この『木工職人 基礎手工具』は、運営する木工学校の教科書として編集されたようだ。最専業的木工学習環境
と謳っており、サイトの写真だけ眺めても本格的な実技講習をしているように見える。 この本は、その手始めとして基礎手工具
としての鑿、鉋、鋸などの使い方、研ぎ方などを解説している。これらの道具は、あらかた日本のものかそれに倣ったもののようだ。
概略は、販売サイトから見ることが出来る。→ 【限時特売】<木工職人基礎手工具>書
さっと目を通してみたが、非常によく出来ていると思った。まずは表紙カバーの折り返しに刻まれた角度定規に目が行く。洒落たアイデアだ。教科書としていつも講習や作業の際の手元に置いておき、鑿や鉋の研ぎ角をチェックできる。私自身も、木工をはじめた頃に、25度、30度、35度の切れ込みを入れた定規を2.3ミリの合板で作ってそれを目安にしていた。日本の30年ほども前からのバブリーとも言えた木工雑誌や数多の技法書の類で、こうしたものを見た覚えがない。厚紙の付録にでもすれば簡単に出来ただろうに。こうした雑誌や、書籍の編集者や出版元の目線がどこにあったのかが、いまさら伺いしれるような気がする。以下、他に気がついた点のいくつか書いてみる。
図版と、写真の使い方がよく考えられている。この点は、私も使った日本の職業訓練校の教科書やいま市中に出回っている木工の技法書のおざなりさとは大違いだ。初心者が悩んだり躓くであろう事が、イラストで説明されている。たとえば、このページでは鑿の裏の研ぎ方について解説されている。この鑿の裏の研ぎというのは、意外に難しい(鉋もそうだが)。油断をするとすぐに瓢箪形になったりベタ裏になったりする。鑿の裏は定規であり、その平面維持が仕事の精度や品格に直結する。この点に関しては、以前にホームページに書いたことがある。
ちなみに鑿の裏研ぎが難しいというのは、とある銘品の鑿の展示をみても思った。これは、神戸の竹中大工道具館に所蔵展示されている善作の鑿。村松貞治郎さんの『道具曼荼羅』でも紹介されている。村松さんの本では、表の画像ばかりが載せられていたので、裏は初めて見た。これは東京の名人といわれた野村棟梁の所有していたもので、棟梁がいかにその鑿を大事に扱っていたかは、本の中のエピソードでも語られている。それにしても残念な状態になってしまっている。あるいは、棟梁の手からこちらに寄贈される前に誰かヤクザな人間に扱われてしまったか、ここでの手入れや研ぎがひどいのか。村松さんの本の写真と比べると、表や刃先もダレたひどい状態になっているから、棟梁の扱いのゆえとは思いたくない。
ここには、千代鶴是秀さんの打った組鑿も展示されている。これを大阪の大工が購入した際のエピソードが東京の土田さんよって伝えられている伝説化された銘品(だそうだ)。その大工の死後、アマチュアの好事家の手など経てここに来たらしい。やはり残念な姿だった。なんというか、これで仕事をする或いは仕事をしてきたという凛とした緊張感漂うようなたたずまいがない。よくテキ屋の店頭に並ぶ古道具の、適当にサンダーかペーパーをかけて錆だけは落としましたという風情だ。こちらも経緯は不明だが、道具というのは実際に仕事に使われなくなるとこうなってしまうのかな。なお、竹中大工道具館では他の入場者の迷惑にならない範囲での撮影は許されている。当然ながら、言われなくとも三脚やフラッシュはダメというくらいの常識は持ちたい。
手工具を使った実際の工作方法も書かれている。日本式の鉋を押して使っているのは、ご愛嬌としても、これは、まあアマチュアのやり方の解説になっている。ホゾや胴付を遊びを取って加工して、鑿で仕上げ・修正するように書かれている。こんなことは昔の親方に見られたら、それこそ玄能が飛んできそうな内容だが、それはまた別に書こうと思います。それと、鑿を使った穴の穿ち方も、書かれているのは大工式のやり方で、この辺りも混乱が見られて、最専業的木工学習環境
を謳う教科書としては少しさびしい気がする。
そういう気になる点は、多々ありながら、とてもよく出来た教科書であることは間違いない。各工程の説明につけられたイラストは、分かりやすくとてもよく出来ている。一方で、日本の職業訓練校用の教科書は、相変わらず古いあまり上等とも分かりやすいとも思えない図版を何十年も使いまわしている状態だ。各地にあるあまたの職業能力開発協会という厚労省の役人の天下り組織は何をやっているのだろう。他方、市販の木工本は、どこかの道具屋や特定の鍛冶の宣伝用カタログのような代物ばかりだ。『○○大全』とか銘打った道具や木工の本が出されるたびにがっかりさせられる。
もうね。かつての半導体や家電がそうであったように、こうした木材の工芸的な技能や職能も台湾や他のアジアの国や地域に奪われていく。それで、インチキな手作り
コピーと、薄さ何ミクロンの鉋屑といった非生産的で無益なお遊びだけが残っていく。それも近い、というかもうすでにそうなっているのかと考えさせられます。