良寛の歌


あわ雪の中に()ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中に沫雪ぞ降る

『良寛歌集 ─ 吉野秀雄 校註』 東洋文庫556 平凡社

注)校註によれば 三千大千世界とは、大宇宙の仏教的表現とある。

良寛和尚の歌に親しむようになったのは、この歌がきっかけです。この歌は昨年はじめ救いを求めるように読んだ『痴呆を生きるということ』─小澤勲著・岩波新書 の終章に著者によって引用されていました。小澤さんは、この本を著した時すでに癌の発症とその全身への転移を告知されていました。その時、最初から大きな動揺もなく、まったく平静に事態を受けとめた。と書かれています。それは、痴呆を病む人たちとともに生きてきたことにより、人の生は個を超えていると感じるようになったからだと。その死生観を次のように著されています。

私は今、肺癌を病んでいる。まったく無症状だったのだが、昨年春の検診で発見され、精査の結果、すでに全身に転移していることがわかった。告知を受け、命の限りが近いことを知らされた。しかし、最初から大きな動揺もなく、まったく平静に事態を受けとめた。自分でも不思議だった。ときどきなぜだろう、と考えることがある。よくわからない。しかし、痴呆を病む人たちとともに生きてきたことと、どこかで深くつながっているように思う。

彼らと生きていると、人の生は個を超えていると感じる。そのせいだろうか。私自身もわたしへのこだわりが若い頃に比較して各段に少なくなっている。むしろ、つながりの結び目としての自分という感覚の方が強くなっている、といったらよいだろうか。そのつながりは、病を得てからとても強くなっていて、私の残された生を支え、充実したものにしてくれている。そのつながりがこの本を書かせた。

今、私はあるイメージを幻視している。それは、複雑に絡みあったほとんど無限のつながりの網がある。このつながりは複雑なだけでなく、生き物のようにうごめき、一瞬一瞬変化している。一人ひとりはそのむすぼれである。

そのつながりの網は、生命の海とでもよんだらよいようなものに変幻する。一人ひとりはその海を浮遊している。あるいは、一人ひとりは生命の海を分有して生きている。無限の時間の流れのなかで、一つひとつの生命の灯はふっと消え、海の暗闇に還ってゆく。その暗闇から別の灯が生まれる。潮流のうねりと蛍のように明滅する灯。

この生命の海が滞りなく流れていれば、その流れを漂う生もまた滞りなく流れているく。ところが、この生命の海に滞りがみられるようになると、そうでなくても滞りがちな生はよどみに取り残され、光を失っていく。そのよどみは、生命の滞りをさらに深刻なものにしていく。しかし、よどみに置き去りにされた生が、再び光を放ち、生命の海に漂い始めると、生命の海は輝きに満ちてくる。