先月末、三泊四日で会津地方に行ってきました。メインは、阿部藏之さんの主宰する木の大学講座第12期に参加するためでしたが、一泊追加して会津さざえ堂に寄ってきました。ここは、会津地方に行くと話したおりに、それならば是非ここを訪れるべしと、私の大事な友人に薦めてもらっていました。
さざえ堂というのは、1970年代に詳細な調査をされた日大理工学部の小林文次教授によれば以下の通りである。小林教授たちによるここの計測調査の図面が受付で販売されており、それに付属するコピーによります。
もともとさざえ堂(三匝堂)は、観音札所順礼という民間信仰に基いて案出されたもので、江戸本所の羅漢寺に案永9年(1780)に造立されたのが最初であった。このさざえ堂は方形プランで重層、内部は三階で各層を秩父、本国、両国の各札所にあてて、計100体の観音像をいれた順礼観音堂であった。惜しくもこのさざえ堂は明治初年に取り壊されたが、この建築様式の系統をひくさざえ堂の例は、曹源寺(群馬県太田市)、長禅寺(茨城県取手市)、成身院(埼玉県児玉市)などに現存している。これらに対し、本堂は六角塔の形式をとり、中に二重のらせん状の斜路を組み合わせ、それに沿うて西国三三観音像を安置したもので、建築計画の上からみて誠に卓抜したものというべきある。この構成は、新編会津風土記のいう
漸々にのぼり・・・・・・漸々に降りてに当り、遺構の上からも創立以来の計画とみて間違いない。これはさざえ堂としても、またわが国の仏道建築としても稀な構想で、機能にかなった、合理的な設計である。材料や技術の上で難はあるものの、江戸時代における建築計画上、極めて価値ある例と思われる。小林文次『羅漢寺三匝堂考』日本建築学会論文報告集 第130号、昭和41年12月
さて、実際に正面から右回りに緩やかならせんの回廊を登っていく。頂上付近で登りつめたと思うと継ぎ目なく今度は下りの勾配となって、裏側の出口に繋がっている。その回廊と心柱の間に板をひいたスペースが、そこかしこにあり、そこに祠が設けられて観音像が祀られていたのだろうか。小林教授の別の記事(『朝日新聞』1972年11月20日夕刊)には、両方のスロープにそって、中心部にもとは三十三の西国札所の観音像が配され、上り下りの一巡によって、西国観音札所の順礼を終えるという、いわば庶民のための即席の順礼観音堂であった。
、スロープを用いたのは、参拝しながら上り下りする時の、足もとの不安を除くためであり、二つのらせん状のスロープを組み合わせて、堂内の参拝路を一方通行にしたのは、堂内の参拝者の流れをスムーズにさばくためであった。
ともあります。
たしかに、そうした実用上の必要性とかがあっての構造なのでしょう。しかし、実際に登ってみて、もうそこには観音様は祀られていないにも関わらす、なにか異次元の空間というか別の世界に入ったような感覚となりました。そのことが、そもそも信仰により参拝した当時の人たちに、他にない神々しさとか宗教的感興を喚起させたであろうと思います。