波多野睦美・高橋悠治 シューベルト歌曲集 『冬の旅』

先週に続いて一昨日11日、宗次ホールに行ってきました。波多野睦美と高橋悠治のシューベルト『冬の旅』です。

高橋悠治の対訳による歌詞つきのプログラムが配られた

高橋悠治さんは年をとったなあ。当日は2階席だったため否応なしに薄くなった白髪に目が行く。それに背中が丸くなって一緒に入場した波多野睦美さんと比べても小さく見える。

波多野さんは、よく通る素敵な美声でアクションも自然で控えめ。連作歌曲というのは、詩の朗読会なんだと思えてくる。語られているのは外国の言葉なんだけど、その世界に自然に入っていけたような気がする。それは、歌い手が日本人でしかも日本語の歌をちゃんと歌える人だからと思ったりした。

『冬の旅』というのは、結局最後の4曲を聴かせるために前の20曲があるような気がする。その4曲のうちでも最後の「辻音楽師」(当日の高橋悠治訳の歌詞では、「ハーディ・ガーディ弾き」となっていた)のそのまた最後の節を聴かせるためにグダグダ書かれたんじゃないか。

Wunderlicher Alter,
Soll ich mit dir geh’n?
Willst zu mein Liedern
Deine Leier dreh’n?

ジジイ、
一緒に行ってもいいか?
オレの歌に合わせて、
伴奏してくれや。

以上、いづれもヴィルヘルム・ミュラーの詩を拙訳

無為と諦念の中で生きていくお前の仲間にいれてくれと言っている。もう少ししたらその心境がわかってる気がする。


この日は、宗次徳二さんが寒空の下ホールの玄関外で入場者一人ひとりに声をかけて正装で出迎えてくれる。 今日はお世話になりますと返す。連れ合いが誰というふうに怪訝な顔をするので宗次さん!と言うと、振り返ってあらためてお辞儀をする。宗次さんも少し驚いた感じで恐縮したようにお辞儀を返してくれる。ここはオレが作ったホールなんだぞといった風情は微塵もない。こうした何気ない所作に人柄というのは出るんだなと思う。

宗次さんは公演の時は、最前列左の並びに奥様と平服で聴いておられてように思うが、暗くて確かめてはいない。先週のクニャーゼフのチェロの時も脳性麻痺と思われる子どもさんに声をかけて、同じ席にいたように思う。この日は公演終了後も正装でホールの出口で挨拶をされていたので、歌舞伎のはや着替えのようなワザをお持ちかとも思ったり。そんなこと詮索すべきことでもないか。

クニャーゼフ J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲
久しぶりのコンサート

久しぶりにコンサートに行きました。2月4日、名古屋栄の宗次ホールで開かれたアレクサンドル・クニャ−ゼフ チェロリサイタル J.S.バッハ無伴奏チェロ組曲全曲です。

一度に全6曲を聴くことが出来るお得なコンサートでした

名古屋の栄から伏見にかけての界隈は、しらかわホール電機文化会館ザ・コンサートホール宗次ホールと3つの小さなクラシック用のホールがあります。私は、クラシックと分類されるものでは声楽とかソロや小編成の室内楽といわれるジャンルの音楽が好きで、オーディオも含めてもっぱらそうした音楽を楽しんでいます。だから日帰りで気楽に行ける範囲でこうしたホールがあるのはたいへんありがたい。

ホールの格というと嫌な言い方になりますが、演奏者のランク(これも嫌な言い方ですが知名度・ギャラとくらいに考えてください)やチケット代から言うと、しらかわ→電機文化会館→宗次の順になりますか。定員(席数)も同じ順になります。私が実際に行ったコンサートを備忘録的にあげてみます。エレーヌ・グリモー(しらかわ 2011年1月19日)、サンドリーヌ・ピオー(電機 2012年9月22日)、クリスティーネ・シェーファー(電機 2012年6月30日)、クリスティアン・ゲルハーヘル(電機 2014年1月12日)、マーク・パドモア&ポール・ルイス(電機 2014年12月8日)、アリーナ・イブラギモヴァ(電機 2014年12月23日)など最近はもっぱら電機文化会館が多かったです。

宗次ホールは、カレーハウスcoco壱番屋の創業者で、元社長・元会長の宗次徳二さんが、クラシック音楽の普及と若い音楽家の育成を目的に私財を投じて作られたものです。宗次さんの清廉で潔い生き方は、書籍でもネットでも見ることができます。お金の亡者というかお金に使われているかのようなさもしい経済人とは違います。それに会社を大きくして財をなしたといっても会社は公器としてすでに手放していますし、儲けたといっても不動産や金融といった虚業でもIT云々といった怪しげなものではなくて食べ物屋です。ゲイツとかジョブスとか孫某とかいった如何わしい連中とは違うし、まして人殺しに手を貸す軍需関連でもありません。

ホールを入ってすぐの案内にビッグイシューが置いてあるクラシック専用のホールなんて日本中に他にないでしょう。これも親と養母に捨てられ養父に虐待され孤児同然に生きてきたという生い立ちから、今もホームレス支援を行っている宗次さんならではのことでしょう。ホールでは、音楽関連の小物類や中古CDの販売も行っています。これもクラシック音楽の普及のためのだと納得します。つまりはこれまでこうした音楽と無関係であった人たち、特に若い人にも来て欲しいとの意図でしょう。プログラムの編成やチケットの値段設定などにもそれは感じられます。もう「しらかわホール」とか「ザ・コンサートホール」では、開演前に携帯電話の電源を切るように促されることはありません。ここに来るお客さんは、そんなことは分かっていらっしゃいますねという暗黙の了解が前提にあるのでしょう。実際に私の知る限り公演中に鳴ったりしたことはありません。宗次ホールでは、今も(今回も)開演前にアナウンスと同時に係員がホールをまわり、携帯電話の電源を切るように促していました。これは、ホールの対象がまだこうした場に慣れていない人も含んでいるという事で、むしろありがたいと思います。

さて当日配られた演目などの書かれた簡単なプログラムの裏表紙にこんなことがかかれてあります。

お互いに気持ちよく演奏を楽しむために以下のマナーをお願いいたします。

  • 携帯電話の電源OFF(マナーモードもNG)
  • 拍手やブラヴォーなどの掛け声は、1曲全てが完全に終わるまでお待ちください。余韻を大切に。

以下略

ふたつ目に書かれている事は、少し解説が必要かもしれません。20年ほど前までは、どこのコンサートに行ってもこうしたブラボーおじさんがいました。曲が終わるか終わらないうちに、多くは終わらないうち(演奏中)にブラボーの歓声を発し拍手をする輩です。他の聴衆にとっては迷惑千万で演奏者にたいしては失礼きわまりない行為ですが、あれはいったいなんなのかと今も思います。少し想像してみると

  • オレはここで曲が終わると知っているんだと自慢したい
  • 誰よりも先に拍手をする(ブラボーを叫ぶ)のがかっこいい
  • オレが聴衆の熱狂を先導しているのだ
  • 歌舞伎の木戸銭御免の声掛け屋になったつもり?

どのみち他人に迷惑をかけ顰蹙をかうことでしか卑小な自己顕示欲を満たす事ができないわけで、これは暴走族のガキと同じことだと思います。かつて日本のコンサートでこのブラボーおじさん全盛の頃、ヨーロッパのコンサートの録音をFM放送などで聴くと、演奏が終って暫くしてからパチパチとまばらに拍手が始まり、それが段々と大きくなってゆくのでした。聴衆一人ひとりが音楽を楽しみそれぞれ余韻を味わっているのが想像されて羨ましく思ったものです。最近は、特に私が行くようなどちらかと言うとマイナーで小規模のコンサートではブラボーおじさんはほとんど見なくなりました。その絶滅危惧な存在がここにはまだいました。最初の無伴奏第1番の途中のサラバンドが終る間際に拍手が聞こえました。残念ながらこのブラボーおじさんは終曲を間違えていたのですが、それに多少は懲りたか以降は大人しくしていたようで助かりました。 ところで、先日あるヨーロッパでのコンサートの実況録音を聞いたのですが、それが曲が終わらないうちの一斉拍手になっていて、驚くやら残念やら複雑な気持ちになりました。まさかバブルの乱痴気騒ぎの頃に、日本のブラボーおじさん達が本場にまで乗り込んで、逆にあれを広めたのかと勘ぐったりしてしまいます。


肝心の演奏のことは、またあらためて。と思っているうちに明日、11日にも宗次ホールに出かけます。今度は波多野睦美さんと高橋悠治による『冬の旅』です。こちらも楽しみにしていたものです。先日のコンサートでは、示し合わせてもいないのに連れ合いの教会関係の知人が二人来ておりました。明日、どなたか来場の予定をされている人があれば声をかけてくだされば嬉しいです。

稲嶺進さんの名護市長再選を強く望みます

キャンプシュワブ前の集会で挨拶される稲嶺進名護市長
2015年10月

3年前の秋、私が初めて辺野古に行ったおりキャンプシュワブ前の集会に訪れ挨拶された名護市長・稲嶺進さんです。市長はその後の昼のゲート前の座り込みとデモにも参加されていました。その時は随分若く見えて私よりも年下かと思っていましたが、今回の選挙報道で、今72歳だと知りました。

今日、名護市長選の投票が行われます。自分の政治姿勢をはっきりと時に体をはってでも示す、役所や議場の外に出て支持者とともに戦う、そんな政治家が今どれほどいるでしょう。その1点だけでも私は稲嶺進さんを指示し、その再選を強く望みます。

「棹さす」という表現について

以前の記事(「駒井哲郎さんの事 4 ギャラリー椅子の仕様」)でこんな表現をしていました。

それにこうした安易に接着剤に頼ったやり方が、確実に若い「木工家」のスキルを低下させています。われわれロートル世代くらいはこうした安直な傾向に棹さしていったほうが良いと思っています。

この棹さしてという表現は、間違っているのではないかと、工房 悠の杉山裕次郎さんからメールで指摘されました。ここの[棹さす]ですが、言いたいことの意味は、たぶんその逆ですね。という事で具体的に参考サイトまで付けて頂きました。ありがたいことです。

棹さす

さおを水底につきさして、船を進める。転じて、時流に乗る。また水流にさからう意に誤用することがある。

広辞苑第6版

手元の『広辞苑』第6版には以上のようにあります。まさに誤用しておりました。この広辞苑にも引用されている夏目漱石の『草枕』の有名な冒頭の一節情に棹させば流されるも、あえて情に抗って我慢しても結局は流されていってしまうだけだ云々という意味だと思い込んでいました。恥ずかしい限りです。普段、日本語の表現に関してもエラそうな事を言っている手前、こっそり指摘された部分だけ訂正して知らん顔もできません。それに私と同じような誤用をされている人も他にもいらっしゃるかもしれません。htmlのdelとかinsというタグはこうした時のためにあるとのだと自分を納得させています。

今回は、たとえ嫌われても間違ったことは放っておけないという杉山さんの性格から指摘を頂きました。別にこうした事に限らず誤りを指摘されるうちがハナだと思っています。どうぞ色々ご指摘ご指導ください。