棺の中に納めた着物のこと

母親の火葬の際に、棺に納めた着物は実家の箪笥から引っ張りだしたものの中から、伯母に選んでもらいました。

通夜の朝に、棺の前で伯母がどうしても和子には着物を着せてやりたいと言います。実は老健から実家に戻る時に仮に着替える時も、納棺師が死装束に着替えさせてくれる時も、好きだった着物を着せてやりたいと言っていました。それで、せめて棺の中に納める事が出来るようにと実家の二階の母親の箪笥から目ぼしい物を引っ張りだしたのですが、伯母の記憶にある母親自慢の着物がありません。それでも時間がなかったので、引っ張りだした中から選んでもらったのが前の記事の写真で棺にかけられていたものです。

通夜に集まる弔問の皆さんの母親の思い出話のネタになるように、施設にも持っていった古いアルバムや未整理の写真の何枚かを選んでいたのですが、よく見ると棺にかけた着物を着た母親の写真があります。

ひとつはまだ赤子の兄を抱いた写真、兄は今60歳ですからおおよそ60年前、母親が25、6の頃になります。

kazuko_makoto

60年前の赤子の兄と母親

 

もうひとつはまだ学生だったと思われる私と父親と写っているもの。およそ35年ほど前になります。

学生時代の私と両親

両親と学生時代の私

よくわからないのですが、たしかに伯母の言うとおり何かのおりには、もっと上等な着物を着て母親は出かけていったような記憶があります。それとこの着物も、普段着的に着ていたかな。本当のところ、よく覚えていません。ただ、箪笥から出したこの着物には仕付け糸が付いたままでした。何回目かの洗い張りに出して、それ以降着る機会がなかったのでしょうが、そうして長い間大切に着続けてきた好きな着物であったのは確かなようで、一緒に棺に入れられて燃やしてもらうにふさわしいものであったように思います。


さて、昨日はお寺とお世話になっていた介護施設に挨拶に行き、そのあと母親の年金の廃止などの手続きに必要な書類を市役所に取りに行きました。それで一日が終わってしまいました。今日は、母親の遺品整理というと聞こえがいいですが、遺品の処分のための片付けを弟と二人で終日行なっていました。中には見てはいけない、見たくないようなものもありますが、もう今さら母親や父親の生臭い過去を詮索する気にもなりません。それらしいものは、そのまま開かれることなく葬ります。明日は、初七日の法要になります。実家の整理や片付けは、もう暫く時間がかかりますが、兄はすでに今日から仕事に復帰しましたし、弟も明日帰ります。私も、明後日からは通常の仕事中心の生活に戻ります。ここの記事も、あと1回、葬儀のことについて触れてからこの話題は終わりにします。

親を送る

母親の骨を拾い、骨壷に収めて実家に持ち帰る。夕方にはいつものようにタロー(雑種犬・12歳)の散歩に出る。帰りは道を普段より少し遠回りをしてみる。

60年前、赤子の兄を抱いた写真の母親が着ていた着物を棺に入れる

60年前、赤子の兄を抱いた写真の母親が着ていた着物を棺に入れる

母親を看取る

母親の移された部屋の殺風景さにようやく気がついて、今日(日付の上ではもう昨日になりました)19日のお昼にはバラの花を10本買って花瓶に生けました。かすかに笑顔らしきものを見せてくれた朝とは違って、目を開け、下顎と肩を上に突き出すように喉を鳴らしながら息をしています。苦しそうというより、今思うと、断末魔という言葉がふさわしかったのかもしれません。体調を崩してからは母親の薄くなった髪を撫で上げ、頬を擦りながら話しかけるということが、ようやく出来るようになっていたのですが、この時も、またすぐ、夕方に来るからな。でも、辛いな、辛かったらもう頑張らなくてもええで。と言って午後2時過ぎに部屋を出ました。その時、母親は焦点の定まらない視線をそらしたまま苦しそうな息をしていたのか、あるいは視線をこちらに向けてなんとかはい言おうとしたのか、今はもう思い出せません。 後者のようであった気もするし、それは自分の願望をすり替えただけかもしれない。

生けた10本のバラと伯母の家の花

生けた10本のバラと伯母の家の花とメモ

夕方6時過ぎ、伯母とふたりで部屋に行った時はまさに母親が、その頑張りをやめた、やめてくれた時でした。必死に脈を探してくれていた看護師に手を握ってあげてくださいと言われて、母親の手をとった時、それはまだ暖かい生きた人間の手でした。その時、また脈があったか、かすかでも息をしていたのかは、分かりません。でもその時は、昼間のような苦しそうな息はやんでいたが、暖かい手をしていました。伯母は、アッちゃんが来るのを待っていたんやでと言ってくれました。私は、そうした偶然に意味を付与するような考え方は、あえてしないようにしていますが、もし、本当に母親が待っていたとしたら、それは自身老いた身体を引きずるようにしながら、妹の身を案じ施設に通い続けた伯母のことではないかと思います。

親を看取る

今、私の母親は死の床についています。

嚥下力の弱っている母親は、施設の看護師や介護士の援助と監視を受けながら摂食してました。他の入居者に比べれば摂食・嚥下力ともまだ正常な方です。16日朝食時、薬を飲んで、食事を2口ほど含んだ段階で、介助の人が他の入居者の介助に行って、戻った時は上を向いて口を開け、ほとんど呼吸停止状態だったそうです。連絡を受けて行くと、いつものベッドに横たわり酸素の吸入を受けていました。その時は、呼吸は少し荒くタンを喉で転がすような音を立てていましたが、顔色やクチビルの色はだいぶ良くなったと看護師から説明を受けました。しかしながら、もう長くはないと素人ながら思わざるをえない状態でした。 16日の朝に倒れ、以降3日間点滴と酸素注入で生きながらえています。17日には一時熱も下がり、本人の応答も回復して、医師から治癒の可能性も示唆されたました。しかし18日には血液検査と隣の病院の専門医の往診の結果、誤嚥性の肺炎を起こしており、治癒の見込みはないとされました。一時消えていた肺雑音も復活し、夜には再び呼びかけへの応答もほとんどなくなりました。

親の末期の姿を記憶意外にも留めておきたい。がデジカメは絶対にいやだ

親の末期の姿を記憶の他にも留めておきたい。がデジカメはいやだ。万年筆とメモ用ノート

16日の段階で、末期の過ごし方について施設長、医師、担当の看護師から説明を受け、選択肢を与えられました。詳しくは触れませんが、隣接する系列の病院に移ってよく言われる延命的措置を施すか、あるいはこちらで点滴と鼻からの酸素注入という最低限の措置により末期を迎えるかという事です。具体的には家族の判断と選択に任せるということでしたが、たくさんの高齢者の最期を看取ってきた3人からは、本人の苦痛という面からも病院への転院やそこでの措置を薦められないという意見をお持ちなのは明らかでした。

16日の段階では、私の一人の意見として転院による延命措置を断り最終的に翌17日、兄と弟含めた3人の意見として確認を取りました。ただし、その時は治癒の可能性も示唆され、母親の様態もはっきり回復しかけていたので、延命措置を断るということの深刻さを、私も含めてちゃんと認識していなかったように思います。しかし、昨日治癒の見込みなしと診断され、実際に苦しそうな荒い呼吸を続ける自分の母親を見ていて、延命を断るというとカッコいいですが、それは言葉を変えると自分の親を餓死するに任せる、上手く言い換えても極端な栄養不良状態で病状に放置するということだ気が付きました。

末期の過ごし方について、考えが変われば何時でも言ってくれれば、それに従うと施設からも言われていたので、たとえ1日でも2日でも胃に開けた穴からでも中心静脈からでも栄養を摂取出来て、すこしでも空腹感がやわらいで命が伸びるなら、そうしてもらおうかと考えました。しかしながら一晩考えて、悩んでやめました。いくらもう意識の混沌とした状態でも、母親をあれだけ入院に抵抗した病院にストレッチャーで運び、そこでまた機械的にテキパキと太い点滴の針を、こんどはより深く刺される、軽い処置になったとはいえお腹に穴を開けられる、気管支に管を入れられる、それぞれの措置についても事前の家族の同意を求められるとはいっても、転院(入院)するというのは、そうした医療行為が前提というかその為に入るのです。

本人も望んでいない(いなかったであろう)とか言うのは、おためごかしにしか過ぎません。そんなことは本人にしか分かりません。元気だった頃の言動から慮るというのも、あてにはなりません。この(昭和ひとけた生まれ)世代の女性と一般化するのは、少しばかりためらいますが、少なくとも母親に関して言えば、表向きの発言とはまったく別のところに本音があることは多々ありました。特に、所詮他人ごとと高を括っていたことが、自分が思わずも当事者となってしまった場合はとりわけ顕著でした。ですから、本人の望み(推測)というのを言い訳にするのは、一切やめようと思っています。

病院に入院するだけで、不安定になりせん妄を生じさせる。あるいは様々な処置なりその事前の準備自体が苦痛で嫌がる。たとえ意識のレベルが低下していてもそうした親の姿を見ていたくない、これは自分の願望であって、当事者のそれではありません。自分なら、そうした行為(延命的措置)を受けてまで薄れる意識のもとで生きていたくない。これは自分の価値観であって、親のそれではありません。特に事前の意思表示がない以上、結局は、自分の判断、意識、感情、価値観で親の末期の姿を決めた。その事はずっと自分で背負っていくべきだと自分に言い聞かせています。