母親の葬儀のこと 1

葬儀は、残された者のために行う儀式だとよく言われます。

そのとおりに違いないのですが、そうであれば葬儀は、残された者の亡くなった人への愛惜の情や悼む気持ちを出来る限り素直に表明してもらえる場と機会でありたい。そのために概ね以下のように決めました。翌日には通夜ということで、葬儀屋の段取りもあって兄弟には事後報告で、ほぼ独断で決めました。

  • いわゆる葬儀場・会館は使わない。狭くて汚くても親の暮らした家で行う。
  • 献花・香典・弔電の類はすべて断る
  • 実際に母親と親交のあった家族・親族、ご近所、友人にのみ参加してもらう
  • 儀式としての通夜式は行わない、僧侶も呼ばない。通夜の晩は出来る限り弔問客に自由に出入りしてもらう。
  • 母親が認知症であったこと、施設に入所してそこで臨終を迎えたことなど、晩年の様子を隠さず伝える
告別式の朝の実家

告別式の朝の実家

実家は、かつて鋳物屋や万古屋(陶器)などが多くあった下町で、タバコ屋と駄菓子屋を兼ねた小さな店を営んでいました。今思うと、よくここに親子5人暮らしていたなというくらいの小さなしもた屋です。でも、この程度の家でも妙な見栄を張らず、本当に母親を悼む気持ちを持った人にだけ集まってもらえば、十分に葬式は出せるはずだと思いました。実際には我々を含めて30人ほどの人に集まってもらえましたが、多少窮屈でしたが、逆に知らない同士も含めてお互い良い距離感で接してもらえたのではないかと思います。なにより、棺が同じ高さ目線にあるというか同じ畳の上にあるというのは、まだ故人が仏ではなくこちらの世界にいるということを感じさせて、良いものでした。通夜の間は、葬儀屋の了解を得てずっと棺の上蓋を外して置いたので、訪れてくれた人に直接顔を見てもらい、あるいは話しかけてもらったり触れてもらうことも可能でした。もちろん誰のものであれ、死体に触れるのはもちろん近くに寄るのもいやだという人もいるでしょうから、強要はしません。それぞれの形で別れを惜しんでもらいました。母親が若い時に、親代わりになってお世話をさせてもらったという人も来てくれました。いまは目が悪いそうですが、枕元に座り棺の縁を両手でつかみ、覗きこむようにして顔を見ながらおばちゃん、おばちゃん!と呼びかけてくれます。書いてきてくれた手紙を語りかけるように読み上げて、そのまま棺に収めてくれました。私自身が遺族なので、おかしな話ですが、その真情に触れて、もらい泣きしそうになって困りました。

通夜には僧侶をあえて呼びませんでした。お坊さんを呼び経をあげてもらうと、どうしたってそれ中心の儀式になってしまいます。少なくとも私はそうです。そういう儀式も必要だとは思いますが、通夜くらいはそうあってほしくない。縁なき衆生たる私にはお経なしですませても良かったのですが、色々考えて、従兄弟に唱導してもらって正信偈しょうしんげを読んでもらいました。プロのお坊さんと違って、たどたどしさもありましたが、それがかえって仏の前で平等な門徒どうしが集まって経を唱えているという雰囲気が醸しだされて良いものでした。そのあとは、いわゆる通夜ふるまいになるのですが、お酒が用意してなかったりで、招く方も招かれる方もこうした通夜の仕方は久しぶりか初めての人もありそうで、母親が好きだった賑やかな宴という程にはなりませんでした。

翌日の告別式は、まあ通常の葬儀場で行われているような次第で、淡々と進みました。それでも進行を務めてもらった葬儀屋が比較的若い人で、またマイクを使わない地声だったので、あのいやらしい慇懃かつ大仰なものには聞こえませんでした。焼香は、回し焼香といって小さな焼香台を順に回してもらってその場で行なってもらいました。それぞれのペースや作法で、やってもらうことができるし、こちらも一々返礼をする煩わしさから解放されて良かったです。商業主義の葬儀場でよくある棺と遺族が、焼香台を挟んで一般の参列者と向かい合うようにパイプ椅子に座る構図は、故人を悼む気持ちを分断してないがしろにする葬儀屋の陰謀のように思っていました。ここでは、座る位置は少し違っても、ふすまを取り払った畳の上に棺もすべての参列者も座っています。あまりにも当たり前の姿なのですが・・・。

ある経験から(松田和美さんのこと)、こうした場合のBGMは、モーツアルト、それもレクイエムとかいった辛気臭いものではなくて、パパゲーノとか、ケルビーノやバルバリーナなんかの思いっきりノーテンキなアリアなどを流したいと思っていましたが、さすがにそこまで気がまわりませんでした。

喪主の挨拶に時間をもらって、父が亡くなって以降の、すなわち母親が入院・介護施設への入所によって家族とごく少数の親族以外の人の前に出れなくなってからのことを報告しました。もちろん、認知症のことも末期の措置とそれについての考えも触れました。こうした場合、大事なことは遺族としての心情の告白などというつまらないことではなく、家族だけしか知りえなかった故人に対する情報の提供だと信じています。

少人数であったこと、焼香がスムーズに行なってもらえたこと、などからか出棺前の故人とのお別れに十分な時間がとれたのも幸いでした。私は、臨終の日に買ってきて、その時も枕元にあったバラの花を棺に入れました。伯母は、自ら選んだ着物を、横浜から来てくれた叔母は、一週間前に買って直接着せてくれたばかりの緑の素敵なカーディガンとスカーフを、親代わりと言ってくれた早苗さんは母親が好きだったという大振りなミカンを、よく施設の母親を見舞ってくれていた同世代のご婦人は、やはりよく持って行って食べさせくれたという大きくて甘そうなプリンを、など参列してくれた多くの人が棺を囲み、言葉をかけ、棺を閉じる時は花で埋めてくれました。後で聞くと、兄は私が被災地住田町の仮設住宅のご婦人から頂いて、母親の病室に慰めのために置いていた小さな手製のフクロウの手まりを入れたそうです。それは、いただいた経緯もあって形見としてとっておこうかと思っていたので、残念でしたが、東北の被災地の仮設住宅で生まれて、三重まで来て、そこで認知症の老女をしばし慰めてくれて、ひとつの役目を終えて一緒に灰になったというのも、まあいいかと思います。


自分に対するケジメという意味もあって母親の看取りに関することは、あと1回で終わろうと思っていたのですが、長くなりました。もう少しだけ続けさせて下さい。自分なりに考えてまとめた、葬儀のあり方という事も最後に書かせて下さい。