もう無理がきかない体になってしまったが、それでも少しは残業をしている。今年の冬は、まだ暖かいので助かる。
それにしても、オリンパスの5軸手ぶれ補正というのは、よく効く。薄暗い工房で、ISO200に固定してシャッター速度・1/8秒でも、手持ちでこの程度に写る。ピントは、加工材の先端のホゾに。
もう無理がきかない体になってしまったが、それでも少しは残業をしている。今年の冬は、まだ暖かいので助かる。
それにしても、オリンパスの5軸手ぶれ補正というのは、よく効く。薄暗い工房で、ISO200に固定してシャッター速度・1/8秒でも、手持ちでこの程度に写る。ピントは、加工材の先端のホゾに。
木の仕事展IN東海の終わった翌日30日は、期限最終日となった特定健康診査を受ける。その次の日、12月1日は以前からの約束で大阪に仕事の打ち合わせ。段取りの悪さで、年内にはこなしきれないほど溜まった仕事の状況で、一体どうするのか。
打ち合わせ自体は、30分ほどで終了。その後、近況報告と互いの知人の動向などを聞く。それも終わって、音楽、ディスク談義に。ディスクの棚で見つけたのがこれ。ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの初期の録音を集めた10枚組みだ。その中に、1948年録音の『冬の旅』があった。これをかけてもらう。一聴、まるで別人のような若々しい声に驚く。ジャケットの写真も若い!この手の輸入盤の常で、驚くほど安いようだが、もう本やディスクは、よほど気に入って(気になって)手元に常時置いておきたいと思わない限り、買い足さないと決めている。次の納品まで、借りることにする。
1925年生まれのディースカウが23歳の時の録音になる。彼は、イタリア戦線で捕虜になり2年ほど抑留されていたそうなので、戻って1年くらいか。日本同様、敗戦国で、首都ベルリンをはじめ地上戦まで行われ、分割占領された国の敗戦3年目というのは、どういう状況だったのだろう。その中で、おそらくはラジオ放送用の録音だろうが、捕虜帰りの23歳の若造に『冬の旅』を歌わせると言うのもよくわからない。ドイツ流の『りんごの歌』なのだろうか?そういえば、トーマス・マンの『魔の山』で、主人公がサナトリウムに運ばれた蓄音機に夢中になり、それで『冬の旅』の「菩提樹」を演奏する場面があった。最後、戦争が始まって、その主人公がやはり塹壕で、「菩提樹」を歌って突撃するシーンで、話は終わる。あんな小説、今なら、絶対に読み通すことなどないだろう。サナトリウムの、さして珍しくもない日常が延々と描かれる。この長大で冗長とも言える小説の最後に、突然このエピソードが語られ、話は終わる。彼が、死んだのか生き延びたのかも分からない。
とにかく、このディースカウは若い。私などが初めてディースカウを聴いたのは、学生時代かせいぜいが高校生の頃のLPレコードだから、ディースカウも、もう40代の中年のオッサンだったのだ。やはりその若々しさや瑞々しさに驚いた1950年代半ばのザルツブルグ音楽祭の一連のライブ録音の頃でも、30歳前後の絶頂期だったのだ。 この23歳の若造の歌唱については、色々評論家をまねて講釈を垂れることも出来るだろう。曰く、この歌曲集を貫く絶望感や寂寥感を表現するには云々。忘れがちだが、『冬の旅』はシューベルト晩年の作とは言っても、彼は31歳で亡くなっているのだ。ここにある疎外感は、むしろ若者特有の、自分が社会の中の居場所が見つけられずに感じる焦りと居心地の悪さのように思える。それは、尊大で強烈な自意識と、その一方で自分の能力とか可能性に対する不安という相反するものから生じていたと、かつての自分を振り返って思ったりする。
名古屋に4日間通い、一日おいて大阪に出たことになる。無機的な構造物にあふれる人の数の多さに、息苦しくなる。もうこうした都会では、とても生活出来ないなと感じる。それに電気の機械がないと家に帰れない高層マンションというのも、私には無理だ。田舎に引っ込んで20年になったのだ。
木の仕事展IN東海2015、本日無事終了いたしました。行楽日和なお休みにわざわざ足を運んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
出展者の1人としての、まとめや感想、総括は、またあらためます。本日もワークショップ参加してくださった方々を紹介いたします。
私も加入している「木の仕事の会」の東海地方のメンバーによるグループ展です。私も参加します。
地図は、こちらにあります。→木の仕事展IN東海2015 DM裏
今回は、私は和の棚、和の机、それに小箱と、最近の志向のものを出展予定です。それと、
いつも、私は鳴り物係兼、お茶接待係兼、ワークショップ担当のような役回りです。今回は、鳴り物は、古いLPレコードの演奏、ワークショップは、色々と評判の良かったミニテーブルを考えています。
この2寸の鑿を買ったのは、ずいぶんと前になる。ある仕事で必要で、でも自分で道具屋を物色する時間もなく、当時付き合っていた機械屋が、手道具も扱っているとの事で頼んで持ってきてもらった。プレミアの付くようなプランド銘のものではないが、一目、良さそうなものだったので、買った。値段は、それでも特殊な刃物になるので、安くはなかった。今なら、型落ちのミラーレスカメラのダブルレンズキットが買えるくらいの値段だった。以降、使用頻度は高くないが、重宝している。普通に良く切れる。昨年の『木の仕事展IN東海2014』のDMに、その写真を使った。
その用途は、画像のように導付の仕上げになる。よく研ぎあげてあれば、凛とした美しい切断面となる。これを例えば、1寸2分くらいの鑿で、2回に分けて削っても、慎重に行えば実用上は問題なく仕上がる。しかし、仕事として数をこなしていかなくてはならない場合、微妙な段差が出来たりする事もあり、面白くない。
ちなみに、2寸の鑿の場合、この場合のように1寸4分(42ミリ)の材の留加工が出来る事になる(42✕1.4=58.8)。框や、こうした端ばめ加工なら、実用上これで充分だと思う。
今なら、トリマーにジグを当ててむしり取って、角だけ鑿で修正と言うやり方がある、というかそれが主流かもしれない。しかし、私はそうして回転する機械の刃物で切断したり、むしり取ったりする工作が嫌いなのだ。もちろん、今やそれ(機械作業)なくしては仕事としての木工など成り立たないし、現に私も使ってる。ただ、それは木取りや大まかな木造りまでにして、仕上げに近づくほど刃物を使った手作業の割合を増やしたい。年を取るにつれて、その思いはますます強くなってきました。動力の木工機械や電動工具の音や、手や体に伝わる振動が、最近はいよいよ苦痛に感じるようになった。
それに、いくら機械の精度と調整がよくても、前も触れたように導突き鋸で挽いたり(剣留と導突鋸)、こうしてよく研ぎあげた鑿で削った切断面の方が綺麗だ。それに対する自己満足が、私がこの仕事を続ける動機付けになってきた。
今月27日からのグループ展に向けての仕事。和机の足(右上)と畳摺り(左下)となる。中々に面白く合理的な仕口だと自賛したいが、どうせ先例があるだろうと、『図解 木工の継手と仕口』を見る。類例はなさそうだ。 しかし、似たようなものを、どこかで見たような気もする。