現地での活動の3日目と4日目は蛇田地区での借家の後片付けでした。3軒のお宅でしたが、内2軒は中高年の女性の一人住まい、1軒は母娘のご家庭でした。ボランティアセンターへの依頼はその地区の民生委員の曽根さんという方を通してでした。
その曽根さんは、所用で離れる以外は二日間ずっと我々と一緒に作業をされていました。職場をリタイヤされてさほど時も経っていないという風情のたいへん実直で真面目な方でした。作業二日目の午後、そろそろ完了の目処がついた頃曽根さんと立ち話をする機会がありました。ご家族は御無事でしたかという問いに対して、以下のようなお話をされました。
地震が起きたとき、自分の娘の家には2人の孫の他に3人の別の子供が遊びに来ていた。その5人の子供達を車に乗せて高台に避難しようとしたが車が渋滞で動かない。津波が迫って車に浸水してきたので、急いで5人の子供を車の屋根に乗せてそのまま6時間水が引くのを待っていた。ようやく水が歩けるくらいまで引いたので、子供に手をつながせて避難した。夜になり全身濡れていたので、そのまま知らないあるお宅で夜を明かさせてもらった。
結局、娘さんの安否は丸一日不明だったそうですが、曽根さん自身は民生委員として地区の独居老人の避難とかに忙殺されていたそうです。この話も別に自慢たらしくされたわけではなく、こちらが話を向けると淡々となされたのです。それでも、この親にしてこの娘ありですねと言うと、少しだけ照れたような笑顔を見せていただきました。
もちろん私は普通にボランティアに行っただけで、取材とか調査に入ったわけではありません。でも被災地には当たり前ですが、現にご家族が行方不明の方(被災地であった老婦人)、日常の生活では考えられない状況に遭遇した時の献身や勇気や自己犠牲、そうしたものを普通に見聞きするのです。だから一度被災地に行ってみろというのは、ひんしゅくかもしれません。でも私はそれでもいいと思ってますが、それはまた論を改めます。
ちなみに上の画像に写っているのが、この住宅の被災者のKさんです。いつも作業中はこの茶色のコートに黒い毛糸の帽子にマスクをされているので、お顔はよく分かりませんでした。二日目の昼食時は民生委員の計らいもあって、ほど近い皆さんが避難されている会館に案内されました。そこで、あらためてこのKさんのコートを脱ぎマスクや帽子を取ったお姿を拝見しました。お年は杉山さんより少しだけ上とのことでしたから、もう60代半ばということですが、こざっぱりした身なりに髪などもきれいに櫛がいれられてとても若々しいお姿に驚きました。ずっとあの茶色のコートのオバサンという印象がありましたから。
自分が使ってきた家財道具のほとんどすべてを自分の手で処分しなければならないというキツイ状況の中で、それでも少しでも前向きにボランティアの手を借りてでもやろうとする。ある程度以上の年齢の女性が、どんな苦しい状況でも前に出ようとする時はそうして自分を粧うということは大事な儀式というか通過儀礼のようになっているのかもしれないと思いました。逆にそうする事によって、一歩前に出られるのか男の私にはよく分かりませんが、大事なことであるなとは感じました。もうこれも良く言われてきている事ですが、避難生活が一段落してくるとカップラーメンやレトルト食品、毛布に与えられた洋服だけでは、人は生きていけません。よりこまかいケアが必要だと私も思います。で、もう少し後になってしまうのですがある計画を持ってもう一度被災地に出向きたいと考えています。