『ある精肉店のはなし』 纐纈(はなぶさ)監督のトークを聞いて

『ある精肉店のはなし』が、26、27日とアースデー名古屋の企画のひとつとして上映される。それに監督の纐纈はなぶさあやさんが来場されてトークの時間もあると教えてもらいました。すこしだけ迷って、でも結局行ってきました。行ってよかったです。

上映前に、青いカーディガンをお召になった少し大柄な女性が会場を出入りして、上映前には席の一番後ろで会場を見渡している様子でした。動画で何度か拝見していることもあって、すぐに監督の纐纈はなぶささんとわかりました。単にタッパがあるというだけでなく、たいへんな存在感をお持ちの人でした。映画では、自らナレーションを担当されているような滑舌のなめらかな聞き取りやすい、でも優しい良い声をされています。上映の後、トークタイムが設けられました。都合30分ほどもお話されたでしょうか?映画について、そもそもの企画から現在の上映についてまで、様々な視点からお話されましたが、すこしも退屈させません。あいまいなどこか誤魔化したような言葉や表現もされません。でも、あくまでも謙虚で丁寧なお話ぶりです。ついお話にひきこまれてしまいましたし、後で述べますが自分に引きつけて考えざるをえない点もあって、そのことでは心震わされて、自分もあることを始めようと思いました。

トーク中の『ある精肉店のはなし』纐纈あや監督

トーク中の『ある精肉店のはなし』纐纈あや監督

纐纈さんというのは、根っからの表現者で今は映画監督をされていますが、もしそれが出来なくなったら、一人芝居でも街頭パフォーマンスでも、何をしてでも外の世界への表現を続けるんだろうなと感じました。その表現したいものも安直な自己顕示ではなくて、纐纈さんが社会の中で見聞きして感じ考えた事を、一旦自分の中で消化して、これは誰かに伝えたい伝えなくてはならないとするものなんですね。その情熱がお話から良く伝わってきます。

纐纈さんのお話は、下記のシネマスコーレの動画でも見ることができます。当日のトークもこれと重なる部分もありますが、それこそカメラが回っていないということもあってか、より突っ込んだお話が聞けたと思います。以下、重なる点もありますが、動画で語られなかった話をメモから羅列してみます。

  • 最初にと場を見学したいと思ったのは、食べ物のなかで、肉だけがその出所を知らなかったから。と場の事前のイメージは、無機的・灰色・暗いというもの。『いのちの食べかた』というオーストリアの映画のイメージだった。
  • 松原のと場は熱かった。ライン化されてはいたが、中では労働者が全身で700キロ、800キロの牛と格闘していると感じた。残酷という感じはまったくない。ひたすらありがとうと思って見た。私が食べている肉は、こうして作られているのだ、ありがとうと思った。
  • カメラを回す時以外も、毎日北出さんのお店に通った。あの食卓が居心地がよくてあそこに座っていた。北出さんに食事は一人でするものでないと言われて、食事もごちそうになった。座っていると見えてくるものがある。
  • ホテルに泊まって、撮影の時だけカメラを持って入るようなことでは、人の生活は撮れない。
  • この映画は、マスコミやメディアでタブーとされてきたこと3つを取り上げている。生き物の命を奪うシーン、と場、部落差別。
  • メディアは、なにか事があるとそこで生活する人を当事者として、その断片を取り上げる。)ほうりの島』では、原発に反対する島民という当事者はじめからあったのではなくて、島で普通に生活していたところに原発の計画が外から持ち上がる。それを記録するなら、まずその普通にある生活を描かなくてはいけない。部落差別のことやその中での屠場の事も、その断片、断片を描いても何も伝わらない。北出さん一家の暖かい家族での日常の生活があって、それを支える生業として営まれている仕事として屠場や精肉のがある。その事をできるだけ伝えたい。
  • はじめは、ナイフ1本で家族で屠畜・解体をするそのワザを記録したいと思った。でも北出さんのご兄弟は、二人とも自分たちのしていることは、別に大したことではない。子供の頃から見てきたことを普通にやっているだけとおっしゃっていました。その日常を撮りたいと思った。
  • 撮影の間は、綱渡りというより糸の上を歩くような緊張感が常にあった。

この映画を、もう一度見て、あらためて強い印象を持ったのは、北出さんが水平社宣言の読んで、これはまさに自分たちの事が書かれていると思って部落解放運動に取り組み始めたというシーン。それと北出さんのお父さんが、小学校に上がった最初の日に教師から差別的な扱いを受けて、その教師に噛み付いて、それ以来学校に行かなくなったというエピソードです。それで、お父さんは文字が読めなかった。北出さんのお父さんについては、ご兄弟の話を通して監督も強い印象を持ったようです。私もそのシーンで一人の人のことを思い出していました。なんで、最初から思い起こさなかったのだろう。

纐纈監督のトークの中で、とくに心に残ったのは当事者扱いして、その断片を取り上げて語っても何も伝わらないという言葉でした。長くなるので、投稿をあらためます。

ノキシノブ その2

私は、あまり上等でない木造の家並みの多かった四日市の下町で育ちました。今思い出しても近所は、万古焼の工場やその問屋、鋳物屋、大工、建具屋、畳屋、仏壇屋、左官屋の職人の住まいなど色々でした。私の実家もそうした中でタバコ屋兼ヨロズヤのような事をやっていました。だから、ノキシノブなんて珍しくもないはずで、逆にそれゆえかハッキリとどこで見たとか、どこにあったとか言う記憶がないのです。わびだ、さびだという感傷とは無縁な子どもにとっては、あんなものただ貧乏臭いだけの少しも美しくないシロモノですものね。気にもとめていなかったのだと思います。でも、百人一首の順徳院の歌を教わった時は、とくに疑問もなく軒端のしのぶを受け入れていたので、知ってはいたはずです。

その軒端のしのぶを、あらためてはっきりそれと意識して見たのは、今からちょうど10年前の大阪北部のある神社でした。願掛けをしてもらっていた、ある病気の治癒のお礼参りに訪れたのですが、促されて上げた目線の先、たしか手水舎(ちょうずや)の軒にノキシノブが茂っていました。もしかしたらもう自分はここにはいなくて、それで誰か偲んでくれる人がいたとしたら、あまりあるむかしのひとつになっていたのか。とか順徳院の歌がうかんでしばし眺めておりました。

洛東遣芳館のノキシノブ

洛東遣芳館のノキシノブ

写真は、去年の今頃、京都の五条問屋町下がるの洛東遺芳館で撮ったものです。たまたま春の公開時期に近くを歩いていて訪れました。江戸時代から続く紙問屋さんの邸宅と代々の当主収集の収蔵品を春と秋に公開してくれています。あまり訪れる人もないようですが、建物も、収蔵品もきちんと管理されたすばらしいところです。

とか書いていたら、行きたくなって来ました。しかし、この春の公開は5月5日までのようです。もう連休に入ってしまってからの京都に出かける気にもならないのでやめておきますが、既にお出かけを予定されている人はどうぞ訪ねてみてください。

 

 

映画・『ある精肉店のはなし』がまた上映されます。おすすめです!

前に紹介した映画・『ある精肉店のはなし いのちを食べて いのちは生きる』が、ゴールデンウイーク中に名古屋のシネマスコーレで再び上映されます。見逃された人はぜひどうぞ。5月3日〜9日16日、時間はいずれも12:00〜13:50です。私は、その前に上映される『夢は牛のお医者さん』も見たいので、もう一度見に行くつもりにしています。

この映画について、ブログに書いただけでなく何人かの人に話をしました。中には「そんな映画を見たら肉が食べられなくなる」とおっしゃる人もいました。しかし、どこかの動画で監督の纐纈はなぶさあやさんは、「見終わった人がお肉を食べたくなるような映画にしたい」とおっしゃっていました。それで、実際に「肉がたべたくなった」という感想をもらったそうです。私は、肉がたべたくなったとまでは言えませんが、肉をいただく時は、ゆっくりとちゃんと味わいたいと思いました。たんに肉だけでなく、食べると言うこと自体を考える良い機会になります。

これを書いているうちに、Eテレの「スーパープレゼンテーション」という番組でイギリス人のジェイミー・オリバーという料理人が、アメリカやイギリスの食事と肥満について、具体的な数字や映像を交えて語っていました。ある程度知っていたつもりでしたが、かなりショッキングな内容です。私がまわりで普段目にしている状況から、日本もそうなりつつあるように感じています。私達が口にするものが、どこから、どうした人たちの営みによってもたらされるのか、やはり機会を探してでも知っておくべきだと思いました。

ノキシノブ

昨日は、城下町ウォッチ→城のある山へ登頂→おいしい食事 という粋で中身の濃い休日を企画してもらいました。ありがたくも嬉しいことです。58才となりました。途中からの雨もご愛嬌。晴れ男、晴れ女をそれぞれ自認してるものがバッティングするとお天道様がウザったく思って雨を降らすのか、なぜか雨が続きます。不思議なものです。

待ち合わせの前に、19の春に今はもう亡くなった叔父に連れられて歩いた所を覗いてみる。39年ぶりということになる。そこで見かけたもの。コンクリートの軒端(のきば)のしのぶということかな。

コンクリートに生えたノキシノブ

コンクリートに生えたノキシノブ GXR A12 28mm


百敷ももしきやふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

家にも百人一首のカルタはありましたが、もっぱら坊主めくりをするばかりで、歌などなにも知らなかったと思います。学校の古文の授業で習ったのでしょうが、私はこの歌がなぜか気に入って諳んじていました。ももしきモモヒキと読み替える子供らしいいたずらではなくて、下の句のなほあまりあるむかしなりけりという調子の良い語呂が気に入っていたような記憶があります。

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裏をさらけ出されてしまった問屋街 GXR A12 28mm

再開発?

再開発? GXR A12 28mm

刳り物

5月になるとあることを始めるため、モラトリアムも残りわずか。ニカワ、漆、ともうひとつやっているのは刳り物。刳り物のキモは刃物かなと考えています。サンドペーパーなどで安易に削ったりすると、冬目が立って凹凸が生じます。これにたとえば拭漆などを施すとこの凹凸が強調されて、だらしのない締りのない仕上がりになります。アマチュアの人の作品によくあります。

あと、下掘りだからと機械を使うと、私の場合は何かしら力のない勢いのようなものがない形になるような気がします。最初、すくい鑿で叩いて、四方反り鉋と彫刻刀で形を整えます。最後に大きめの四方反りの刃を抜いてスクレッパー代わりにして傷を消すように仕上げます。その上でサンドペーパーで木地を整えるようにします。

こういうことをやりだすと、私は際限なくダラダラと続けてしまうのですが、今は犬がいるおかげで歯止めになっています。

「イシナラ」と呼ばれる固いナラをゴリゴリやっています

「イシナラ」と呼ばれる固いナラをゴリゴリやっています

 

失敗

夕方からバタバタと用件が重なって、結局夜の8時前になりました。一日違うだけで、昨日は月の左にいた火星が、今日は月の上に。距離も離れています。換算で90ミリ程度の望遠でなんとかおさまるくらいでした。でも、結局ならんだ姿は上手に撮れません。露出を上げると月の姿が光芒の中に埋もれてしまうし、月をくっきり写そうと少し絞って(F8程度)、シャッタースピードも1/200くらいにすると、今度は桜や電線がシャドーの中に埋もれてしまいます。火星はセンサーのゴミほどにも残りません。目では、月も火星もくっきりと桜の枝や電線の上に輝いているのに残念です。せっかく弟にもらった重たいニコンの一眼レフを久しぶりに持ちだしたのに。

なにかやり方、撮り方があるのでしょうが、もうこれ以上カメラがレンズがとかやりたくないし、別に昨日の絵くらいでも構わないと思っているのでやめます。でもせっかくなので、月だけ撮った1枚。等倍表示で、いつもの横1200ピクセルになるようにトリミングしています。ちなみにこのブログで貼っている画像は、だいたい長辺1200ピクセルに縮小してあります。更に表示は基本的に横587ピクセルに統一されています。画像をクリックしてもらうと、1200の画像が表示されます。

NIKON D300 AF-S NIKKOR 55-200mm

NIKON D300 AF-S NIKKOR 55-200mm

ついでにこのD300、操作を思い出すためにバシャバシャ撮ってみた。シャッターとかミラーの機械的動作がシャキっと小気味よい。もう少し小さくて、軽ければいいカメラなのになあと思う。

NIKON D300 去年試しに撮った切り出し小刀

NIKON D300 去年試しに撮った切り出し小刀

こんどは火星

遅めの散歩に出ると、そうか今頃は火星が月のお供をしている。しかもその火星、今は地球に近いらしい。良い名前だ。本当に赤い。戻ってデジカメを持ち出すが、なんだこれはという絵にしかならない。ただ、こうした人工物と月の組み合わせの絵は好きだ。明日は満月、なんとかしたい。

電線の間のつもりがもろにかぶる

下手な絵だなあ。それに電線の間のつもりがもろにかぶる

年明けにニカワで遊んで、今は漆でいろいろ試している。とりあえずはまた拭漆の技法を確かめるようにトチの板に施す。なんだか手が既に漆にかぶれているように見えるのは、このデジカメ(GXR)のホワイトバランスがしょぼいせいです。

ヘラや刷毛を使う時は最近は素手

ヘラや刷毛を使う時は最近は素手、ただアマチュアの人はマネをしないほうが良いと思います。

仕事柄、鰹節は鉋で削る

今日は(日付では昨日になってしまったぞ)日曜日だけど、思う所あって昼から少し仕事をした。その分、まあいいかと思って夜更しをしてお酒を頂く。指から二の腕にかけて痒くなる。そうか、漆を触っていたのだと気がつく。あてはほうれん草のおひたし。先日雨中の花見の弁当に持って行った時に、醤油を忘れて削り節だけで食べた。ほうれん草も鰹もそれぞれの味があらためて良くわかったように感じておいしい。これまでちゃんと味わっていなかったのだと思って、以降は何もかけずに頂いている。

おちょこは、天目茶碗(再現品)ということらしい。やはり頂きもの。

能古見もこれで終わり

能古見もこれで終わり。すいません、食べ散らかしを酔っぱらいの絵です。