寺田夏子の墓 1

最近、あまり良い夢を見ません。新型コロナウィルス肺炎の報道を見たり聞いたりしているせいかとも思います。私は、もともと人混みが嫌いで、不要不急などと言われるまでもなく用もなく出歩くことはありません。外で飲むのは嫌いですし、外で食事をすることもほとんどありません。先日、連れ合いの誕生日で市内の某Mホテルでお昼に食事をしましたが、それ以前にはいつ行ったかすぐには思い出せないくらいです。この2年ほどは兼業主夫生活で2日か3日に一度魚や野菜などの生鮮食品の買い出しに出ますが、それは仕方がない。郊外型の大型スーパーに車で出かけてまとめ買いをすれば、買い物に出る頻度は減るでしょうが、そうした高炭素消費な生活の仕方は私が最も忌み嫌うもののひとつです。ちなみ歩いて無理なく行ける範囲で、八百屋・肉屋・魚屋を見つけてあります。それに加えて他の商品も販売する公設市場もあります。そうした対面で古新聞にくるんで商品を渡してくれるようなお店がよくぞ生き残ってくれていたと感謝しますが、これで車を捨てても買い物難民になる心配がなくなりました。

私の場合自粛とかいわれても、これまでの生活と今のそれはたいした違いはありません。強いていえばコンサートとか映画とか展示会に出かけていないことくらいか。宗次ホールしらかわホール電気文化会館・コンサートホールも3月からは軒並み公演は中止している。シネマスコーレシネマテークは頑張って上映を続けているし、応援の意味でも出かけたいが、両館ともビルのフロアを使った上映館で密閉・高密度の2密がやはり気になるし、名古屋まで出かける電車のリスクもある。私は、映画やコンサートや美術展にそう頻繁に出かけていたわけではないが、当たり前にそうした場があって何かしら企画があって、そのスケジュールを眺めて物色する。そうした習慣化された日常が、実際に出かけなくても気休めになっていたと今になると分かります。


久しぶりの更新で、読んでくださっている人のせめてもの気休めに新型コロナウィルス肺炎以外の記事にします。書きためて公開していないものに手を入れて、私自身の気休めです。


もう2年前の冬のことになります。その年は強い寒波が2度おそいましたが、その1度目の最中の 1月の24日(水)から27日(土)まで、3泊4日で四国へ行ってきました。その3月で定年となる連れ合いが有給消化でまとまった休みが取れたこともあって二人で出かけました。旅程も費用も相方に任せっきりでしたが、以前から四国に行くなら行ってみたいと思っていたところがありました。

寺田寅彦に『どんぐり』という短い随筆があります。これは寅彦が夏目漱石に推められて『ホトトギス』に発表した初めての文芸作品だそうです。19歳で亡くなった寺田の最初の妻・夏は、身重の体で結核を患います。小康を得た冬の日、近くの小石川公園に出かけたおりの事が書かれています。私はこの「どんぐり」が大好きです。寅彦の切々とした深い哀惜の気持ちが伝わってきます。悲しいだとか、号泣したとかいったよくあるSNSやら三文ブログの定型文のようなものは一切ありません。そうしたものは、亡くなった人を偲び悼むというより、こんなにも悲しんでいるボク・私カワイイと言いたいだけのようで、読まされていると時に不愉快になる場合すらあります。知人の葬儀や告別式に参加した芸能人と称される人の嘘泣きを見せられてしまった時と同じです。

高知市北部に寺田寅彦一家の墓があり、そこには寅彦の両親と若くして亡くなった二人を含む三人の妻の墓もあるとの事。そちらに行きたい。そこで、寅彦により始めと終わりの悲惨であったと書かれた最初の妻・夏子の墓を参りたい。また夏子は結核療養の最後の日々を地元でと呼ばれていた種崎とその対岸の桂浜の集落で過ごしたという。時間があれば、そこも訪れたい。別に坂本龍馬の銅像なんて私はどうでもよい。

お墓は地元で北部環状線と呼ばれる国道44号線の北側の東久万という地区の小高い山の中腹にあります。いまはその際まで宅地が迫っていますが、夏子の埋葬された1905年(明治35年)頃は山裾の静な埋葬地(墓地)であったことでしょう。訪れることはできませんでしたが、ここからさらに山を登ると寺田家の先祖の墓があるようですし、一段低いところでは他家の墓があるのかお参りに来ている家族がありました。この寺田寅彦のお墓は、もう史跡と考えてよいのかあるいはあくまでも私的な墓地と考えるべきか迷います。墓地の入り口には高知市教育委員会による説明の看板が立てられています。また国道からこの墓地に至るまでに少なくとも3ヶ所に任意の団体が設置してくれた案内表示がありました。こうしたものを見ると市や地元にとっては寺田家(寺田寅彦)の墓は史跡と考えられているようです。戻ってからあらためて寺田寅彦の古い全集(1936〜38年・文学篇全16巻、1950〜51年・同全集増補版全18巻、1960〜62年全集全17巻)の『月報』の類をあたると、寅彦の墓の訪問記のようなものもいくつかあり、写真も載せられている。それならばここで寅彦や夏子の墓の写真を載せても許されるかと思いました。

寺田夏子の墓 2018年1月
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『どんぐり』では、幼い身重で当時では不治の病を抱えた妻との冬の1日ことが淡々としかし深い慈しみと愛情を込めて書かれています。後段では、その妻とともに訪れた公園に忘れ形見の娘をともないます。そして同じようにどんぐりを喜んで拾う子に対して、次のように呼びかけて終わります。ここではじめて亡くした妻に対する哀惜の情が吐露されていますが、そのあくまで抑えた筆致がよりその深い悲しみをあらわしているように思います。

余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりがすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくはないものだと、しみじみそう思ったのである。