食べるということ

今日は、食事介助の講義と実技でした。昼には、受講生同士がペアになり実際に夫々が用意した弁当をお互いに食べさせ合います。食事介助の実習というより、人に食べさせてもらうことがこんなにも辛く切ないという事を、利用者(被介護者)の立場になって実感するという事に狙いがあったようです。

自分で作った弁当が、全然美味しくなく、食事自体が少しも楽しくありません。いくら優しく気を使ってもらっても、他人に食べ物を箸やスプーンを使って口に運ばれるだけで、食べることが苦痛になります。自分のペースで、自分の望むものから、自分の欲する量だけ、自分で口に運ぶ。こうした当たり前すぎる行為が、実は食事を楽しむということの前提なのだと思いました。それと、コップからお茶を飲ませてもらうという事は、恐怖です。コップが傾けられ、どれだけの量のお茶がどのタイミングで口に注がれるのか、いくら声かけをしてもらっても、なかなか感覚的につかめません。いわば海で溺れて水を飲んでしまうような恐怖感があります。これに比べれば、楽のみというのは、介助はしてもらっても自分で吸って飲む形になるので、なるほど良く出来ているとあらためて思いました。弁当の残りは、普通に自分で食べましたが、そのありがたいこと楽しいこと、美味しいこと。あらためて普通に自分でご飯を食べることの出来るありがたさを感じました。

今は、1体1でお互い受講生同士ゆっくりと気を使いながらやってもらってもこんなふうに思ってしまいます。これが、実際の介護施設では、何人もの利用者を相手にしながら時間の追われながらになります。いくらプロの介護者であっても食事は辛いものになりかねません。

母親が亡くなる年(去年)の3月に、背中の圧迫骨折をやって、大変に痛がって食事を摂らなくなった事がありました。心配して私や伯母がしばらく詰めて、食事の介助をしましたが、強く拒絶されました。無理に一口二口、口に含ませると怒り出します。ベテランの職員に代わってもらっても大差ありません。その時は、圧迫骨折による痛みのせいか、あるいはそれにより認知症が進みわがままがより高じたせいかとか思っていました。その頃には母親は摂食・)嚥下(えんげともかなり弱ってはいましたが、まだ食事と排便は自分で出来ました。それが骨折による痛みもあって体が動かせなくなり、他人に食事の世話になる。今日のわずかの経験で、あの時母親が他人の介助による摂食をあんなに頑なに拒絶した気持ちが今さらながら分かりました。ほどなく痛みは残るもののなんとか摂食できるようにはなりましたが、以降急激に体が弱り始め表情も乏しくなり、11月には誤嚥性肺炎で亡くなります。一時的にしろ食べること、排泄を他人に頼らざるをえない状態になったことが、いくら認知症を患っていたにしろ生きる意欲のようなものを奪っていったのだろうと今は思います。

前の記事で、現に家族を介護している人は、あらためて介護について学んだりする気にはなれないなどと一般化して、偉そうに書きましたが、あれは私自身のことを言っているのに過ぎなかった。今日、食事介助のペアになってくれた人と色々お話をさせてもらいました。彼女は義理のお父さんを看とっています。それに今は認知症の実の母親の介護をしているそうです。その過程で色々ひどいことも言われ、嫌な目にもあっているだろうことは何となく分かります。それはね、経験者同士お互い様なんです。ご主人も今、ご自身が腹膜透析をしながら介護の現場で働いているそうです。それもわざわざ転職して。彼女も近々開所される訪問介護センターで働くことが既に決まっているとのことでした。

なんでわざわざと思ってしまいます。他の受講者の皆さんを見ていても思うのですが、単に経済的な問題なら、他に割のいい仕事はあるでしょう。一方で、例えば今日でも摂食障碍・嚥下障害について講師の施設での実例を含めて勉強して、実際に介助による食事を体験して、もうこんな事になるのなら生きていたくないなと、思っている自分がいます。そんなことを少しでも考えている人間に介護なんてされたくはないでしょう、誰だって。するとなんでお前はここにいるんだ、という事になり凹みますが、もうあまり深く考えないことにします。

東海道沿いの瀟洒なモルタル造りの洋館。社屋として使われているらしい。 GXR A12 28mm

東海道沿いの瀟洒なモルタル造りの洋館。社屋として使われているらしい。ヒマラヤ杉とツタが建物によく合っています。
GXR A12 28mm

介護職員初任者研修講座、実技に入っています

講座は、実技中心となり体位・姿勢の変換(起き上がり、寝返り)、着替え、車椅子のでの移動、ベットから車椅子への移乗などの介助を、お互いをモデルとして行う。私は、それらの事を3年間ほどもやっていたのだが、結局見よう見まねの力任せでやっていたことにあらためて気づく。

現に家族を介護している人は、あらためて介護について学んだりする気にはなれない。それは当事者として常に目の前にある現実であって、出来れば一時であってもそこから逃れ忘れたい。それを知らない第三者からきれい事の美談めいたものを押し付けられたりするのは苦痛でしかないし、一歩ひいて技術として考え習得しようとする精神的かつ時間的な余裕もない。自分に対する言い訳も含めて、それが家族介護者の現実ではないかな思ったりする。

ただ、真面目に親とか家族・親族、あるいは地域での、さらに大きく言えば日本の将来の事に少しでも思いをはせる事が出来るなら、介護の問題を考えてそれに備えることは可能なんだ。講座に参加している他の人の話を聞いてそれは思った。最初のガイダンス、講師ごとになど都合3回ほど受講者同士の自己紹介があった。私も含め9人(女7人・男2人)、皆さん相応の社会人だ。2日に1度顔を合わせる事で気心も知れてきた。皆さんの介護職員初任者講座を受講し、資格を取ろうと思った動機などをあげてみると

  • 定年退職を前に、今後の社会参加のために今必要とされている事は介護ではないかと考えた
  • 介護施設で食事を作る仕事をしているが、施設の介護職の人の働きぶりを見ていて、私もやりたいと思った
  • 公務員を早期退職して次の仕事として考えている
  • 子どもが入園して少し手を離れたので、もう一度社会参加をしたいと思った
  • 義理を含めて4人の親が健在で、やがては直面するであろう介護に備えて

などなど。皆さん、きちんとした生活者としてまずは直近の将来に対して、社会との関わりを含めて真面目に考えている事に頭が下がります。別に定年退職したら趣味の世界、それまで出来なかった自分の世界に没頭してもいいじゃないですか。子育てが一段落したら、ママ友とランチしたりとか少し息抜きをしてもいいと思います。私は、母親がボケだしたと聞いた頃も、苦労をかけさせた父親が今度は責任を持って面倒を見ろよとは思っても、自分の事としては考えていませんでした。他の受講者の皆さんの話を聞いていて、これまでの50余年、結局自分のことばかりを考えて生きてきたなあとは思いました。

週3日、講座があるので基本、土日も仕事をしています。そのせいか、はたまた往復26キロを自転車「通学」をしているせいか体のほうはヘタリ気味です。夕方、食事を摂ってそのまま一旦寝てしまうという高校生の時以来のざまも何日か。今日昨日もそうでした。自転車通学のほうは、通う楽しみにもなっていますので、やめられないなあ。画像は、途中1号線沿い員弁川近くにある素敵な2階建ての木造の洋館。地元の人に聞くと2〜30年ほど前までは開業していた医院だそうです。今でもきちんと手入れされています。

旧武藤医院1 GXR A12 28mm

武藤外科医院1
GXR A12 28mm

旧武藤医院2 GXR A12 28mm

武藤外科医院2
GXR A12 28mm

長太なごの大楠

三重県で大楠と言えばやはり長太なごの大楠か。と土曜日の昼休みに思いついて出かける。自転車で行ける距離だけど、ペダルとサドルは食傷気味なので電車と徒歩にする。 近鉄・長太ノ浦駅で下車して西南の方向に歩いて集落を抜けるとすぐに目に止まる。

実はこうして間近に見るのは初めてだったのだ。子供の頃、 鼓ヶ浦の海水浴場に家族で何度か出かけた折に、近鉄電車の車窓から教えられて眺めたような記憶がある。あの頃は、周辺に家なども少なく確かに田の中にこの樹を見ることが出来たのだろう。

鈴鹿市の看板によると、樹高26メートル、目通り直径2.9メートル、枝張りは東西30メートル、南北35メートルとある。今はまわりは一面麦畑となっているが、その中で一本立ちする姿はなかなかに美しくも立派です。それにこの樹はよく見られる枯れた巨木ではなく枝ぶりも若々しく勢いがあり、葉の緑も瑞々しい。生命力を感じさせる樹です。

南から見た長太の大楠 GXR A16 31.8mm(50mm)

南から見た長太の大楠
GXR A16 31.8mm(50mm)

北から見た長太の大楠 GXR A16 31.8mm (50mm)

北から見た長太の大楠
GXR A16 31.8mm (50mm)

GXR A12 28mm

GXR A12 28mm

GXR A16 55.5mm (85mm)

GXR A16 55.5mm (85mm)

GXR A16 46.5mm (70mm)

GXR A16 46.5mm (70mm)

麦畑の畦で大判カメラで撮影している人もいた GXR A16 55.5mm (85mm)

麦畑の畦で大判カメラで撮影している人もいた
GXR A16 55.5mm (85mm)

町屋橋跡の楠

自転車通学にも慣れて、今朝も気持ちよくペダルをこいでいた。途中、朝日町の辺りで後ろから短いスカートの裾をひらひらさせた女の子のママチャリに抜かれる。あっさり差し切られるようにグングン離される。あれはママチャリのように見えて実は電動アシスト自転車だと思いたい。しかし、信号の変わり目に差し掛かって立ちこぎで更にスピードを上げていたので、やはり普通のママチャリなのだろう。

座学とレポートの提出の授業も今日で終わりで、これからは実習中心のカリキュラムになる。 午後の最期のコマでは、雑巾縫いの実習。細い縫針に太めの木綿糸を渡され、これに糸通しというのはなんの罰ゲームかと思ったが、他のおばさま達も苦労している様子で安心しました。結局、ボビンに巻いたミシン用の細めの糸を使って作業しました。ただ、隣の席の比較的若い女性はその太い木綿糸を通していました。これも加齢による視覚の低下を身を持って体験するという実習か。

こちらは、東海道の員弁川にかかっていた町屋橋のたもとにある楠。今は料理旅館の構内にある。太夫の大楠と違って、真っ直ぐ幹の伸びた整った美しい樹勢の樹だ。

町屋橋跡の楠

町屋橋跡の楠

太夫たゆうの大楠

コンビニにおいてあった観光案内の地図を見て、昼休みに行ってみた。講座が開かれている有料老人ホームから自転車で5分程、ただし登り坂が続く。いかにも古い城下町の山の手という風情の住宅街の中にあった。2本並んでいるのか根は共通なのか、よくあるすっとした楠の巨木ではなく、強い樹勢と荒々しいばかりの姿を持つ。おそらくかつては他の競合する樹木と光を奪い合いながら、それを圧倒してきたのであろう。そうした野生の強さとおぞましさのようなものすら感じる。

残念ながら、その姿・醸し出す空気のようなものをカメラにうまく収めることが出来ない。

 

太夫の大楠1 GXR A12 28mm

太夫の大楠1
GXR A12 28mm

太夫の大楠2 GXR A12 28mm

太夫の大楠2
GXR A12 28mm

太夫の大楠3 GXR A12 28mm

太夫の大楠3
GXR A12 28mm

ディドの哀歌

2年前の6月、名古屋伏見の電気文化会館ザ・コンサートホールでのリサイタルで、私の好きなクリスティーネ・シェーファーが歌いました。

When I am laid in earth,
May my wrongs create
No trouble in thy breast,
Remember me, but ah! forget my fate.

私が死んで葬られる時
やらかした過ちの数々が、
あなたを煩わす事がないように
思い出してね、でも最期のことは忘れてしまって。

(拙訳です)

ヘンリー・パーセルのオペラの中のアリアです(『ディドの哀歌』)。リサイタルの前半の最後の曲でした。最後の節” Remember me, but ah! forget my fate.が切々と繰り返されます。

これは、認知症の人の残された人への最後の言葉ではないかとその時聴いていて思いました。もちろん劇での設定は全然違うのですが、そんなことはどうでもよろしい。今、講座で老化とか認知症の事をあらためて勉強していて、またその事を思い出しました。思い出してね!でも好きこのんでボケたわけでない、その” fate “は忘れて欲しい。

2012年6月30日 クリスティーネ・シェーファー リサイタル

自転車で東海道を走って帰りました

講座の開かれている老人ホームまでは、正味13キロほどで、自転車でタラタラ走って小1時間おおむね50分ほどの距離になります。今日の帰り道は地元から来ている人に教わって旧東海道を通りました。往路に使った国道1号線と違って走りやすく快適だ。もちろん車ではなくて自転車での話です。昔の街道は、曲がりくねって遠回りをしているように感じます。あれは、地形の微妙な凹凸の間をなぞるように丘を避け沢を巻いているからだと思います。自分の足で歩く、また馬を曳き荷車を押して歩くような場合、坂の登り降りが何より辛い。雨の日の水たまりや水没は最悪だったことでしょう。多少は遠まわりであっても、出来る限り平坦な道がありがたい。昔の街道というのは、そうして何十年、何百年の時間をかけて、あるいは試行錯誤を繰り返しながら作られてきたものなんだろうな。

自転車でゆくと、あるいは徒歩の場合よりも道の勾配をベダルにかかる負荷として繊細に感じることができます。先人の開いた道のありがたさを実感できます。逆に、今の「道路」を車に煽られながら走ると、それがいかに車中心・車本位の生身の人間に優しくないシロモノか良く分かります。

さて、ここをたとえば200年前、お伊勢参りの人が歩いていたのだと思うと愉快です。これから少しづつ横道にもそれて遊んでみたいと思っています。

早くお休み下さい、中曽根大勲位

昨日の憲法の日、老いさらばえた醜怪な姿を公衆に晒している政治家がいました。この人は、まだ自分の孫やひ孫にあたるような若い人に武器を持たせて人を殺し、また殺されるような国にすることに執着しているのでしょうか。その禍々(まがまが)しさは、もはや何かにとりつかれた魑魅魍魎ちみもうりょうのように思えてなりません。そんなことよりも、かつて自分が通産大臣だった時に推し進めた原子力発電が、この国を壊してしまったことを少しは反省して、その責任をどんな形にしろ取ってから公の場からさる。それがあなたの最後の役目でしょう。

少し前に、図書館の雑誌で読んでメモしてあった歌があります。さすがに、こんなものを引用するのは品がないと思っていましたが、このご老人がいまだ公人として憲法改正を叫んでいるのを聞くと、甘かったと思います。この人と石原慎太郎は一分でも一秒でも早く、すくなくとも公の場から姿を消してくれるのが日本のためだと信じます。

1918年生まれ、今年96歳か。

日本を原発大国にみちびきし中曽根康弘まだ生きている

原発の導入すすめ靖国の公式参拝したるナカソネ

日本を胡乱うらんな国にした男ナガゾネヤズヒロぼくは嫌いだ

いずれも高野公彦さんの歌です。こうした歌も一緒に発表されていました。

海かぜに原発ねむるにんげんのいかがわしさの標本として

ゆっくりと起こる海進海退の一千年後原発無けむ