藤田嗣治の戦争画について 1

もう終了してしまいましたが、先月、名古屋市美術館での藤田嗣治展(生誕130年記念 藤田嗣治展 —東と西を結ぶ絵画— 4月29日~7月3日)に行ってきました。なお、兵庫と府中では現在開催中、今秋開催予定です(展示会概要)。


これは、以前にこのブログでも書いたことがあるのですが(「モーツアルトのピアノ協奏曲」)、美術評論家で画廊経営者でもあった洲之内徹は、司修との会話の中で、藤田は戦争責任なんて感じていないと思う、藤田の絵は戦争画しかない、あとはクズだよと言い放ったそうです(司修・『戦争と美術』1992年 岩波書店)。もちろん表立ってこんな事を言ったり書いたりはしていないようです。私は、洲之内徹という人が大嫌いなのですが、絵に対する眼力は確かで、あたりさわりのないありきたりの事しか言えない凡百の評論家とは比すべくないと思っています。また、自身が美大出の左翼活動家で転向者という事もあって、戦中戦後の画家たちの振る舞いに対する覚めた冷徹な見方をしています。この藤田に対するオフレコな発言も、藤田の絵と人に対するきわめて的確な見方だと、展示を見てあらためて思いました。

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

右 委嘱者の元軍人・軍人に絵を説明する藤田。左 所在不明の2枚の藤田の戦争画 『藤田嗣治画集 異郷』・林洋子監修より

日本の戦争画に関しては、その返還や公開に関しては色々な曲折があったようです。特に藤田嗣治のそれに関しては未亡人の君代さんの意向などもあって一筋縄にはいかなかったようです。それでも、この司修さんの『戦争と美術』が出版された1990年代からは少しづつ公開されはじめ、芸術新潮の特集『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』1995年8月号などで、図録としても紹介されだしました。元美術少年としては、この戦争画の問題はずっと気になっていました。とくに敗戦の夏になると、司さんの本を取り出して、その冒頭に掲載されているシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を読み返したりしていました。このシャガールの痛切な自己批判とナチを通り越してドイツ人やその画家に対する糾弾と怨念の言葉は心を打ちます。美術が政治や、まして戦争と無縁な超越した存在では決してありえない事を思い知らされます。シャガールの献辞は、「日本の侵略戦争の犠牲になった中国人(アジア人)画家(作家・音楽家・すべての表現者)展」のそれとして、文中のデューラー、クラナッハ、ホルバインを、藤田嗣治、川端龍子、横山大観と読みかえれば、日本の戦争画の果たしたもうひとつの役割が見えてきます。             

少し長くなりますが、このシャガールの「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」への献辞を文末に引用しておきます。わたしの書いたものなど、まあどうでもよいですがこの献辞だけでもぜひご一読下さい。


結論から書いておくと、私は藤田嗣治の絵が嫌いです。とくに今回見た彼の戦争画対しては強い嫌悪感を覚えました。なにかしらおぞましいものを前にした時の血圧が上がり、胃がキリキリとして悪いものがこみ上げてくる感覚です。この嫌悪感は、針生一郎がこの絵に対して作者の魂はまったくここに関与していないと喝破したように、いくら戦争画とはいえ死者(この場合は米兵になるが)や死にゆくものに寄せる同情、哀れみ、たむけ、痛憤そうした人間らしい一切の思いが感じられないことからくるのでしょう。かれら(玉砕してゆく兵隊)を手ゴマのようにもてあそぶ態度で、嬉々として兵士たちの絶望的な死闘を描き続けたのでは、と河田明久は指摘しています。そのとおりだったのでしょう。あとでもう少し詳しく検討したいと思います。

次に、藤田の戦争責任、この直截な表現が嫌なら藤田の戦争画がそれを見る人に与えた影響はきわめて大きい。藤田自身のものも含めて、戦争画の数々を図版で見ていると、彼は名実とも美術界における戦争協力のトップランナーであったとわかります。今回の展示の「アッツ島玉砕」は、玉砕戦肯定・賛美の絵であり、その後の追随者エピゴーネンたちによる同じような暗い玉砕賛美の模倣画の先駆けとなります。また最後の戦争画である「サイパン同胞臣節を全うす」は、軍人の玉砕とともに民間人の集団自決を臣節として賛美・強要するものになっていると思います。ただ、こちらは敗戦によって追随者エピゴーネンどもが蠢き出す間もなかっただけの話です。この点も、敗戦後の戦争責任に対する論争とも関わってきますが後でもう一度触れます。


さて、はじめに整理・俯瞰する意味もあって藤田嗣治の戦争画(軍委嘱の作戦記録画及び戦争に関係する絵画)で手持ちの書籍や図録と市と県の図書館で見ることができたものを列挙すると下の表のようになります。当然遺漏もあると思いますが、敗戦後、米軍に接収されその後無期限貸与という形で、現在東京国立近代美術館に所蔵されている藤田の絵は14点とされています。それは網羅していますし、あらかたこんなものでしょう。このうち今回の名古屋の展示で出展されていたものは、以下の3点です。

  • アッツ島玉砕
  • ソロモン海域に於ける米兵の末路
  • サイパン島同胞臣節を全うす

続きます


藤田嗣治の「戦争画」一覧
題名 製作年 出品 所蔵先 注)1 備考 収録誌・画集 注)2
千人針 1937年 所在不明 (7)
千人針 1937年 個人蔵 (7)
島の訣別 1938年 第25回二科展 事変室 所在不明 6
南昌ナンチャン飛行場の焼打 1938〜39年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 3 , 7
武漢ウーハン進撃 1938〜40年 第5回大日本海洋美術展(1941年5月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
哈爾哈ハルハ河畔之戦闘 1941年 第2回聖戦美術展(1941年7月) 東京国立近代美術館 個人委嘱、後に献納。陸軍作戦記録画 (2) , 3 , 6 , 7
十二月八日の真珠湾 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 7
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
二月十一日(ブキ・テマ高地) 1942年 第1回大東亜戦争美術展(1942年12月) 所在不明 陸軍作戦記録画 6
佛印・陸からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
佛印・海からの進駐 1943年 陸軍美術展(1943年3月) 所在不明 陸軍作戦記録画 (7)
アッツ島玉砕 1943年 国民総力決戦美術展(1943年9月) 東京国立近代美術館 後、軍に献納。陸軍作戦記録画に (2) , 3 , 4 , (5) , 6 , 7
ソロモン海域に於ける米兵の末路 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 海軍作戦記録画 4 , (5) , 6 , 7
○○部隊の死闘 ー ニューギニア戦線 1943年 第2回大東亜戦争美術展(1943年12月) 東京国立近代美術館 陸軍戦争記録画 6 , 7
神兵の救出到る 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , (5) , 6 , 7
血戦ガダルカナル 1944年 陸軍美術展(1944年3月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 (5) , 7
ブキテマの夜戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
大柿部隊の奮戦 1944年 文部省戦時特別美術展(1944年11月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 7
薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 6 , 7
サイパン島同胞臣節を全うす 1945年 陸軍美術展(1945年4月) 東京国立近代美術館 陸軍作戦記録画 3 , 4 , (5) , 7
  • 注)1 所蔵先・東京国立近代美術館とあるのは、接収元の米国からの無期限貸与という扱いらしい。
  • 注)2 収録誌・画集のナンバーは巻末の参考文献から。( )内は、文中口絵として掲載のもの。

シャガールの献辞(「ホロコーストの犠牲になったユダヤ人画家たち展」)

わたしは彼ら全員を知っていたか?
わたしは彼らのアトリエにいたか?
わたしは彼らの芸術作品を近々と、あるいは、離れて、見たか?
そして今、わたしはわたし自身を離れ、
わたし自身の実体を離れて、
彼らの知られざる墓へおもむく。
彼らはわたしを呼ぶ。彼らはわたしを、
自分たちの墓穴へ引きずり込む・・・
わたしは、無辜の罪を犯した者だ。
彼らはわたしに問う。「おまえはどこにいたのだ?」
・・・わたしは逃げていました・・・
彼らはあの死の浴室に連れて行かれ
自分たちの汗を味わった。
彼らが不意に、まだ描かれていない自分たちの絵画の光をみたのは、
そのときだった。
彼らは達成されなかった歳月を数えた。
夢を、夢を満たすためにたくわえ、待ち望んでいた歳月を
・・・眠らなかった、眠たくなかった・・・
彼らは、自分たちの頭の奥にある、子供時代の跡を突き止めた。
そこでは、衛星を持つ月が、彼らに輝かしい未来を告げていた。
暗い部屋の中や、山々や谷間の草地の中での若い愛が、
かたちのいいあの果実が、
温かい乳が、咲き乱れる花々が
彼らにパラダイスを約束していた。
彼らの母親の両手と両眼は、
彼らとともにあの遠距離列車に乗っていた。
わたしには見える。
今、彼らはぼろをまといて、裸足で、
沈黙の道を、足を引きずりながらのろのろ歩いているのだ。
イスラエルの兄弟たちの、ピサロの、そして
モディリアーニの・・・わたしたちの兄弟たちは・・・ロープに導かれ、
デューラーの、クラナッハの、
そしてホルバインの息子たちにみちびかれた・・・
あの焼却炉の中の死へと導かれていった。
どうすれば、わたしは涙を流すことができるだろう。
涙を流すには、どうすればいいのだ?
彼らが塩漬けにされてから、
長い年月が経った・・・わたしの目からこぼれた塩に・・・
彼らはあざけりとともに乾燥され、だからわたしは
最後の希望を捨てるべきなのだろう。
嘆き悲しむにはどうすればいいのだ?
わたしの屋根から、最後の屋根板がはがされている音が、
毎日、聞こえてくるのに。
かつてわたしが置き去りにされ、
いずれはそこによこたわって眠るための
ほんのささやかな土地を守るために、
戦うには疲労しすぎているときに。
わたしには、あの炎が見える。立ちのぼって行くあの煙とあのガスが、
あの青い雲を黒雲に変えるのが見える。
わたしには、むしり取られたあの髪の毛と歯が見える。
あの髪の毛と歯は、わたしに向かって不穏な棺衣を投げかける。
わたしは、スリッパや、衣類や、灰やがらくたの山のまえの
この砂漠に立って、カーディッシュの一節をつぶやいている。
そして、そんなふうに立っていると・・・
わたしの絵から、わたしに向かって下りて来るものがある。
片手に七弦の竪琴を持っているあの描かれたダビデだ。
わたしが嘆き悲しみ、
詩篇を唱えるために、彼は手を貸したいと思っている。
ダビデに続いて、わたしたちのモーゼが下りてきてこう言う。
誰も恐れるな、
新しい世界のために、わたしが新しい銘板を彫り上げるまで、
おまえは静かに横たわっているべきだ、と。
最後の火花が消え、
最後の死体が消滅する。
新たなる大洪水を前に、それはじっと動かなくなる。
わたしは起き上がり、きみに別れを告げる。
わたしはこの道をたどって新たなる神殿へおもむき、
きみの絵のために、
一本の蝋燭に火をともす。

(英文からの邦訳、麻生九美)司修・『戦争と美術』より重引


藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

藤田嗣治の戦争画に関する参考文献の一部

参考文献

  1. 『戦争と美術』 司修 1992年7月 岩波書店
  2. 『日本の戦争画 ーその系譜と特質』 田中日佐夫 1985年7月 ぺりかん社
  3. 『カンヴァスが証す画家たちの「戦争」』 芸術新潮1995年8月号
  4. 『LEONARD FOUJITA』生誕130年記念藤田嗣治展 ー東と西を結ぶ絵画図録 2016年
  5. 『戦争と美術 1937〜1945』 針生一郎他 2007年 国書刊行会
  6. 『画家と戦争 日本美術史の空白』河田明久 別冊太陽 2014年8月 平凡社
  7. 『藤田嗣治画集 異郷』 林洋子監修 2114年2月 小学館
  8. 『戦争画とニッポン』 椹木野衣x会田誠 2015年6月 講談社
  9. 『評伝 藤田嗣治』 田中穣 1988年2月 芸術新聞社
  10. 『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』 近藤史人 2002年11月 講談社
  11. 『僕の二人のおじさん 藤田嗣治と小山内薫』 葦原英了 2007年9月 新宿書房

GO VOTE 0710
自分の未来は自分で選ぶ

もう明日の事になってしまいましたが、学生時代の友人から案内が来ていました。そのチラシを貼っておきます。京都在住の人、とくに学生や大学関係者の人、気にとめておいて下さい。それで、こんな事をしている連中もいるという事で投票に行ってくれると嬉しいです。

govote0710

期日前投票に行ってきました。
比例区は「福島みずほ」(社民)、選挙区は「芝ひろかず」(民進)と書きました。

昨日、期日前投票を済ませてきました。比例区は、「福島みずほ」(社民党)、選挙区ではいやいやながら民進党の候補に入れました。今回は、自民党に対抗する野党統一候補ということで、共産党が候補擁立を控えたので仕方ありません。それでもまだ忸怩たる気分が抜けませんが、共産党や社民党の皆さんは、内心はもっと残念な思いをしていることでしょう。まあ、広報の公約に自民党による憲法9条改正の流れを止め、平和を守るとあるので良しとします。

公選法上差し障りがある?でも、自宅の写真を自分のブログにあげただけです。

公選法上差し障りがある?でも、自宅の写真を自分のブログにあげただけです。

投票後、例によって、某新聞社の腕章をした人間が出口調査と称して寄ってきましたが、お断りしました。少し前の選挙の時でしたが、朝日新聞を名乗る非通知の電話がかかってきて、無作為抽出で選挙の事前アンケートをお願いしたい云々。たどたどしいいかにもアルバイト風の感じの声でした。もちろん断りました。なぜ非通知の電話に、私の個人情報(年齢・職業・性別)や政治思想や行動を言わなくてはならない。協力してほしかったら、まずは番号通知にして、このアンケートの企画部署とその責任者と君の名前を明らかにしてからかけ直せと言って切りました。ふざけたことに、何日かしてまた非通知で、同じ声で朝日新聞だがアンケート云々の電話がありました。この時は、さすがに腹がたって、何日か前にちゃんと理由を挙げて断ったはずだ、責任者をだせ、無理なら名前だけでも教えろと怒鳴ったら、今度は向こうから電話を切ってきました。

それをきっかけに、この新聞を定期購読するのをやめました。もともと妙に上から目線で権威主義的なこの新聞も好きではなかったのですが、この傍若無人で稚拙かつ横柄ともいえる調査方法に嫌気がさしました。他に選択肢もないとて惰性で続けていたのです。

もう、テレビを中心にマスなメディアは選挙もワイドショーのネタのような扱いです。当落予想など競馬の着順やや野球の順位予想かのようです。風だの政局だのと、なんの得にもならないのに勝ち馬の乗るようにしむけているとしか考えられません。こうして、本来のそして自民や公明が意図的に隠している争点をますます見えなくしています。私は、もうかなり以前から選挙関連のメディア情報は見ないようにしています。そのかわり、選挙広報や政見放送とビラの類はしっかりと読みます。

もし、ワシントン・ポスト紙が日本で発行されていたら、今回の選挙では、自公及び改憲勢力以外への投票を呼びかけているでしょう。知られているようにアメリカ合州国の有力紙は、選挙の前には自紙の選挙争点への見解と支持政党を表明します。トランプに対しては、早い段階で批判を加えています。今回は、本当に問われてるのは憲法の改正問題です。それに加えて、政権党と権力による報道や表現などへの有形無形の規制が、ある危険な一線を越えようとしていると感じます。メディアにとってそれは死活問題なはずですが、もう抵抗する気概さえなくしているのでしょうか。

万古祭りでした

熊本から帰って、14日・15日は、地元・四日市で万古祭りがあった。出かけて器など何点かを購入。そのうちの一つ。径・285ミリ(9寸5分)の鉢。さっそく食べたいと思っていた鰯を煮て盛る。

最近は、こういう染付の器ばかり買っている。

最近は、こういう染付の器ばかり買っている。

益城町 2 木造にダメ出しする前に色々考えたいとは思った

益城町、28号線沿いのK園芸さんの木造倉庫。大きく傾いているが、なんとか倒壊はまぬがれている。

益城町 28号線沿いのK園芸さんの木造倉庫

益城町 28号線沿いのK園芸さんの木造倉庫

おそらく建て増しした部分の胴差と柱の接合部分。差し違いの2枚ホゾになっている。一方のホゾが折れているが、なんとか抜けずにいる。

増築部分の柱と胴差の接合部。一方のホゾが折れながらなんとか持ちこたえている。

増築部分の柱と胴差の接合部。一方のホゾが折れながらなんとか持ちこたえている。

本梁に、2間の梁2本を掛ける。大入れのおそらく蟻掛けが、縦揺れのためか外れかけているが 、持ちこたえている。

倉庫内の本梁と梁の接合部。構造的に、もっとも重要な部分だと思われる。

倉庫内の本梁と梁の接合部。構造的に、もっとも重要な部分だと思われる。

上の接合部。

上の接合部。

この倉庫は、筋交いも火打ちも、まして耐力壁もない木造2階の軸組の建物だが、2回の震度7の揺れにも、こうしてなんとか倒壊せずに持ちこたえている。

今回の地震でも、木造建築の耐震性能が問われる事になると思う。実際に多くの木造住宅が倒壊して人が亡くなっている。その倒壊の仕方の多くはは、2階建の住居の1階と2階の間の胴差とか腰桁と呼ばれる横架材と柱の接合部分から柱が折れて(あるいは桁やが抜けて)、1階部分を2階部分が押し潰すような形になっている。

益城町の崩れた木造住宅。

益城町の崩れた木造住宅。

今の耐震診断では、木造のこうした柱と梁・桁の接合はピン接合として扱われているのも、こうした現状では仕方ないのかもしれない。ピン接合というのは、柱と梁・桁が点で繋がっている、もっと平たく言えば積み木のように上に乗っかかっているだけと想定されている。対して、鉄骨造とか、RC造の場合は、枠(ラーメン)として柱や梁は一体の構造物として強度を図られる。だから、木造の場合どれだけ立派で入念な造りがなされた建造物であろうと、見かけ上筋交いや火打ち、不細工な耐力壁がないと倒壊の恐れのありと判定されてしまう。


人の命に関わる問題なので、いい加減な事を語ってはダメだとは認識している。ただ、古い木造だと言ってそれを建てた大工の腕とか経験・知見、その造りの入念さや精度を無視して、一律に筋交いだ、耐力壁だと耐震の問題を一元化してしまうのはどうかと思っている。それに、筋交いとか耐力壁、それに不細工な接合金具を使用する家は、必然的に柱や梁をボードなどで隠した大壁造りの家になる。構造材の腐朽とかシロアリの害とかは、かえって発見しにくくなるし、空気に触れない分腐朽しやすいだろうし、材の痩せに対して金具の増す締めとかはどうするのだろう。今回も、剥げたモルタルの蔭で、腐った土台や柱の住宅を複数見た。

木に携わる仕事をしている人間として、木造住宅や構造物が一律にダメ出しされているのは、やはり悲しい。それに、それに対する対策が、筋交いや耐力壁に集約されているのも実は危険だと思う。こうした発想は、木造=ピン接合という機械的発想から導きだされるのだろうが、プレカットのない時代の大工が構造に合わせて刻んだ仕口には枠(ラーメン)構造とまではいかないまでも、それに準じた耐力がある。K園芸さんの倉庫は、それを見を持って示しているように思う。

益城町

2日目の午後は、震災の被害がひどかった益城町に向かいました。声掛けと食事・飲み物の提供を続けている女性ボランティアの人たちに案内されて、現地を廻らせてもらったという感じです。現地で知り合えた被災者の親族や人づてに、または通りから離れて人目につきにくいテント生活の高齢者を訪ねては、声掛けをして要望を聞き出す。こうした地味で、でも本当に必要とされている活動を連日されているのは、本当に素晴らしいことだと思います。

熊本市から28号線を通って、益城町に入る辺りから倒壊した家屋が目に入り、市内とは明らかに様子が変わります。拠点のように使わせてもらっているという 閉店したコンビニの駐車場に車を置いて、村内を回ります。特に28号線の南側は倒壊している建物が多く、余震の関係もあるのが、そのほとんどが手付かずの 状態です。

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このお宅は、材木商のご主人が建てたもので、入り母屋造りの二重屋根の辺りの中でもひときわ立派なものです。

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比較的古い立派な造りの家が倒壊している隣で、震災に弱いとされる簡素な木造モルタル造りの家が建っている。私の半端な20年前で止まっている知識では、理解不能です。

このお寺では、本堂が倒壊。脇にある納骨堂と思われる蔵も傾き、中の納骨棚も倒れ、骨箱が散乱しています。昨年、津市のあるお寺の納骨棚を作らせてもらったこともあって、私にはショッキングな光景でした。転倒防止金具をつけたとしても、堂そのものが倒壊してしまえば意味がありません。

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masiki_temple2

熊本2日目

昨日、熊本洋学校ジェーンズ邸として載せた画像は、天理教の神殿でした。ある目的があって、その瓦礫の廃材を手に入れたかったのです。朝の6時に現場に行って作業員の人に、ここはジェーンズ邸か?そうであれば瓦礫の中の廃材を欲しい旨伝える。怪訝な顔をされて、ここは天理教の神殿だと言われる。どうりで天理教の名を関した人たちばかりだと思った。それにしても、どうみても本格的な重機もそろえた本格的な建築チームが一宗教団体で集めることが出来るというのはすごいことだと思いました。

あらためて、外に出て散歩中の人に尋ねて行ってみたジェーンズ邸は、既にブルーシートに覆われていました。

 

 

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

ブルーシートに覆われたジェーンズ邸の瓦礫

熊本初日

今回、お世話になっている熊本聖三一教会の近くの水前寺公園辺りを、早朝に散歩してきました。

熊本洋学校ジェーンズ邸

熊本洋学校ジェーンズ邸水前寺公園近くの天理教の神殿

明治4年建設の熊本洋学校ジェーンズ邸は、瓦礫の山になっていました。
天理教の神殿でした。

水前寺公園の能楽堂

水前寺公園の能楽堂

公園内の能楽堂は、外見からは無事のようです。

このあと土砂災害のひどかった南阿蘇村へ。