昨日から、となり町に介護職員初任者研修講座というものに通っています。昨年までは、ホームペルパー2級と呼ばれていたものです。これから週3日のペースで6月下旬まで続きます。
また、何をはじめるつもりかと思われそうですが、自分としてはちゃんとした理由があります。不謹慎ではありますが、今は介護の仕事に就くつもりはありません。5年前に父親を、昨年11月には母親を看取りました。年明けの母親の四十九日を済ませたあたりから、自分は認知症も含めた人間の壊れ方、末期について何も分かっていなかったと思いました。大事な事はケアマネージャーや、ソーシャルワーカー、看護師や介護職員に任せっぱなしで、右往左往するばかりでした。普通の人にとってはそれで当たり前だし、仕方のないことと言われればそうだとも思います。それでも、もう過ぎてしまったこととは言え、たとえば父親の晩年のすべての意欲を放棄した緩慢な自殺とも言えそうな投げやりな姿勢とか、認知症の母親の妄動や虚言は、どういうサインだったのか、やはり今からでも理解できるならしたい。一般的な学者や評論家や宗教の人間が書いたものは、何の役にもたちません。また別の機会に取り上げたいと思いますが、そういう人たちの好んで取り上げる「介護美談」の類は、逆に介護者を追い詰め苦しめることになります。最低限、自分が専門家として職業的に、あるいは当事者として向きあうつもりで勉強しなければ何も分からないと思います。
それは、確実にやってくる自分や自分のまわりの人の老いや死、看取り、その中で否応なく罹る可能性のある認知症に少しでも自覚的に対処するすべになりはしないか、出来ればなってほしいとか考えています。具体的には、自分の伯母はもう認知症の初期症状のようなものを発症しています。それにあるお客さんの奥さんは、まだ70代の前半ですが、転倒、大腿骨転子部骨折、人工骨頭、圧迫骨折、そして認知症と、母親の辿ったのとほぼ同じ道を、10歳も早く歩みつつあります。だれも特別ではありえないのです。
さて、講座の開かれている場所は、主催者の運営する有料老人ホームです。入所者が揃ってデーケアーに出かける平日の昼間に、そこのデールームで今は座学が開講されています。まわりには一軒コンビニがあるくらいで食堂とかも見当たりません。で、弁当持参しています。握り飯に、簡単なおかず。バランと風呂敷で包んだおにぎりは、べたつかずご飯粒が立ったような状態が保たれるので、それだけで美味しいのです。これ、山に行く時の楽しみでもあります。