会津・さざえ堂 その2 タトリン・「第3インターナショナル記念塔」を先取りしている?

会津さざえ堂のことを教えてもらって、ウエブなどでその画像を見て、たちまちこれはタトリンだと思いました。

ウラジミール・タトリンの第3インターナショナル記念塔というのは、建築やデザインの歴史を勉強した人ならご存知でしょう。その来歴は、今ならウエブを検索すれば、いくらでも出てきますのでここでは割愛します。私はこれが大好きです。一般に、建築のデザインと称するものを私は、ずっと毛嫌いしてきました。建築論と称する自己陶酔的おしゃべりが嫌いだったのか、あるいは、バブルの頃のポストモダン建築、あるいはその亜流の醜怪で無国籍な建物を見せられてきたせいか、まあそれは今はどうでもよろしい。

そんな保守的で、頭の硬い私も、このロシア・アバンギャルドを代表するそれこそアバンギャルドなモデルにずっと惹かれてきました。それがどういうものか、以下手持ちの書籍から図を含めて引用します。

八束はじめ 『ロシア・アヴァンギャルド建築』 P18-19 より

八束はじめ 『ロシア・アヴァンギャルド建築』 P18-19 より

1919年、教育人民委員部造形美術局から芸術家V・E・タトリンに第3インターナショナル記念塔の構想をまとめるように依頼があった。芸術家タトリンは躊躇なく仕事に着手し、構想を練り上げた。(中略)

記念塔の根本的な企図とは建築、彫刻、絵画の各原理の有機的統合に立脚し、純粋な創造形式と実用的形式をそれ自体で結びつけた、新しいタイプの記念碑的建造物となるというものであった。この企図に則って、記念塔案では、垂直軸と螺旋の複雑なシステムに基づいて構築された3つの巨大なガラス張りのブロックがある。これらのブロックは交互に積み重ねられ、調和の取れた関係にある相異なる形態に包摂されている。またそれらは独自のメカニズムによって、それぞれ速度の異なる動きをすることになる。

下のブロック(A)は立方体の形をとり、その軸の周りを年に1回の速さで回転する。立法関係のために用意されたこのブロックは、そこでインターナショナルの大会、国際会議、他の立法に関係する大きな会合を催すことが可能である。次のブロック(B)はピラミッド形で、その軸の周りを月に1回の速さでまるまる1回転し、行政関係(インターナショナル執行部、書記局などの行政ー管理期間)が予定されている。最後に、上の円筒部(C)は日に1回の速さで回転し、情報関係のセンターを目指している。

1920年7月 ニコライ・ブーニン 「第3インターナショナル記念塔」 五十殿利治訳 『ロシア・アヴァンギャルド4 構成主義の展開』より

大きさは別の論述によればイサーク寺院の2倍の高さを持つ(ヴィクトル・シクロフスキイ 『芸術生活』1921年1月 五十殿・前掲書より)とあるから、200メートルを超えるものと想定されていた。今でも、そのあまりの荒唐無稽さにブーニンの論文を読んでも、その構想がにわかには理解しにくい。ようするに傾斜して建てられた鉄柱の周りをさらに螺旋状に鉄が巻きつけられる。その内部にガラス張りの、立方体、ピラミッド形、円筒形の3つの独自の周期で回転する構造体が入る。これらは、どのように支えられる(あるいは吊り下げられる)かは、定められていない。各ブロックもブロックごとに異なる速度に同調した複雑な構造の電動エレベーターだけで、地上とそして相互に結ばれている。(ブーニン)とあるが、これは今ならそうむずかしい事でもないように思う。

第3インターナショナル記念塔の内部の3つのガラス張りの構造体

第3インターナショナル記念塔の内部の3つのガラス張りの構造体

この鉄とガラスと革命から作られた記念塔の構想は、19世紀末からのヨーロッパやロシアで起こったダダイズムなどの芸術革新運動の中でも、空前絶後なものだったようで、政治の革命とともに芸術の分野でもロシア・アヴァンギャルドがその尖りきった最先端にあることを示したようだ。

会津・さざえ堂(旧正宗寺しょうそうじ円通三匝堂えんつうさんそうどう ) その1

先月末、三泊四日で会津地方に行ってきました。メインは、阿部藏之さんの主宰する木の大学講座第12期に参加するためでしたが、一泊追加して会津さざえ堂に寄ってきました。ここは、会津地方に行くと話したおりに、それならば是非ここを訪れるべしと、私の大事な友人に薦めてもらっていました。

会津さざえ堂(側面)

会津さざえ堂(側面)

らせん状の回廊の外観

らせん状の回廊の外観

さざえ堂というのは、1970年代に詳細な調査をされた日大理工学部の小林文次教授によれば以下の通りである。小林教授たちによるここの計測調査の図面が受付で販売されており、それに付属するコピーによります。

もともとさざえ堂(三匝堂)は、観音札所順礼という民間信仰に基いて案出されたもので、江戸本所の羅漢寺に案永9年(1780)に造立されたのが最初であった。このさざえ堂は方形プランで重層、内部は三階で各層を秩父、本国、両国の各札所にあてて、計100体の観音像をいれた順礼観音堂であった。惜しくもこのさざえ堂は明治初年に取り壊されたが、この建築様式の系統をひくさざえ堂の例は、曹源寺(群馬県太田市)、長禅寺(茨城県取手市)、成身院(埼玉県児玉市)などに現存している。これらに対し、本堂は六角塔の形式をとり、中に二重のらせん状の斜路を組み合わせ、それに沿うて西国三三観音像を安置したもので、建築計画の上からみて誠に卓抜したものというべきある。この構成は、新編会津風土記のいう漸々にのぼり・・・・・・漸々に降りてに当り、遺構の上からも創立以来の計画とみて間違いない。これはさざえ堂としても、またわが国の仏道建築としても稀な構想で、機能にかなった、合理的な設計である。材料や技術の上で難はあるものの、江戸時代における建築計画上、極めて価値ある例と思われる。

小林文次『羅漢寺三匝堂考』日本建築学会論文報告集 第130号、昭和41年12月

堂内のスロープ 登り

堂内のスロープ 登り

堂内のスロープ 下り

堂内のスロープ その2

さて、実際に正面から右回りに緩やかならせんの回廊を登っていく。頂上付近で登りつめたと思うと継ぎ目なく今度は下りの勾配となって、裏側の出口に繋がっている。その回廊と心柱の間に板をひいたスペースが、そこかしこにあり、そこに祠が設けられて観音像が祀られていたのだろうか。小林教授の別の記事(『朝日新聞』1972年11月20日夕刊)には、両方のスロープにそって、中心部にもとは三十三の西国札所の観音像が配され、上り下りの一巡によって、西国観音札所の順礼を終えるという、いわば庶民のための即席の順礼観音堂であった。スロープを用いたのは、参拝しながら上り下りする時の、足もとの不安を除くためであり、二つのらせん状のスロープを組み合わせて、堂内の参拝路を一方通行にしたのは、堂内の参拝者の流れをスムーズにさばくためであった。ともあります。

たしかに、そうした実用上の必要性とかがあっての構造なのでしょう。しかし、実際に登ってみて、もうそこには観音様は祀られていないにも関わらす、なにか異次元の空間というか別の世界に入ったような感覚となりました。そのことが、そもそも信仰により参拝した当時の人たちに、他にない神々しさとか宗教的感興を喚起させたであろうと思います。