古い『工房日誌』の記事を整理

「工房日誌」をブログに移すに当たって、古いHTMLで書いていた「工房日誌」の記事のうち、あるものは単独のページとして関連するホームページの中に置いた。また、このブログにも東日本大震災以降の記事は時系列だけ編集して載せている。それ以前の記事は、ハードディスクには残っているが、次第に自分でも忘れてゴミになりかけている。まあ、それでもかまわないのだけど、年末のディスクの整理に合わせて読み返してみると、良寛和尚の短歌に関するものなど愛着のあるものもある。一旦は公開したものだし、少し整理してサーバーにアップすることにしました。

残念ながら途中、2回ほどパソコンのハードディスクをクラッシュさせているので、部分的に2003年くらいまでしか遡ることが出来ないのですが、年末年始にかけて徐々にアップしていきます。とりあえずは、2010年と、2009年分をアップします。

終い弘法で買ったもの2014 その2 麻の浴衣(古着)2枚と器を2つ

弘法さんや天神さんでは、骨董やテキ屋の他に最近はクラフトの店も多い。

弘法さんや天神さんでは、骨董やテキ屋の他に最近はクラフトの店も多い。

麻の浴衣 2枚

古着屋で2枚で1,000円。漆の布着せ用。上のものは、糊付けされてきちんと畳まれて、今、箪笥から出されたような状態。着られるか?と思って羽織ってみたら、やはりバカボンになりました。 もう一枚は染みだらけでクタクタで、こちらからバラして使おう。

古着の麻の浴衣2枚

古着の麻の浴衣2枚

以下、骨董ではなく、クラフトで出展されてるものです。

菅原顕悟さん 八寸粉引きの鉢

昨年、皿を買った奈良の菅原顕悟さんの8寸の粉引きの鉢。2,000円。最近は、普段使いにはこうした妙な主張のない器がいいな。菅原さんは作家ぶったところのない穏やかな物腰なのもいいです。実は、7寸の鉢とこの8寸のものと迷っていたら、持っていた鞄が展示の机の下に収納してあった茶碗に当たって、落として割ってしまった。すぐに飛んできて変な所に置いてあるのが悪いのでかまいませんとかばってくれる。で、あわてて高い方の8寸の鉢を買った次第。使い勝手はいいんだけど、研ぎ汁で煮立てて養生する大きな鍋がない・・・。さっそくいつものコンニャクの煮物を入れてみる。

永田工房 手びねりの小鉢

こちらは京都の永田隆郎さんの手びねりの小鉢。1,600円。不思議な図案で、これは何かと尋ねたら、芋の葉とのこと。なぜか気になって買ってしまった。

永田さんのてびねりの小鉢と菅原さんの8寸粉引きの鉢

永田さんのてびねりの小鉢と菅原さんの8寸粉引きの鉢

終い弘法で買ったもの2014 その1 鉋身3枚

弘法さんに例年出展している砥石屋。砥石の売買もおかしな事になっていますが、そこそこ良心的価格設定。

弘法さんに出展している砥石屋。砥石の売買もおかしな事になっていますが、ここはそこそこ良心的価格設定。

鉋身3枚

大宮通り沿いの入り口から入ってすぐの謂わば一等地に今年も出展していた砥石屋で買いました。もう道具は買わないと決めているのですが、冷やかしのつもりで覗いたこの砥石屋で目に入ってしまいました。鰹節削りを頼まれている事もあって、こうしたチビた薄い、出来たら頭の四角い鉋があればと思ってはいました。それにこうした屋外で見るとありがちなのですが、これらはせいぜいがいわゆる寸四くらいの小鉋だと思っていました。値段以外に書いてあるものは、こうした露店でのつねで無視。

終い弘法で買った鉋身3枚。いずれも地金が柔らかく鋼が薄く使いやすそうだ。しかもちゃんと使われている

終い弘法で買った鉋身3枚。いずれも地金が柔らかく鋼が薄く使いやすそうだ。しかもちゃんと使われている

一目、地金は柔らかそうで細身な作りの私の好きな形だし、それなりにちゃんと使われ研ぎ減ったもの、つまりは良く切れて使いやすいものだったという事だ。それにヤクザなテキ屋の手によってグラインダーなどかけられていないのも良い。古い炭素鋼の場合顕著だと思いますが、その時点で刃物としては終わってしまいます。肝心の裏にも錆が出ていますが、「クサレ」といわれる鋼を貫通しているような錆傷はないようです。と言う事で、3枚を選んで合わせて3,000円で購入。あ、関西では常識ですが、こういう所で言い値で買うのはアホですから注意して下さい。

実際に持ってかえって見ると、店頭での印象より大きい。札に2寸半とあるのは鉋幅の実寸法で、鉋の呼称としては二寸となる(この辺りのことは鋸身の呼称と同じでややこしいのだが、ここでは触れません)。同じく2寸のシールのものは、実際には寸六のそれになる。

裏を押し直す

こうした露店に並んだ中古鉋の場合、裏は押し直すというより作ると考えたほうがよいでしょう。特に、こうしたチビたものはかなりの覚悟が必要です。慎重に、叩いては押しを繰り返し、じっくり裏(隙)を作ってきます。しかし、二寸の鉋の四角い形のものを、鋼に玄能を当てて割ってしまいました。気を取り直してなんとか他の2枚の裏を作りました。まだ完全とは言えませんが、とりあえずこんなものでしょう。

裏を作った二寸の鉋。「別誂」、「請合」とはあるが銘は読みづらい。

裏を作った二寸の鉋。「別誂」、「請合」とはあるが銘は読みづらい。

昔よく見た「土牛」、「鉄山人」「井本」の刻印。よく切れ使いやす出来る職人の普段使いの良い鉋だったようだ。

昔よく見た「土牛」、「鉄山人」「井本」の刻印。よく切れ使いやすい出来る職人の普段使いの鉋だったようだ。

 

表の研ぎ直しと片減りの修正

あと、やはり片減りしています。前に砥石の話というホームページ中の記事でも書きましたが、どうしても利き腕の側に力がはいるのか、研いでいくうちに、そちら側が減っていきます。この二寸の鉋の場合、裏から見て右側が、寸六の場合は逆に左側が減っています(左利きの職人が使っていたのでしょうか?)。これを、砥石の話 研ぎの実際2でも書いたように残っている側にグッと力を込めて研いで修正しています。加えて、大切れ刃といって刃先が鋭角になりすぎています。それを本格的に修正するには残された鋼が少なすぎます。刃先に力を入れて研ぎ、すこしづつ立てていきますが、とりあえずは針葉樹の仕上げ専用と割りきるしかありません。別の機会に触れたいと思いますが、大工の中にはこうして大切れ刃に一旦研いでから、刃先のみ仕上げ砥石で二段研ぎして杉を削る人もいます。

それと、裏を押すために叩くと、どうしても刃先線自体も歪んできます。そのためこうした大掛かりな裏の押し直しと、刃先の片減りなどの修正も含めた研ぎ直しは、交互に少しずつ進めていく必要があります。

片減りしていた向かって右側の端近くがまだ研げていない。

二寸の表側。片減りしていた向かって右側の端近くがまだ研げていない。

寸六の表側。裏だしのため叩いた痕がまだ残る。こちらは片減り修正で、左側にまだ砥石が当たっていない。

寸六の表側。裏だしのため叩いた痕がまだ残る。こちらは片減り修正で、左側にまだ砥石が当たっていない。

こうして一応裏も表も研ぎ直しました。しかし当初の目論見のように、鰹節削りに使うには大きすぎます。無駄に鉋身が大きいと重たいだけで、研ぎにくいし良いことはありません。それでは、普段使いの鉋にするには、寸六はもう鋼がもたないし、二寸の鉋は、不思議なもので寸八の鉋に比べて研ぎも台の調整も格段に難しくなります。それに、どちらも台に据えるにしても鉋身が短くなりすぎて市販されている荒台だと台の厚みに鉋が隠れてしまい使い勝手が悪い。鉋身が短くなって台との接触面が小さくなると仕込みを余程ちゃんとやらないと硬い広葉樹を削る場合、鉋身がビビったり、次第に台から刃が出すぎるようになります。でも、鉋自体は、良く切れそうです。仕上げ専用として短めの薄い台を自分で一から彫ってちゃんと仕込めたら、薄くて使いやすい粋な鉋になりそうです。

中古鉋に手を出して、とりあえずまともに使えるようにするには、事ほど左様に手がかるものなのです。安く手に入るからといって、素人は手を出さないほうが無難です。こうして手をかけて使える状態にする、そして使う、その事自体ににやけた満足感を持つことができないなら、やってられない世界だと思います。

アリーナ・イブラギモヴァ バッハ無伴奏ソナタ・パルティータ全曲演奏

23日に、アリーナ・イブラギモヴァさんのコンサートに行ってきました。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータの全曲演奏というもの。時間をおいて1部、2部に分かれて演奏になりますが、通して聴きました。

今回は、さすがに途中ウトウトしてしまうかと心配でしたが、杞憂でした。若々しい躍動感あふれる演奏で、これも耳に馴染んだバッハの曲が、こんなにもすばらしい響きとリズムで体と神経を震わせてくれるんだと思いながら時間が過ぎていきました。まだ若いイブラギモヴァさんは、これから10年もすると大きなロシアのおばちゃんになるだろうなというふくよかな体型ですが、まだウエストもちゃんとあります。それで、時に膝を折るように曲げ上体をかがめ舞うように全身を使って演奏します。それがなんとも艶かしい。それに曲のダイナミックな要素を視覚からも感じることが出来るのは、ラジオではなくて実際の演奏を目の当たりすることの大きなメリットです。クラシカルな音楽の演奏家といってもやはり芸人なんだから、それが当たり前なんだと思います。

それと先々週聴いた「冬の旅」とは対極の世界かもしれませんが、こうした後付も含めた標題やらイワレのない音楽はいいですね。妙な先入観や薀蓄、押し付けがましい世界観に束縛されることなく音やリズムを楽しめます。

イブラギモヴァさんリサイタルのフライヤー

今年も行きました、京都東寺・終い弘法

21日(日)、今年も京都東寺の終い弘法に行ってきました。京都までは、今は新名神を使った高速バスが便利で、往復チケットで4,100円、片道1時間半ほどで行くことができます。この日は、京都駅八条口に9時着、近鉄で東寺まで出て徒歩5分程、9時半ころには東寺に着きました。

今年は日曜日と重なったこともあって、午後には大変な賑わいとなりました。その中で午後2時くらいまでウロウロしておりました。正月用品とか食い物の類にはさして興味がなく、例によってガラクタを並べたいかがわしさ満載の露店を巡ります。せいぜいが昭和初期頃あたりの明らかにプリントの欠けた染付の小鉢や皿は、みんな「古伊万里」だし、いかにも焼入れに失敗したという風情の無銘のパチモンの鉋はみな「石堂」だし、楽しいな。

いかがわしいと言えば、私自身も相当にいかがわしい存在と見られているかもしれない。古着屋で、江戸小紋の鮫の文様の茜色のきれいな着物があった。その型紙(伊勢型紙)の職人を知っていることもあって、手にとってしみじみと眺めていたら、テキ屋の兄ちゃんからブロークンな英語で話しかけられる。面白いから黙って聞いていたけど、客商売のプロにどこの人間と思われていたのだろう。まあ、このタッパで白髪のイガクリ頭で女物の着物を凝視していたら、とりあえず日本人ではあるまいと思われたのだろうか。


もう何年も、いつか欲しいと思いながら眺めているもの。和菓子の木型(サクラ)。このエッジの効いた見事な彫りと粋で斬新な意匠は、仕事場の目に着くところに飾っておきたい。と思いながら20余年。

サクラで作られた菓子の型。意匠としても多様で斬新で面白い。

サクラで作られた菓子の型。意匠としても多様で斬新で面白い。

矢立。これも欲しい。万年筆など持ち歩くくらいなら、自営業(商売人)ならこれを持ち歩いたらかっこいいぜ。といつも思うのだが、帯に指したりしてこそ様になる。鞄に入れたら墨がこぼれないかとか気になる。 根付のように、誰か露出の多い人間が使ってそれをマスコミが取り上げたら、とたんにブームになる気がする。それまでまだ時間もあるだろう。今回は、特に気に入ったものがあって悩んだのだが、こちらも、もう少し我慢。

矢立。墨綿はあっても、筆がないものがほとんどなのが不思議。

矢立。墨綿はあっても、筆がないものがほとんどなのが不思議。

結局、何を買ったかは、また次にします。

徳島からお客さん、ダイアトーン・P-610 を聴く

15日(月)は、わざわざ徳島からお客さん。ダイアトーン・P-610のスピーカーボックス(エンクロージャー)を引き取りに来てくださった。事前のメールでタローのご指名があったので、ふだん連れていかない工房へ繋いでおいた。私が席を外している時に、そのお客さんがお見えになって、私より先に友だちになっていた。聞けば、同じような雑種犬を飼っていて、ブログの写真を見て是非会いたかったとの事でご指名となった。携帯に収まったその飼い犬(コジローだったか? 失礼、小太郎でした!あら、コタローだ・・・)の写真は、本当にタローとよく似た日本の雑種という風情の元気そうなヤツだった。

ダイアトーン・P-610 バスレフエンクロージャー。チェリー、クリの全て無垢板。

ダイアトーン・P-610 バスレフエンクロージャー。チェリー、クリの全て無垢板。この小さなユニットが良く鳴る!無垢板のエンクロージャーは、内部にほとんど吸音材を入れていないが、いやな音で振るえない。

私のホームページを見て注文を頂いたのだが、実は色々とほとんどニアミスとも言えるような共通の知人・友人がいる私より少し年長の方だと分かって、よく云われる事だが世の中は狭い。その分、基本的なものの考え方もお互い窺い知れて肩肘張らずに話せる。飼っている犬が同じ雑種だというのも嬉しい。ペット(ある意味友だち)をブランドで選ばないし、生き物をお金で贖うことをしないということだ。やはり前日の選挙結果のことは、もうニュースも見る気がしないとのこと。

オーディオの事も、オカルトめいた機器自慢ではなくて、基本自作派なので話は合う。作らせてもらったものと、私の普段使いの平面バッフル300Bシングルで暫し音楽を聴く。持って来られたBBキングは、圧倒的にP-610の方が快適だ。ベースの音もちゃんと聞こえる。10年あまり親しんだこの平面バッフルだが、もう一度P-610を使ったスピーカーを自分用に作ろうと思った。

お茶が届いた

これから3日ほどは、テレビのニュースも新聞も見ないことにします。ここ何回かは、いつもそうしています。開票速報とか「選挙特番」とか称する番組はバラエティです。選挙を椅子取りゲームのように扱い、政治を政局だの、風だの、流れだのと語り、本当に大事なことを見えなくします。自分は投票に行かないくせに、そんな番組ばかり見て、キャスターの受け売りでサッカーや野球のゲームのように選挙を語るアホな大人ばかりが作られる。

選挙で、勝ち馬に乗ることになんの意味があって、なんの得があるのでしょう。だって、○☓に入れても死票でしょう?今回も、なんどそのセリフを聞いたことか。意思表示なのだ。自分が日本をどうしたいのかなのだ。そんなこと、せめて何年かに一度くらい考えてもいいじゃないか。

3日ほどしたら、たまった新聞を読み返して、少し冷静に考えたいと思います。まずは投票率が気になりますが、我慢。

広河隆一写真展・講演会に行ってきました

津リージョンプラザで開かれた広河隆一写真展と広河さんの講演会に行ってきました。選挙前のこの日、行っておいて良かったと思います。私たちが今、直面している集団的自衛権、機密保護法、原発、こうした問題を実際に殺される側、報道もされずに闇に葬られる側、被害者の側からあらためて考える良い機会となりました。写真展は、明日14日まで開催されています。詳細は主催者サイトからたどって下さい。

特定非営利活動法人 広河隆一非核・平和写真展開催を支援する会(略称:広河隆一写真展事務局)

広河さんと主催のスタッフ。カジュアルでオーガニックな服装に自然な白髪が素敵でした。

広河さんと主催のスタッフ。カジュアルでオーガニックな服装に自然な白髪が素敵でした。


以下、広河さんのブログからの引用です。そうだ、集団的自衛権は、確実に日本を殺戮者の国にするのだ。全文はリンクをたどって下さい。

きれいごとの戦争のイメージがまかり通っているのが、我慢できない

現代の戦争は、圧倒的な力を誇る攻撃する側と、市民の犠牲者に分けられる。そして戦場は私にとって、腐る体であり、焼けただれる匂いであり、体がぐちゃぐちゃに砕ける姿であり、切断された顔、壁に付着する子どもの髪の毛だった。兵士の死体はめったに出会わない。戦争と呼ばれるものの犠牲者ほとんど市民だった。

だから私は自衛隊に死者が出るからと言う理由で、集団的自衛権に反対するのではない。臆病な兵士は優秀な兵士である。動くものを見ると、確かめもしないですぐに引き金を引く兵士である。それは市民に引き金を引ける兵士である。物影で動いたのが子どもであることを確かめることもなく。そして被害者の姿を一生見なくてすむ者、司令官や政治家の命令で、ミサイルのボタンが押される。自衛隊が10人死ぬ現場では、自衛隊によって100人が殺されるだろう。そのうちの5人は敵の兵士であり、5人は友軍に殺される兵士であり、90人は市民なのだ。

集団的自衛権は、確実に日本を殺戮者の国にする。その戦争は、メディアには絶対に流れない、惨憺たる死体が散乱する現場なのだ。

HIROPRESS 広河隆一通信
『DAYS JAPAN 8月号の編集後記に、集団的自衛権について書いた。 きれいごとの戦争イメージがまかり通っているのが、我慢できない。』