岡山に行ってきました

世間で言うゴールデンウィークの初日・29日(土)と30日(日)、岡山へ行ってきました。岡山は、兄の20年来の勤務地・居住地で、そこに関東から弟もやってきて、それぞれの連れ合いもふくめて集まりました。ちなみに兄弟は60歳前後で、いずれも身長180センチ前後が3人という異様な集団になります。ただ、3人とも肥満ではない(どちらかと言うと痩身)ので、それほど周囲に対して暑苦しい思いもさせていないのではと勝手に想像しています。以下、兄夫妻の段取りしてもらった主な行程です。

写真はいずれもRICOH GXR A12 28mm によるものです。KOWA 8.5mm F2.8 とマイクロフォーサーズの組み合わせほど、鮮烈な絵ではありませんが、よく写ります。

J2 ファジアーノ岡山湘南ベルマーレを観戦

J2といえどもさすがにJリーグ。会場が市内の良い場所に立地しているのもあってか8,089人の入場者があった。昨年も1試合平均9127人というし、試合前に親子連れで会場に向かう多くの人の姿を見ると、地域に根付いたチームだと感じた。一応メインスタンドのホーム側(岡山側)にいたが、結果は完敗。陥落したばかりとは言え、J1に在籍していたチームと、万年J2のチームの差は大きい。

後楽園

この日は、連休初日で春の幻想庭園のオープニング。ライトアップとともに、プロジェクションマッピングというものも行われた。

後楽園に隣接する岡山城。旭川沿いに見る。

後楽園。園内・唯心山よりの眺め。
RICOH GXR A12 28mm F2.5

沢の池から岡山城を見る。
RICOH GXR A12 28mm F2.5


2日目(30日)の行程。かつて岡山に在住(小学生の頃、閑谷学校の廊下の雑巾がけをしたそうだ)という連れの同僚によると、かなりハードな行程だったらしい・・・

藤公園・和気神社

閑谷しずたに学校

17世紀に藩校として建てられて、1960年代まで実際の学校として使われたとの事。今もこの講堂は、様々な行事に使われている。こうした建物は、実際に使う事が一番の保存ということか。

旧閑谷学校・講堂
RICOH GXR A12 28mm F2.5

講堂内部 RICOH GXR A12 28mm F2.5

備中国分寺

吉備の田んぼの中に、立派な五重塔をもつ護国寺。 
RICOH GXR A12 28mm F2.5 ← 8まで絞るとセンサーに着いたゴミが目立ってくる・・・

五重塔の内部も公開してくれる。ボランティア・ガイドが装飾の意味について解説してくれてるが、心柱のおさまりが気になる。 RICOH GXR A12 28mm F2.5

吉備津神社

吉備津神社本殿。寄棟が2つ並んだ珍しい建築とのこと。 
RICOH GXR A12 28mm F2.5

長い回廊 
RICOH GXR A12 28mm F2.5

回廊の外観 RICOH GXR A12 28mm F2.5

大原美術館

倉敷の美術館や旧クラボウ跡地周辺の美観地区は、兄嫁によるとテーマパークだそうだ。町並みとか商店街から、人からひたすらお金を絞りとろうとするテーマパーク化する指標は、人力車とアクセサリー売りの露店かなと思った。

美術館付近1 
RICOH GXR A12 28mm F2.5

美術館付近2 
RICOH GXR A12 28mm F2.5

大原美術館・分館。ここに目当ての関根正二の絵があった。 
RICOH GXR A12 28mm F2.5

ここは、30数年前に来た時、あいにく閉館中だった。見たい絵があって、ようやく思いかなったのだが、それはまた別記事にて。

ガリ版伝承館に行ってきた

雨の中休みのような先週・10月1日(土)、東近江市のガリ版伝承館と、西堀榮三郎記念探検の殿堂に行ってきた。

ガリ版伝承館。創業者の堀井家の旧宅とのこと。

ガリ版伝承館。創業者の堀井家の旧宅とのこと。

前者は、以前から気になっていた。懐かしさ半分、それと65歳になったらパソコン・インターネットをやめると公言していることもあって(65歳までに止めること、する事)、自分にとっての原初的な情報発信とか記憶伝承の方法としてガリ版というのもあるかなと思ったりしていた。実際に、鉄筆、ヤスリ、ロウ原紙を目にすると時間のフィルターで淡くぼかされていた記憶が、リアルな感覚を伴ってよみがえる。あの鉄筆でロウ原紙を刻んでいく作業は、指と手首を緊張させ、相応に神経を使う作業だったのだ。それを10代の終わりから20代のはじめにかけて、連日のように繰り返していた。若く、肩こりというものを知らなかった当時だからやれたものの、今ならとても無理そうだ。そのせいで、すっかり癖となった金釘流の文字と重い筆圧というものに、その後ずっと悩まされていた。これは本当に、おもな筆記の手段がいったんキーボードに代わるまで続いた。

「ホリイ」製の謄写版

「ホリイ」製の謄写版



どうも下の記述で、「ホリイ」の謄写版と思っていたのは、当時関西で普及していたという「サカタ」のものだったのではと訂正します。いい加減な記憶でものを書いて申し訳ありませんでした。[2016年10月23日]


なんでも凝り性だった私は、ガリ切り(カットと言っていた)とか、謄写版による印刷(こちらはスットと言った)にも多少のこだわりがあって、通常1000枚刷る事ができれば上出来だったロウ原紙と謄写版で、2000枚慎重にやれば3000枚近く刷ることが出来た。そんな事、今となっては何の自慢にもならないのだが、そうしたこだわりの中で、謄写版は萬古(ばんこ)「堀井」の二つのメーカーのものがあり、使い勝手とか作りの良さとかで、「萬古」のものの方がずいぶん上等に思えた。当時の学生自治会のボックスとか、寮の作業部屋には、たいてい複数の謄写版が並んでいた。「萬古」のものが多数を占めていたように記憶しているが、たまに先客がいる場合など、空いている「堀井」の器械を使った。堀井のものは全体に作りが悪く、快適で安定した作業が出来ない。謄写版というのは、単純な機構のものだが、下の台、ロウ原紙と絹のスクリーンを固定してインクの着いたローラーに押され続ける枠、それを絆ぐ丁番など、相応の負荷を受けながらスムーズに安定した動作が保たれないとリズムよく印刷が出来ない。


当時は、堀井が特許を持っていた創業社だとは知らなかった。むしろ、萬古と比べて品質の落ちる安物の製品しか作れない二流メーカーだと思っていた。そんな事も関係しているのか、堀井謄写堂ホリイ株式会社は、倒産してしまったようだが、萬古は、バンコ株式会社として、今も存在している。加えて、今も鉄筆を販売している。どうも、ペーパークラフトとかネイルアートに使えるらしい。

ガリ切りに使うヤスリ、修正液、鉄筆、ロウ原紙など。

ガリ切りに使うヤスリ、修正液、鉄筆、ロウ原紙など。

ロウ原紙、鉄筆、ヤスリ、ブラシと机の上に並べられていると、昔日の作業環境を思い出すが、一つ足りないことに気付く。当時、スパノールという商品名の薬品を使っていた。それとブラシを使って、ヤスリにこびりついたロウ原紙のカスをこそぎ落とすのだ。これもほとんど必需品と言えた。これは今もある工業用の洗浄剤のようだが、一般には市販されていない(さすがのネット通販でも見ない)。これを今から40年も前に、背広姿のおじさんが夜の大学の怪しげで雑然とした学生自治会の部屋や寮に売りに来ていた。良くしたもので、ちょうど在庫が切れそうな頃を見計らったように来る。今思うと、あの人はいったい何だったのだろう?まあ、それで助かっていたのだからいいのだけれど、不思議な気がする。本来の大学の業務用には、普通に昼間にまとめて納入するだろうから、問屋か小売店の営業マンがノルマの帳尻合わせか、あるいは横流しの小遣い稼ぎだったのか?ほとんど毎日のように大量のビラ類がまかれていた当時の京大なら、我々以外の○○同盟とか、×学同とか合わせるとそこそこの量はさばけただろうなと思う。

会津・さざえ堂 その2 タトリン・「第3インターナショナル記念塔」を先取りしている?

会津さざえ堂のことを教えてもらって、ウエブなどでその画像を見て、たちまちこれはタトリンだと思いました。

ウラジミール・タトリンの第3インターナショナル記念塔というのは、建築やデザインの歴史を勉強した人ならご存知でしょう。その来歴は、今ならウエブを検索すれば、いくらでも出てきますのでここでは割愛します。私はこれが大好きです。一般に、建築のデザインと称するものを私は、ずっと毛嫌いしてきました。建築論と称する自己陶酔的おしゃべりが嫌いだったのか、あるいは、バブルの頃のポストモダン建築、あるいはその亜流の醜怪で無国籍な建物を見せられてきたせいか、まあそれは今はどうでもよろしい。

そんな保守的で、頭の硬い私も、このロシア・アバンギャルドを代表するそれこそアバンギャルドなモデルにずっと惹かれてきました。それがどういうものか、以下手持ちの書籍から図を含めて引用します。

八束はじめ 『ロシア・アヴァンギャルド建築』 P18-19 より

八束はじめ 『ロシア・アヴァンギャルド建築』 P18-19 より

1919年、教育人民委員部造形美術局から芸術家V・E・タトリンに第3インターナショナル記念塔の構想をまとめるように依頼があった。芸術家タトリンは躊躇なく仕事に着手し、構想を練り上げた。(中略)

記念塔の根本的な企図とは建築、彫刻、絵画の各原理の有機的統合に立脚し、純粋な創造形式と実用的形式をそれ自体で結びつけた、新しいタイプの記念碑的建造物となるというものであった。この企図に則って、記念塔案では、垂直軸と螺旋の複雑なシステムに基づいて構築された3つの巨大なガラス張りのブロックがある。これらのブロックは交互に積み重ねられ、調和の取れた関係にある相異なる形態に包摂されている。またそれらは独自のメカニズムによって、それぞれ速度の異なる動きをすることになる。

下のブロック(A)は立方体の形をとり、その軸の周りを年に1回の速さで回転する。立法関係のために用意されたこのブロックは、そこでインターナショナルの大会、国際会議、他の立法に関係する大きな会合を催すことが可能である。次のブロック(B)はピラミッド形で、その軸の周りを月に1回の速さでまるまる1回転し、行政関係(インターナショナル執行部、書記局などの行政ー管理期間)が予定されている。最後に、上の円筒部(C)は日に1回の速さで回転し、情報関係のセンターを目指している。

1920年7月 ニコライ・ブーニン 「第3インターナショナル記念塔」 五十殿利治訳 『ロシア・アヴァンギャルド4 構成主義の展開』より

大きさは別の論述によればイサーク寺院の2倍の高さを持つ(ヴィクトル・シクロフスキイ 『芸術生活』1921年1月 五十殿・前掲書より)とあるから、200メートルを超えるものと想定されていた。今でも、そのあまりの荒唐無稽さにブーニンの論文を読んでも、その構想がにわかには理解しにくい。ようするに傾斜して建てられた鉄柱の周りをさらに螺旋状に鉄が巻きつけられる。その内部にガラス張りの、立方体、ピラミッド形、円筒形の3つの独自の周期で回転する構造体が入る。これらは、どのように支えられる(あるいは吊り下げられる)かは、定められていない。各ブロックもブロックごとに異なる速度に同調した複雑な構造の電動エレベーターだけで、地上とそして相互に結ばれている。(ブーニン)とあるが、これは今ならそうむずかしい事でもないように思う。

第3インターナショナル記念塔の内部の3つのガラス張りの構造体

第3インターナショナル記念塔の内部の3つのガラス張りの構造体

この鉄とガラスと革命から作られた記念塔の構想は、19世紀末からのヨーロッパやロシアで起こったダダイズムなどの芸術革新運動の中でも、空前絶後なものだったようで、政治の革命とともに芸術の分野でもロシア・アヴァンギャルドがその尖りきった最先端にあることを示したようだ。

会津・さざえ堂(旧正宗寺しょうそうじ円通三匝堂えんつうさんそうどう ) その1

先月末、三泊四日で会津地方に行ってきました。メインは、阿部藏之さんの主宰する木の大学講座第12期に参加するためでしたが、一泊追加して会津さざえ堂に寄ってきました。ここは、会津地方に行くと話したおりに、それならば是非ここを訪れるべしと、私の大事な友人に薦めてもらっていました。

会津さざえ堂(側面)

会津さざえ堂(側面)

らせん状の回廊の外観

らせん状の回廊の外観

さざえ堂というのは、1970年代に詳細な調査をされた日大理工学部の小林文次教授によれば以下の通りである。小林教授たちによるここの計測調査の図面が受付で販売されており、それに付属するコピーによります。

もともとさざえ堂(三匝堂)は、観音札所順礼という民間信仰に基いて案出されたもので、江戸本所の羅漢寺に案永9年(1780)に造立されたのが最初であった。このさざえ堂は方形プランで重層、内部は三階で各層を秩父、本国、両国の各札所にあてて、計100体の観音像をいれた順礼観音堂であった。惜しくもこのさざえ堂は明治初年に取り壊されたが、この建築様式の系統をひくさざえ堂の例は、曹源寺(群馬県太田市)、長禅寺(茨城県取手市)、成身院(埼玉県児玉市)などに現存している。これらに対し、本堂は六角塔の形式をとり、中に二重のらせん状の斜路を組み合わせ、それに沿うて西国三三観音像を安置したもので、建築計画の上からみて誠に卓抜したものというべきある。この構成は、新編会津風土記のいう漸々にのぼり・・・・・・漸々に降りてに当り、遺構の上からも創立以来の計画とみて間違いない。これはさざえ堂としても、またわが国の仏道建築としても稀な構想で、機能にかなった、合理的な設計である。材料や技術の上で難はあるものの、江戸時代における建築計画上、極めて価値ある例と思われる。

小林文次『羅漢寺三匝堂考』日本建築学会論文報告集 第130号、昭和41年12月

堂内のスロープ 登り

堂内のスロープ 登り

堂内のスロープ 下り

堂内のスロープ その2

さて、実際に正面から右回りに緩やかならせんの回廊を登っていく。頂上付近で登りつめたと思うと継ぎ目なく今度は下りの勾配となって、裏側の出口に繋がっている。その回廊と心柱の間に板をひいたスペースが、そこかしこにあり、そこに祠が設けられて観音像が祀られていたのだろうか。小林教授の別の記事(『朝日新聞』1972年11月20日夕刊)には、両方のスロープにそって、中心部にもとは三十三の西国札所の観音像が配され、上り下りの一巡によって、西国観音札所の順礼を終えるという、いわば庶民のための即席の順礼観音堂であった。スロープを用いたのは、参拝しながら上り下りする時の、足もとの不安を除くためであり、二つのらせん状のスロープを組み合わせて、堂内の参拝路を一方通行にしたのは、堂内の参拝者の流れをスムーズにさばくためであった。ともあります。

たしかに、そうした実用上の必要性とかがあっての構造なのでしょう。しかし、実際に登ってみて、もうそこには観音様は祀られていないにも関わらす、なにか異次元の空間というか別の世界に入ったような感覚となりました。そのことが、そもそも信仰により参拝した当時の人たちに、他にない神々しさとか宗教的感興を喚起させたであろうと思います。

修了試験でした

今日は、初任者研修の修了試験でした。欠席なく講座を履修した6名に受験資格があり、やむなく欠席のあった2名は補修を受けた後、来期の講座で受験ということになるそうです。

結果は、受験した6名全員が合格。しかもほとんどが満点に近い点数だったそうです。試験そのものは、落とすための試験というより合格させるための試験という感じでした。一つの問に5つの文章があり、その一部分が空欄になっています。そこに、5つの選択肢としてあげられた言葉を埋めるという形式です。引っ掛けの逆で、意味が多少曖昧でも文脈だけから判断しても、合格ラインの7割くらいは回答できそうな問題です。

対策も手厚く、試験の前日には試験問題と5つの選択肢そのものを、講師が読み上げそれを受講生がメモするという答え合わせのような事もやってくれます。それでも、41問×5→205の文書を読み上げメモするだけで正味4時間、けっこう大変でした。試験の意味がないと言われそうですが、それは試験というものを、選別するもの、ランク付けするもの、振り落とすもの、という固定観念からくるのかなと思いました。205例の文章は、それぞれが授業でやられた介護の理論と実践に関する大事な内容で、それを試験というイベントを通して繰り返し耳にして、自分でも書き写すことにより、自ずと体に染み込ませることになりました。講座の最初の頃に提出させられた、ほとんど教科書を丸写しのようなレポートも、そうした意味があったと思います。

さて、昨日帰りに寄った「つたや」さんには、かりんとうまんじゅうが残り9個。明日は定休日だそうで、明後日は講座は休み、最終の金曜日は自転車ではなく電車にするつもりなので、これが最後になります。ちょうど受講生と講師合わせて9人なので、皆さんにお配りしました。色々話題にしたり、地元の人に尋ねたりしたこともあって最後に穴埋め出来たように思いました。

こちらは、一号線沿いにある立派な木造建築のお菓子屋さん。こちらは縁がなかったというか、またの機会に。

桑名益生、1号線沿いにある御菓子処 和(かず) GXR A12 50mm

桑名益生、1号線沿いにある御菓子処 和(かず)
GXR A12 50mm

食べるということ

今日は、食事介助の講義と実技でした。昼には、受講生同士がペアになり実際に夫々が用意した弁当をお互いに食べさせ合います。食事介助の実習というより、人に食べさせてもらうことがこんなにも辛く切ないという事を、利用者(被介護者)の立場になって実感するという事に狙いがあったようです。

自分で作った弁当が、全然美味しくなく、食事自体が少しも楽しくありません。いくら優しく気を使ってもらっても、他人に食べ物を箸やスプーンを使って口に運ばれるだけで、食べることが苦痛になります。自分のペースで、自分の望むものから、自分の欲する量だけ、自分で口に運ぶ。こうした当たり前すぎる行為が、実は食事を楽しむということの前提なのだと思いました。それと、コップからお茶を飲ませてもらうという事は、恐怖です。コップが傾けられ、どれだけの量のお茶がどのタイミングで口に注がれるのか、いくら声かけをしてもらっても、なかなか感覚的につかめません。いわば海で溺れて水を飲んでしまうような恐怖感があります。これに比べれば、楽のみというのは、介助はしてもらっても自分で吸って飲む形になるので、なるほど良く出来ているとあらためて思いました。弁当の残りは、普通に自分で食べましたが、そのありがたいこと楽しいこと、美味しいこと。あらためて普通に自分でご飯を食べることの出来るありがたさを感じました。

今は、1体1でお互い受講生同士ゆっくりと気を使いながらやってもらってもこんなふうに思ってしまいます。これが、実際の介護施設では、何人もの利用者を相手にしながら時間の追われながらになります。いくらプロの介護者であっても食事は辛いものになりかねません。

母親が亡くなる年(去年)の3月に、背中の圧迫骨折をやって、大変に痛がって食事を摂らなくなった事がありました。心配して私や伯母がしばらく詰めて、食事の介助をしましたが、強く拒絶されました。無理に一口二口、口に含ませると怒り出します。ベテランの職員に代わってもらっても大差ありません。その時は、圧迫骨折による痛みのせいか、あるいはそれにより認知症が進みわがままがより高じたせいかとか思っていました。その頃には母親は摂食・)嚥下(えんげともかなり弱ってはいましたが、まだ食事と排便は自分で出来ました。それが骨折による痛みもあって体が動かせなくなり、他人に食事の世話になる。今日のわずかの経験で、あの時母親が他人の介助による摂食をあんなに頑なに拒絶した気持ちが今さらながら分かりました。ほどなく痛みは残るもののなんとか摂食できるようにはなりましたが、以降急激に体が弱り始め表情も乏しくなり、11月には誤嚥性肺炎で亡くなります。一時的にしろ食べること、排泄を他人に頼らざるをえない状態になったことが、いくら認知症を患っていたにしろ生きる意欲のようなものを奪っていったのだろうと今は思います。

前の記事で、現に家族を介護している人は、あらためて介護について学んだりする気にはなれないなどと一般化して、偉そうに書きましたが、あれは私自身のことを言っているのに過ぎなかった。今日、食事介助のペアになってくれた人と色々お話をさせてもらいました。彼女は義理のお父さんを看とっています。それに今は認知症の実の母親の介護をしているそうです。その過程で色々ひどいことも言われ、嫌な目にもあっているだろうことは何となく分かります。それはね、経験者同士お互い様なんです。ご主人も今、ご自身が腹膜透析をしながら介護の現場で働いているそうです。それもわざわざ転職して。彼女も近々開所される訪問介護センターで働くことが既に決まっているとのことでした。

なんでわざわざと思ってしまいます。他の受講者の皆さんを見ていても思うのですが、単に経済的な問題なら、他に割のいい仕事はあるでしょう。一方で、例えば今日でも摂食障碍・嚥下障害について講師の施設での実例を含めて勉強して、実際に介助による食事を体験して、もうこんな事になるのなら生きていたくないなと、思っている自分がいます。そんなことを少しでも考えている人間に介護なんてされたくはないでしょう、誰だって。するとなんでお前はここにいるんだ、という事になり凹みますが、もうあまり深く考えないことにします。

東海道沿いの瀟洒なモルタル造りの洋館。社屋として使われているらしい。 GXR A12 28mm

東海道沿いの瀟洒なモルタル造りの洋館。社屋として使われているらしい。ヒマラヤ杉とツタが建物によく合っています。
GXR A12 28mm

介護職員初任者研修講座、実技に入っています

講座は、実技中心となり体位・姿勢の変換(起き上がり、寝返り)、着替え、車椅子のでの移動、ベットから車椅子への移乗などの介助を、お互いをモデルとして行う。私は、それらの事を3年間ほどもやっていたのだが、結局見よう見まねの力任せでやっていたことにあらためて気づく。

現に家族を介護している人は、あらためて介護について学んだりする気にはなれない。それは当事者として常に目の前にある現実であって、出来れば一時であってもそこから逃れ忘れたい。それを知らない第三者からきれい事の美談めいたものを押し付けられたりするのは苦痛でしかないし、一歩ひいて技術として考え習得しようとする精神的かつ時間的な余裕もない。自分に対する言い訳も含めて、それが家族介護者の現実ではないかな思ったりする。

ただ、真面目に親とか家族・親族、あるいは地域での、さらに大きく言えば日本の将来の事に少しでも思いをはせる事が出来るなら、介護の問題を考えてそれに備えることは可能なんだ。講座に参加している他の人の話を聞いてそれは思った。最初のガイダンス、講師ごとになど都合3回ほど受講者同士の自己紹介があった。私も含め9人(女7人・男2人)、皆さん相応の社会人だ。2日に1度顔を合わせる事で気心も知れてきた。皆さんの介護職員初任者講座を受講し、資格を取ろうと思った動機などをあげてみると

  • 定年退職を前に、今後の社会参加のために今必要とされている事は介護ではないかと考えた
  • 介護施設で食事を作る仕事をしているが、施設の介護職の人の働きぶりを見ていて、私もやりたいと思った
  • 公務員を早期退職して次の仕事として考えている
  • 子どもが入園して少し手を離れたので、もう一度社会参加をしたいと思った
  • 義理を含めて4人の親が健在で、やがては直面するであろう介護に備えて

などなど。皆さん、きちんとした生活者としてまずは直近の将来に対して、社会との関わりを含めて真面目に考えている事に頭が下がります。別に定年退職したら趣味の世界、それまで出来なかった自分の世界に没頭してもいいじゃないですか。子育てが一段落したら、ママ友とランチしたりとか少し息抜きをしてもいいと思います。私は、母親がボケだしたと聞いた頃も、苦労をかけさせた父親が今度は責任を持って面倒を見ろよとは思っても、自分の事としては考えていませんでした。他の受講者の皆さんの話を聞いていて、これまでの50余年、結局自分のことばかりを考えて生きてきたなあとは思いました。

週3日、講座があるので基本、土日も仕事をしています。そのせいか、はたまた往復26キロを自転車「通学」をしているせいか体のほうはヘタリ気味です。夕方、食事を摂ってそのまま一旦寝てしまうという高校生の時以来のざまも何日か。今日昨日もそうでした。自転車通学のほうは、通う楽しみにもなっていますので、やめられないなあ。画像は、途中1号線沿い員弁川近くにある素敵な2階建ての木造の洋館。地元の人に聞くと2〜30年ほど前までは開業していた医院だそうです。今でもきちんと手入れされています。

旧武藤医院1 GXR A12 28mm

武藤外科医院1
GXR A12 28mm

旧武藤医院2 GXR A12 28mm

武藤外科医院2
GXR A12 28mm

ノキシノブ

昨日は、城下町ウォッチ→城のある山へ登頂→おいしい食事 という粋で中身の濃い休日を企画してもらいました。ありがたくも嬉しいことです。58才となりました。途中からの雨もご愛嬌。晴れ男、晴れ女をそれぞれ自認してるものがバッティングするとお天道様がウザったく思って雨を降らすのか、なぜか雨が続きます。不思議なものです。

待ち合わせの前に、19の春に今はもう亡くなった叔父に連れられて歩いた所を覗いてみる。39年ぶりということになる。そこで見かけたもの。コンクリートの軒端(のきば)のしのぶということかな。

コンクリートに生えたノキシノブ

コンクリートに生えたノキシノブ GXR A12 28mm


百敷ももしきやふるき軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり

家にも百人一首のカルタはありましたが、もっぱら坊主めくりをするばかりで、歌などなにも知らなかったと思います。学校の古文の授業で習ったのでしょうが、私はこの歌がなぜか気に入って諳んじていました。ももしきモモヒキと読み替える子供らしいいたずらではなくて、下の句のなほあまりあるむかしなりけりという調子の良い語呂が気に入っていたような記憶があります。

sinobugusa2

裏をさらけ出されてしまった問屋街 GXR A12 28mm

再開発?

再開発? GXR A12 28mm