます。風邪をひいて、午後から仕事を休んで医者に行って来ました。まだ、ひきはじめだから一日温かくして休んでいろとのこと。それならと居直って、色々書いてみたくなります。

父の命日と行けなかったパトリシア・プティボンのリサイタルの事

11月2日は、父の命日でした。4年前のこの日、私は東京に向かう早朝のこだまの車中で訃報を受けました。

ドライブモードにしていた携帯に入院中の病院や伯母などから何回も着信があることに気づき、デッキに出て留守電を聞くと「容態が急変したから、すぐに連絡されたし云々」。病院に連絡をすると「心肺停止状態にある」と告げられる。それは、死んだという事かと尋ねると、そうだと答える。ずいぶんまわりくどい言い回しをするものだと思った。すぐに次の箱根の駅で下車して、折り返し名古屋に戻った。

その日、東京に向かったのは以前に納めた仕事の簡単な手直しがあったため、だがこれはあくまでもついでであって、その日の夜の新宿のオペラシティでのパトリシア・プティボンのリサイタルを聴くためでした。半年前の発売後すぐに予約をして、夜のコンサートのため、その日の宿泊と往復のこだまの切符のペアになった格安券を購入していました。新宿御苑前では東京デザイナーズウイークというものも開催されていましたが、それはどうでもよかった。

もうその頃には父親は体力的にはかなり弱った状態でした。それに3度目の入院も90日間が過ぎ、病状が固定したとのことで急性期型の病院であるそこからの退院を迫られてもいました。色々と手配に奔走して、戻って翌日の4日もある施設の面接の予定が入っていました。母親の認知症の進行のよる妄動や健忘、虚言もひどくなっていました。念の為、ギリギリまで発券を伸ばしていたが、前日までには手続きを済ますようにとの規定だったので、その晩、ああなんとか行けそうだ、さすがに今夜事態が変わることもあるまいと思いながら、近くのコンビニで発券をした、でも本当に大丈夫だなと一抹の不安を覚えたのを記憶しています。

行くことの出来なかったパトリシア・プティボンのリサイタルチケット

行くことの出来なかったパトリシア・プティボンのリサイタルチケット


パトリシア・プティボンについては、5年前の2008年2月から6月ににかけて、私のホームページ音楽・ディスク・オーディオ日誌に3回ほど書いています。そのなかでも、プティボンの動画を紹介してその歌詞を自分で翻訳した記事は、それなりに苦労して書いた思い入れのあるものでした。是非、下のリンクを開いてプティボンの歌だけでも聞いてみて下さい。中東の山賊のプロバガンダに手を貸すyoutubeの動画は貼らないことにしました。

その記事を書いた年の4月の名古屋での公演を聞き逃したこともあって、今度こそはの気持ちがありました。また、病気治癒のための自助努力をまったく放棄してしまっていた父親と、認知症の進んだ母親の看病・支援にかなり参っていて、せめてもの気休めにという期待もありました。ですから、折り返して名古屋に向かう車中では、色々錯綜する思いの中で、なんでせめてもう一日待ってくれなかったのか、こんなささやかな気休めすら取り上げるのかい、歌舞音曲好みはあんたの方の血だし自分は散々遊んだはずじゃないか・・・とか考えたりしていました。

それから4年、自分で書いた記事を読み返すこともなく、リンクした動画を開くこともありませんでした。とくに意識をしたわけでもなかったと思いますが、見る気にもなれなかったのかもしれません。最近になって、またこのプティボンの動画を見る(見られる)ようになりました。5年間、削除されずにネット上によく残されているものです。あらためて見る(聴く)と、本当に素敵です。艶っぽさと明るい可愛らしさ、それに見事な鍛えられて計算された芸が融合された稀有な例ではないかと思います。表情の作り方、目線の細かい動かし方や指先まで神経を行き届けさせたようなアクション。今なら動画で色々見ることの出来る美空ひばりさんやマリア・カラスさんと同じようなプロの芸だと感じます。


分かりにくかった歌詞も、ぼんやり何度も聞いていると、なんとなく分かったような気になってきます。年増になった女優が、娘のような年頃の女と再婚するかつての恋人を相手に、ネチネチ嫌味を言う。それも舞台用語の符丁やら持って回った言い回しを使って。そういうつもりで聞いて、5年前の訳にあえてつけ加えるとすると、こんなところでしょうか。

Isn’t it rich? Are we a pair

というのは、プロテスタントでプラグマティズムの国の

儲かりまっか?
ボチボチでんな

という言い回しにも思えます

Just when I stopped opening doors
Finally knowing the one that I wanted was yours
Making my entrance again with my usual flair

この言い回しもよくわからなかった。このopening doorsというのは、前はdoorsと複数形でもあるし、劇場の扉のことかと思いましたが、単純に心を開くという喩えではないかとも感じます。2行目、3行目は戻ってきてとか、やり直そうというあらためての好意の告白なんでしょうが、まあ何という持って回ったようなくどい言い方だこと。いくら旧知の間とはいえ、男の立場からすれば、こんなふうに言われても心は動かないでしょうね。

Sure of my lines
No one is there

このlinesというのも、前は劇場に並ぶ行列のことかと思いました。しかし、ぼんやり聞いていると芝居の最期のカーテンコールの列のことではないかとも思えます。つまり自分にはもう一緒に芝居をしてくれる人間もいない、あるいは芝居が終わってカーテンコールに並ぼうとしても一人ぼっちだ。こちらのほうがより孤独とかその悲しみを表現しているのではないでしょうか?


時間は、色々なものを忘れさせてくれます。忘れてはいけない事もある、とも言われそうですが、そうしたものも含めて忘却という領域に封印してしまう。日常の生活の中では、それで平穏さとか楽しみが得られるなら、許されることではないかと思います。

鯵包丁を買ったぞ!

今日、第65回正倉院展に行って来ました。

正倉院展の後には、ならまち商店街の端にある菊一文字に、ここ数年寄るようにしています。かなり高齢なご夫婦お二人でやっていらっしゃるのですが、今日もお二人とも元気に店番をされていて安心しました。で、結局買ってしまったのが下の画像のもの。鯵包丁は、ここ3〜4年この店に限らず刃物屋の前を通るたびに覗いてはためつすがめつしていました。一緒に歩いていて、それを複数回目撃された友人からはそんなに欲しけりゃ、買えばいいいのに!とかいわれつつ、でも年に何回使うか、加えてあと何年自分で料理が出来るかなどど考えて躊躇してきたのです。

奈良・菊一文字で買った鯵包丁ほか

奈良・菊一文字で買った鯵包丁ほか

貧乏木工屋の私は、魚屋の店頭で小鯵が一盛り200円とかであるといつも買います。それを南蛮漬けにすればうまくいけば3日食べられる(たいてい途中で嫌になるのですが・・・)。それで、ゼイゴを取るときに出刃包丁ではいかにも大げさ過ぎてやりにくい、柳葉では刃が痛みそうでいやだ。仕方なくステンレスの文化包丁でやるのですが、その時はいつもこれが鯵包丁ならもっと楽に上手く出来るだろうに・・・とイジイジしていたのですが、やっとそれから解放されるという、使ったお金に比して随分な満足感というか達成感に浸っています。

ほかには3分(9ミリ)の切り出しと骨抜き。切り出しは、その姿が美しかったのと、持った感触から研ぎ直してシラガキとして使えないかと思ったからです。ずっと愛用してきたシラガキをなくしてしまい、別のものを使っているのですが、イマイチしっくりこない。私の仕事の仕方からいうと、シラガキはその精度の基本になるものですから良い物が欲しいのです(物欲を合理化する理屈はいくらでも思いつきます)。

正倉院展について書くべきなのですが、今回は不思議なくらい見終わった後の感慨のようなものが薄くて、自分でも戸惑っています。帰ってもいつものように、気になった展示をあらためて図録で確認しようとも思えずに、鯵包丁をいじっています。今回出展されたものに心に響くものが少なかったのか、あるいは私自身の精神状態のゆえなのか、もしかすると一昨日見て実際に手にした文字通り煤けた古民具との対比で、その世界の違い戸惑っているのか、自分でもよくわかりません。もう少し落ち着いて整理出来たら、あらためて正倉院展については書きたいと思います。

綿繰り機 尾西(びさい)歴史民俗資料館を訪ねました

木の仕事展で、あるお客さんから綿繰機について問い合わせがあった。レプリカを作るか欠損している部品だけでも作れないかとのこと。スパイラルになっているローラー云々と言われるが、実物を見たことがないので、今ひとつ理解できない。”木のもの”楽器屋の南部さんから、お義父さんを介して詳しい人を紹介してもらい、なおかつ現物を見せてくれることになった。採寸、写真撮影も可とのことで、たいへんありがたい。

今日、お邪魔したのは一宮市尾西歴史民俗資料館。そこの学芸員の久保さんという方を紹介してもらっていました。着いて、久保さんに館内の一室に案内される。部屋の机に13台の綿繰り機が整然と並べられています。久保さんに普段、ここでこの機械を使って、ワークショップか何かされているのですか?と尋ねると、とんでもない、いずれも資料館の貴重な収蔵品で、今日私のために収蔵庫より持ちだして並べて下さっていたとのこと。見ず知らずの馬の骨のために本当にありがたい事だと恐縮しました。

収蔵庫から出してもらった綿繰り機

収蔵庫より出してもらった綿繰り機

予習を怠ったために、忙しい久保さんを引き止めて、トンチンカンな質問を繰り返して、ようやくその使用方法や構造について理解する。13台のうち、典型的な形状で、もとの機能も保持しているであろう状態の良いものを2台選んでもらって、詳細な採寸と写真撮影をやらせてもらう。それは後日、ホームページの方にCAD図面におこして掲載したいと思います。ちなみに、最初資料館の人として紹介をされた時は、こんな骨董民具に詳しい人なら、地元の学校の校長か教頭先生を退職されたか郷土史家の嘱託のおじさんだろうと勝手に思っていました(実際に最近、そういう人に会ったばかりでした。大きな川に沿った宿場町の資料館というのも同じ!)。電話でアポを取った時、女性であったので意外でしたし、お会いしてみると知的でキリッとされていて、こちらのアホな質問にもいやな顔もせず、親切に的確に答えて頂く素敵な人でした。博物館の女性学芸員というのをポイント高く絵にすると、こういう人になるのかなと思います。

採寸させてもらった綿繰り機

採寸させてもらった綿繰り機 RICOH GXR A12 50mm

この綿繰り機は、たくさんの使い込まれた物を実際に目にして、たいへん気に入りました。素朴な形状で、材料も一見粗末なものを使っているように見えて、強い負荷のかかるローラーを支える2本の縦桟には上質の目のつんだヒノキを使い、台には通しほぞで固定してあります。無駄のない勘所を押さえたと言える作りに感心しました。

この手回しの綿繰り機は、現在も京都で作られているようで、そのメーカーのホームページを久保さんにプリントアウトしてもらいました。戻ってから、そのメーカー・稲垣機料株式会社について調べてみる。地図を見ると、一昨日、京都での打ち合わせの後、ぶらついて、その真ん前を通っていた!まあ、間が悪いというか、ちゃんと事前に予習をしておけばと悔やまれます。別の記事として詳しくは書きたいと思いますが、レプリカを作ろうと思うと、このローラーを連動させるスパイラルのネジがポイントになります。新規の制作で、どのようなものとされているのか、またNCのフライス盤があれば、可能だと思うがそれにしても特殊なバイトが必要で、パーツとして入手可能かなど尋ねてみたかったと思います。



綿繰り機の採寸データをホームページに公開しました。

綿繰り機の採寸データ

京都・西陣

千本釈迦堂

千本釈迦堂 RICOH GXR A12 28mm

今日はあたらしくいただいた仕事の打ち合わせに京都・西陣に出向く。京都には学生時代を含めて16年間ほど暮らしたが、西陣界隈というのは土地勘もない。打ち合わせの前、1時間ほど早く着いて付近を散策。打ち合わせの後には、色々スポットを教えてもらってまた歩く。教えてもらったおいしい団子屋さんは、やはりすでに売り切れだった。中の老婦人いわく「さっき売り切れたとこや。すんません。」「さっき」というのは、2時間前かまたは応仁の乱の後という定番のジョークかと考える。

団子屋さん・日栄堂

日栄堂 RICOH GXR A12 28mm

上七軒

上七軒 RICOH GXR A12 28mm

トチの古材 その2 トチノキについて

トチノキについては、前にも書きました。

トチ

そこでは、冒頭こう書いていました。

トチの樹というのも私の大好きな樹です。ただこれも、木工の材料としてではなく、生きた樹として好きなのです。

今、読み返すと直截な青臭い表現で恥ずかしくなりますが、この仕事をはじめてまだ間もない頃だったと思うので、そのままにしておきます。実際にそうした思いもあって、これまでトチとブナは木工材料として使って来なかったし、買いませんでした。いや、厳密にいうと5年ほど前に,ある新築の高級マンションの最上階の部屋の造り付けのテレビ台を造りました。その時、トチの杢の入った薄板を岐阜の櫻井銘木さんで、6寸か7寸ほどの丈物(3m)の角材をマルス松井銘木さんで買い求めました。色々事情があってのことでしたが、それだけです。展示会で出展した置床も、いま弄んでいる板も、ストックしている板も、いずれも建築廃材や捨てられていた家具などの解体材です。その他には、廃業する材木屋から引き取った床板が何枚かあります。

前に書いた記事(トチ)は、日付を見るともう10年以上も前になります。それに加える形で、トチノキについて知っていること・見聞きしたことを書きます。

トチノキの老樹の幹

トチノキの老樹の幹(京都府美山町・管理者撮影) NIKON D70

何年か前に、奈良県川上村にお邪魔しました。その時案内してくださった村役場の人に聞いた話です。村の中の山林の売買というのは昔から普通に行われてきた。特に登記しない限りその山の立木(法律用語ではりゅうぼくと読んだりします)も、不動産に付属するものとして所有権が移る。ところが、村内ではトチノキだけは、元の所有者の権利が残り新しい山の所有者も勝手に伐採したりできない。それは転売され所有者が何度代わっても同じで、そのことを明記するため、幹に元からの所有権者の名前や屋号が墨書されたり彫り込まれていたり、あるいは立て札がかけられたりしていた。云々。

こうしたことは慣習法として、広く認められてきたということを昔何かで読んだか習った覚えがあります。川上村の場合、それがおもにトチノキに対して適用されてきたという事なのでしょう。なぜトチノキなのかは、その村役場の人もわからないとおっしゃってました。でも、それは田畑など農耕地の狭小な山間部の村にとって、秋のトチの実が貴重な澱粉源になっていたからではないかと想像します。でないとお椀や鉢などの挽物の材とされるくらいで、建材としてはほとんど価値のなかったトチノキが特に村での明認札の対象となるとは考えにくいのです。まあ、これはあくまでも部外者の素人の想像の域を出ません。

トチの実

トチの実

今は、土産物のようになってしまいましたが、少し前まではトチの実は山の人たちの貴重な澱粉源であり救荒食であったのは確かなようです。でも、それは人間にとってだけでなく、冬を迎える動物にとってもそうだったようです。地域によって気候によっても時期は違いますが、例えば関西の北部であれば10月の始め頃、トチの実は一斉に落果します。たしかまだ学生の時だったと思いますが、友人と二人で演習林の滋賀県側の麓の滋賀県朽木村(現高島市)で農業を営む人の所へ遊びに行った事があります。ちょうどトチの落果の時期にあたり、3人で背負子を背負って山に入りました。もちろん、演習林へはその貸借元である美山町や朽木村の住人に対しては山菜など採取の入会権は認められていました。山に入りトチの群落の下で実を拾ったり、歩いたりしているとき風が吹いて梢の擦れる音がすると、そこかしこにトチの実が落ちてきます。そうですね、外皮も含めると野球の球ほどはあるトチの実が、高い枝から落ちてくると怖いものです。実際に直撃をくらうと、痛いだけでなく下手をすると怪我をするのではないかと思いました。ヘルメットが欲しいと真剣に思ったものです。この時は、村の小学校で運動会が行われていた記憶があるので、旧体育の日・10月10日であったと思います。

でも、その時を逃して、例えば一日遅れると夜のうちに、あらかたクマや鹿や猪に食われてなくなってしまうとのことでした。ですから、たとえば少し遅れて紅葉の時季に山に入って、大きなトチの下や群落を歩いても実を見つけることはありません。川の岩場の陰とか、ウロの隙間で、どうかすると見つける事ができます。そうして持ち帰ったわずかな実も、別に面倒なアク抜きまでして食する気もなく展示会のディスプレイ用に置いていたりします。すると、たいていお客さんに面白がって持って行かれたりします。見た目は、本当にお菓子の栗まんじゅうのようで可愛いものです。