油ふ味噌汁

登米で買った油ふと石巻で買った味噌で、味噌汁を作る。住田町の旅館と登米の郵便局員の及川さんのお宅で頂いた味噌汁がおいしかったし、祭りの中、登米の定食屋で食べた油ふ丼もいけた。

味噌は、いかにも塩分が多そうだったので、かなり薄めに溶いたつもりだったが、それでも塩辛い。毎日続けると確実に血圧があがりそう。あちらでいただいた時はそうも感じなかったのだが、やはり食材というのは、その風土の中で食すべきものなのだ。しかし、これだけでご飯がじゅうぶんいただける。味噌も油ふも相応に日持ちしそうなのでおかずに困ったとき良い。

ちなみに、私は料理が好きで三食自炊を基本にしている。食材も、調理法も別にこだわりはなく、普通にスーパーで売っているものに簡単に火を通し、またそのままいただいているだけだ。ただし、出汁はちゃんと自分で取るのと、味噌や醤油は地元産の少し良いものを求めている。遠方に行ったときも、特に名物と言われるような物は求めないが、今回のように味噌とか醤油などを目にすると買うことにしている。野菜などの食材も含めて画一化してきていると言われて久しいが、こういたものはまだまだ地方色がそれぞれ濃く残っている場合がおおく楽しい。しかし、結局は普段は地元の味噌と醤油を使っている。やはりそれが、この土地にあっているし、体がそれに慣れているのだろう。

東北で買った材で作った油ふ味噌汁

被災地からのメール

3月にボランティアに入ったお宅の人からメールを頂く。偶然このホームページを見つけてくれたとの事ですが、もちろん名刺を置いてきたわけでもなく名乗ってもいない。どこからと問われて、三重から来たというのはお答えしたような記憶がある。しかしこのページにはボランティアの報告記事はあるが、私の容姿など伺える物はイラスト以外ないし・・・と、良く見つけて下さったことだと思う。

当時私たちが浸水した家財道具や畳を運び出した周辺の道路の画像が添えられていた。当時はそうした家具や畳、家電製品であふれていたが2ヶ月たってきれいに片付けられているのに驚いた。ただし、メールには2カ月過ぎても、何をどうしていいのかわからない状態です。ですがここで生活していくしかないので、まぁ、なるようにしかならないかぁ。。と思って日々過ごしてます。。メールを下さったSさんは、ボランティアに入ったご家庭の中ではずいぶんお若い女性でしたし、被災後10日あまりの早い段階でボランティアを依頼されるなど気丈な方とお見受けしました。それでも震災後の喪失感や絶望感というのはそこに暮らす人にしか分からない深いものがあるのだと思いました。早いものですでに現地に行ってから2ヶ月となります。当たり前の話ですが、そこで暮らす人の生活は続いています。早い段階でもう一度自分のできることを決めて現地に行きたいと思いました。

石巻駅前北通り3丁目周辺

被災者の方が送ってくれた自宅周辺の様子

民間ボランティアの意味

活動の拠点とした石巻ボランティアセンター(石巻専修大学)の近くに総合運動公園があり、その広大な敷地が自衛隊の駐屯基地となっていました。他にも消防なども入っていたと思いますが、敷地一面自衛隊の黒っぽい緑(オリーブドライブ)の車両が並んでいます。ボランティア活動に出向くにはその周辺の道路を通らねばならず、その光景を毎日見ることになります。立派で頑丈なテント、大きな発電機や証明、通信用のアンテナ、そうしたものと我々民間のボランティアの民生用の粗末なアウトドア用品やちゃちな車を比べると彼我の力量差というのを意識せざるをえません。

石巻総合運動公園の自衛隊

専門知識や特別なスキルは必要条件ではない

特に医療とか介護、あるいは土木や建築といった専門的スキルのない民間の人間の出来ることなどあるのかなどと思ってしまう人もいるでしょう。結論から言うと、出来る事というか求められていることは広範囲に膨大にあります。我々もやった民家のヘドロかき、家財道具の整理処分はたいへん地味で辛い仕事ですが、今もというか梅雨を迎えようとする今こそ緊要な作業だと思います。下水の回復に時間がかかりそうな中で衛生面でこのままだと大変なことになります。木工屋がわざわざ泥かきかいとかの陰口が聞こえてきそうですが、そうした中でも私たちのこれまでの業務上の経験が確かに役に立っていました(ボランティア活動の概要報告・活動内容)。どんなお仕事であれ真面目に取り組んで来た職業上のスキルやノウハウは、どこかできっと役に立ちます。もちろん主婦・主夫は家事や育児の総合プランナーであり実践者です。被災地では一番貢献出来ると思います。また本当に出来ることがたとえなくても行くことに意味があります。

行くだけで意味がある

たとえとして適切かどうかわかりませんが、あえてあげてみます。私たちが怪我か病気をして入院します。誰かが見舞いに来てくれます。たとえ現金や他のお見舞い持参でなくても来てくれるだけで嬉しいものですね。自分が弱っているとき困っているとき、自分は忘れられた存在ではなく、来てくれる人がいるというだけで本当に励まされます。私もボランティアに入って実際の作業ももちろんですが、たとえばどこから来たかと問われて、三重県からと答えるとわざわざ遠い所からとその事自体に感謝というか本当に感動すらしてくれます。病人が見舞いに来てくれて病状を聞いてくれるだけで嬉しいのと同じです。行くだけで、被災の現状を目撃して被災者の話を聞いてあげるだけでいいと思います。私が認知症の母親の介護の初期、ありがちな物盗られ妄想を発症した母親から連日泥棒扱いされていました。3ヶ月も続いたでしょうか?ストレスがたまり血圧がかなり危険な数値まで上がり辛い時期でした。そんなおり、病状説明などの際ケアマネージャーさんや看護師が、辛かったですね!と一言いってくださるのにずいぶん助けられました。おそらくはそうした家族介護者に対するマニュアルとなっているのでしょうが、本当に助かりました。安易な類推と言われるかもしれませんが、あなたも避難所に行ってなにも出来なくても、被災体験や避難所での不自由の訴えに黙って聞き入り、辛いですね!と声をかけるだけでもたくさんの人の力になれるでしょう。

物見遊山で良い

お叱りを受けるのを承知で、あえて不埒な言葉を使っています。同じ日本のある広範な地域で起こった事態とその後の状況を、やはり一度は自分の目で見ておくべきです。特に若い人は、これから何十年か日本の歩みはこの現実を抜きにしては考えられません。皆が皆、大きな事を語る必要はありません。たとえば復興財源が話題になるとき、自分が見た被災者の涙やうかがった話を思いだし、目の当たりにした沿岸の被災の状況が青森から茨城・千葉まで500キロも続く事を思い浮かべるなら、テレビのキャスターや新聞の論調の受け売りをしているくだらないオッサンやオバサンとは違う観点が持てる、持たざるを得ないでしょう。詳しくは触れませんが、エライ学者やテレビのキャスターのように大名行列のように全部人任せで入るのではなく、交通手段から燃料、食料や寝場所を探して現地に入ることで見えてくる被災の別の面もたくさんあります。それに、いったん現地に行ってその惨状を見たら居ても立ってもいられずにボランティアセンターに駆け込んで仕事を求めることになると思います。

被災地に行こうとする人の邪魔をすることだけはやめよう

ボランティアに行く前から、また帰ってから何人の私も本当は行きたいに会ったでしょう。またそうした記述のブログもいくつ見たことでしょう。

私も被災地にとんでいきたいくらいだ。だが・・・・・・。だから今は義援金を寄付することくらいしかできない。

この・・・・・・には、もっともらしい色々な文言がはいります。

今は行っても逆に被災地に迷惑がかかる

→ さて、あなたの心配していた頃とは状況が変わりました。さあ今こそあなたの出番ですよ。なぜ行かないのですか?

今は自衛隊や消防など救援のプロにまかせるべきだ

→ あなたは何のプロですか?木工屋さん?○○屋さん?避難所での生活が1ヶ月を超える中で、瓦礫の除去やライフラインの整備以外にも、避難所であなたのプロとしての技を求めている人はたくさんいますよ、きっと。不思議ですね、なぜいかないのですか?

・・・・・・にはいるもっともらしい理由はいくつでも思いつくでしょう。

私は、皆が皆現地へ行けとは言っていません。家族や職場を守る、また今の仕事を一生懸命やりとげることで日本の復興の下支えをする。これはきわめてまっとうな考え方です。多くの人は様々な報道に接しながら、頭を垂れてそう思って働いていると思います。(ただ、中国の文革時の下方のように学生や若い労働者が交代ででも被災地に行ってボランティアをするというのが民間の運動としてやられたりしたら面白いなとは思います。)ただし、そうした多くの善意の人は私も行きたいと本当は心から思っても、じっと噛みしめているはずです。私はそうした真面目な生活者、職業人を尊敬しています。

上にあげたような今は迷惑だとか自衛隊に任せて・・・とか主張する人は、本当は自分が行かない理由を探しているのです。でもそれが、面倒だからとか、危なそうだからとか、お金がかかりそうだから、では格好が悪い。それで、私は今すぐ現地に飛んでいきたい熱いハートを持っているんだ。だが、今は行っても迷惑だから行かない・・・となるのでしょう。ただそうして自分だけ納得していれば良いのに、この人たちはボランティアに向かおうとする意欲を持った人たちにお説教を始め、その足を引っ張ります。この迷惑論は、震災直後からしばらくの間ずいぶん広く流布したように思います。ただし多くのデマと同じでそのソースがはっきりしません。少なくとも被災者や救援活動に直接あたる人の言葉として報道された記憶はありません。迷惑論を主張する人に、そのソースは何だ?どこから聞いた?と尋ねるとたいていは口ごもります。ようするに自分を合理化する風説に乗っかかって、また広めるというデマやチェーンメールと本質は同じだったと思います。私がそのことに気がついたのは、杉山裕次郎さんの震災ボランティア隊を結成して被災地に行くという記事を読んで、自分も行くと決めてからです。それまでさしたる根拠なく頭にあって自分を変に納得させていた迷惑論がすっ飛んで、現地からの報道の見方・聞き方が一変しました。被災者の声は悲鳴ではないか!なぜお前にはそれが聞こえなかったのだ。だれが迷惑だなんて言っているんだ?

江頭2:50さんが、いわき市の介護施設に物資を届けた動機について、NHKの報道を見ていわき市から助けを求める声が聞こえてきたとおっしゃっていました(「江頭2;50のピーピーするぞ!」第135回 東日本大震災)。てれもあってか独特の言い方をされていますが、その時の心境はよくわかります。エガちゃん!助けて!という声が、本当に心の中で響いたのでしょう。江頭さんは他の地道な活動を行っているボランティアに対する賞賛や風説に対する批判など適切で真面目なコメントをしてます。私が行った頃は福島原発のメルトダウンが現実の可能性として考えられたし、余震もまだ頻発してました。正直に言うと多少やばいかなあという思いもありました。それでも石巻にはそうした風説にかかわらず既に現地に入っているたくさんのボランティアの若い人が集まっていました。やはりこの国の将来は、様々な風説や障害にもかかわらず自分の思いに忠実に行動する柔らかい頭と良く動く体をもった若い人のものだと思いました。我々中高年は、自己防衛のためもあって自分の不作為や怠慢を合理化して納得させるような思考回路を知らず知らずに身につけてしまっています。残念ながら私もそうしたいやな大人の一人になりました。でも、それで自分一人ひそかに納得するのは別にかまわない。ただ、若い人の意欲や、意志や、行動を邪魔したりそれに唾するようなことだけはさけたいと思います。


被災地に赴いてちょうど一ヶ月が過ぎました。ライフラインの復旧などは徐々に進んでいるようですが、まだ一万人を超える行方不明者が存在しており、避難所での生活も続いています。一方で、私のこの拙い場末サイトの震災関連記事でもボランティアに参加しようとする人へは、今はもう内容的に若干古いところもありますが、連日100を超えるアクセスがあります。それだけボランティアに赴こうとする人がいるという事でしょう。私自身は今はもう一度現地に行く広い意味での体力がありません。しかし、もう少し長い目で見た支援の仕方で計画している事もあります。またその際はあらためて報告したいと思います。

とりあえずボランティア活動の報告に関する記事はこれでいったん区切りとします。

若い同志
それじゃきくが、古典理論家達は悲惨がまちかまえていても目をつぶって我慢するのか?
3人のアジテーター
古典理論家たちは、この悲惨を全体としてとらえる方法について語っているのだ。
若い同志
それじゃ古典理論家達は、ありとあらゆる悲惨にたいして直ちに何よりもさきに救いの手をのばすことには反対なのだね?
3人のアジテーター
反対だ。
若い同志
それならそんな古典理論家は屑だ。

ベルトルト・ブレヒト/岩淵達治訳 『処置』

4月22日 少し前に55歳(昔なら定年退職)になりました。この事態になかなかついていけません。

被災地の民生委員

現地での活動の3日目と4日目は蛇田地区での借家の後片付けでした。3軒のお宅でしたが、内2軒は中高年の女性の一人住まい、1軒は母娘のご家庭でした。ボランティアセンターへの依頼はその地区の民生委員の曽根さんという方を通してでした。

蛇田地区での後片付け

その曽根さんは、所用で離れる以外は二日間ずっと我々と一緒に作業をされていました。職場をリタイヤされてさほど時も経っていないという風情のたいへん実直で真面目な方でした。作業二日目の午後、そろそろ完了の目処がついた頃曽根さんと立ち話をする機会がありました。ご家族は御無事でしたかという問いに対して、以下のようなお話をされました。

地震が起きたとき、自分の娘の家には2人の孫の他に3人の別の子供が遊びに来ていた。その5人の子供達を車に乗せて高台に避難しようとしたが車が渋滞で動かない。津波が迫って車に浸水してきたので、急いで5人の子供を車の屋根に乗せてそのまま6時間水が引くのを待っていた。ようやく水が歩けるくらいまで引いたので、子供に手をつながせて避難した。夜になり全身濡れていたので、そのまま知らないあるお宅で夜を明かさせてもらった。

結局、娘さんの安否は丸一日不明だったそうですが、曽根さん自身は民生委員として地区の独居老人の避難とかに忙殺されていたそうです。この話も別に自慢たらしくされたわけではなく、こちらが話を向けると淡々となされたのです。それでも、この親にしてこの娘ありですねと言うと、少しだけ照れたような笑顔を見せていただきました。

もちろん私は普通にボランティアに行っただけで、取材とか調査に入ったわけではありません。でも被災地には当たり前ですが、現にご家族が行方不明の方(被災地であった老婦人)、日常の生活では考えられない状況に遭遇した時の献身や勇気や自己犠牲、そうしたものを普通に見聞きするのです。だから一度被災地に行ってみろというのは、ひんしゅくかもしれません。でも私はそれでもいいと思ってますが、それはまた論を改めます。


ちなみに上の画像に写っているのが、この住宅の被災者のKさんです。いつも作業中はこの茶色のコートに黒い毛糸の帽子にマスクをされているので、お顔はよく分かりませんでした。二日目の昼食時は民生委員の計らいもあって、ほど近い皆さんが避難されている会館に案内されました。そこで、あらためてこのKさんのコートを脱ぎマスクや帽子を取ったお姿を拝見しました。お年は杉山さんより少しだけ上とのことでしたから、もう60代半ばということですが、こざっぱりした身なりに髪などもきれいに櫛がいれられてとても若々しいお姿に驚きました。ずっとあの茶色のコートのオバサンという印象がありましたから。

自分が使ってきた家財道具のほとんどすべてを自分の手で処分しなければならないというキツイ状況の中で、それでも少しでも前向きにボランティアの手を借りてでもやろうとする。ある程度以上の年齢の女性が、どんな苦しい状況でも前に出ようとする時はそうして自分を粧うということは大事な儀式というか通過儀礼のようになっているのかもしれないと思いました。逆にそうする事によって、一歩前に出られるのか男の私にはよく分かりませんが、大事なことであるなとは感じました。もうこれも良く言われてきている事ですが、避難生活が一段落してくるとカップラーメンやレトルト食品、毛布に与えられた洋服だけでは、人は生きていけません。よりこまかいケアが必要だと私も思います。で、もう少し後になってしまうのですがある計画を持ってもう一度被災地に出向きたいと考えています。

被災地・雄勝町の光景


他力とは野中に立てし竹なれやよりさはらぬを他力とぞいふ

良寛歌集 911 東洋文庫 

被災地に赴いて二日目の早朝視察に出かけた石巻市雄勝町の惨憺たる情景を思い起こすと、この良寛の歌が浮かんできます。
瓦礫の中の折れた垂木の残材か流れ着いた篠竹を拾い上げて、また瓦礫の中に刺して立てる。この現実の中で、自分の存在というのはその程度のものではないか。

石巻市雄勝町

阪神淡路大震災の時も、地震の2日後から被災地に入りました。西宮、芦屋、神戸、伊丹と歩いて回りました。その時に感じた衝撃や悲しみとはまた別の、文字通り言葉を失うような寒々しい絶望感に打ちのめされていました、この光景の中に身を置いて。阪神淡路の時は、確かにビルは傾き、木造の家屋は壊れ、鉄骨モルタルの家は倒れていました。火災の煙もまだくすぶっていました。でもそこにはかつて建っていたであろう家や、そこでの生活を具体的に連想できました。それゆえに悲しみも悔しさもより直接的で、不遜な言い方になりますがまだ私たちの日常の中で共有できるように思われました。

石巻市雄勝町

この光景からは、確かにかつてそこに存在したであろう町並みや家々やそこでの人の生活を思い起こすことが出来ませんでした。わずかに残った鉄筋コンクリートのビルや山際の民家、しかもその3階建てのようなビルの屋上に大きな船が乗っています。コンクリートのベタ基礎の跡からそこに何かが建っていただろうとは分かります。しかしその他は瓦礫や壊れた車やひっくり返った船など散乱する様が見晴るかす尽きるともなく続いているのです。なにかとてつもなく巨大な生き物がいて、海から入り江に沿ってこの山間にいたるまでその大きな舌でなめずり回していった、津波というのはそうした恐ろしい物なんだとこの時あらためて思いました。

石巻市雄勝町


さて、冒頭掲げた良寛の歌は、引用元の東洋文庫 556にはこの歌、法然の作なりとの説あり、しばらく掲ぐとしたうえで、下記のように解説されています。

他力とは何ぞと訊かれて答えた口吻。他力とは例へば野中に立てた竹のようなもので、すべてのはからいを捨て去り、おのづからの仏心をあるがままにうちまかせた状態だというのであろうが、よりさわらぬには一般他力の通念への犀利な批評が含まれてゐるかとも思ふ。

なにが言いたいのかさっぱり分かりません。野中に立てた竹が、なんでおのづからの仏心をあるがままにうちまかせた状態のたとえとなるのでしょう?どうやらこの歌には本歌があって、それは道元の他力とは野中に立てる一つ松寄り触らぬを他力とは言うがそれのようです。別に本歌取りというのは、和歌の世界ではごく普通に行われている手法ですし、宗派の開祖である道元の歌を良寛が本歌取りしても怪しむに足りない。ただし、ここでは良寛は道元の歌をパロディにして、その正反対の事を歌っているようです。いやしくも自分の宗派の開祖の歌に対して良くやるなあと感心してしまいますが、そこが自らの信心以外には何にもとらわれない自由人にして真の宗教家たる良寛の面目躍如といったところでしょう。

道元の歌とされている歌の意は、もうそのもの明らかでしょう。他力、つまり仏や如来の本願力によって生きるということは野中の一本松のように揺るぎなく、何にも頼ることなく寄りかかることなく自立したものだ云々。それに対して良寛の歌は、なあに仏の本願力に生かされていると言ったって人間の存在なんて野中に突き刺した竹のようなつまらない弱々しいものさ(ちょっと風が吹けば倒れちまう・・)と言っているように思います。良寛の歌というのは、強烈なアイロニーと時に宗旨すら否定するかの自己否定を含みながら、逆に現実に生きる人の存在を優しく肯定するような視線を感じます。この歌の場合も、開祖道元の歌を皮肉りながら、別に野原に刺しただけの竹のような弱々しい頼りない存在でいいではないか語りかけてくれているように思います。


実際にこの目で見て、その中に身を置いた被災地の現実に対して自分はどういう存在なのか、その事を自分の言葉で語れないのだと思います。テレビでは色々な歌手や俳優や、タレントと呼ばれる人たちが信じる!とか頑張れ!とか言っています。まあそれも仕事のうちでしょうが、実際に被災地の現実を見れば簡単にあんな事は言えないように思います。それなら、トラック数台とタンクローリーまで引き連れて炊き出しを行った杉良太郎さんや体を売るしか出来ないからと自分でトラックを運転していわき市の老人ホームに物資を届けた江頭2:50さんの方が立派だと思います。振り返って自分は、ということになるのですが、それこそ被災地の瓦礫に刺された残材の垂木か流れ着いた笹竹のようなものに過ぎない。しかし、現地に刺さった、一度でもそこに身を置いた、とりあえずそれだけでいいんではないかという言い訳を、良寛和尚は与えてくれるように思います。

被災地で会った老婦人

支援活動を始めて3日目の早朝、海岸部を含めた石巻市街地が一望できるという日和山に登りました。テレビなどで流された石巻の津波の画像の多くはここから撮影された物のようです。

山から下りて車を停め、旧北上川沿いに走る県道7号線界隈を視察しました。ある交差点で一人の老婦人を見かけました。下の画像はその交差点から北側を撮ったものです。すっかり津波による瓦礫に埋もれていますが、画像の手前左下側から中央部にかけて県道7号線が走っていました。

県道7号線石巻中央1丁目交差点から見た被災地

Googleのストリートビューで、震災前のほぼ同じアングルの画像を見ることが出来ました。

google streetの画像

大きな地図で見る

この通りの奥に、ご婦人がご主人と営んでいた旅館があったそうです。反対側の交差点の方が近いのですが、そちらもやはり瓦礫で埋もれて近づけないのでこちらに回ってきたという事でした。震災当日、ご主人はデイサービスである施設に行っていたそうです。地震の後、津波を避けるため施設からは6台の車に分乗して避難したそうですが、うち避難所に無事たどり着けたのは先頭の1台のみであとの5台は津波にのまれてしまったそうです。ご主人はそのうちの1台に乗っていたもようで、それ以来安否不明、ご自身は市役者の3階の避難所に待避しています。経営していた旅館を見に来たのは、近くの商店街の知人たちなら何かご主人の安否情報を持っていないかと思ってだそうですが、残念ながら道路は画像のような状態で近づくことも困難です。

現地で合流し当日まで一緒に活動していた佐々木康介君(26歳ニートが社会復帰を目指すまでのブログ)が、自分のスマートフォンを使ってネット上の安否確認サイトで調べはじめてくれました。しかし、ご婦人には娘さんがいて一緒に安否確認をしてくれていると聞いて、佐々木君に検索をやめてもらいました。佐々木君も意図を即座に理解してくれたようです。震災からすでに12日がたち、もし確定した安否情報がもたらされるとしても、それは良い情報ではないでしょう。それにそうしたネットでの検索・調査などは娘さんがやっているでしょうし、もしかしたら情報を得ていてお母様に伝えるタイミングをみているということも考えられます。

穏やかにお話をされるご婦人の目は潤み、左の目からは涙があふれていました。なにか困っている事はないか水や食事は足りているかと聞くと、避難所では食事も出るし特に困っていないと答えてくれます。しばらく間をおいて、市役所(避難所)から歩いて来たので喉が渇いたのでお水をいただけないかと遠慮がちにおっしゃいます。すぐに車に戻って、ペットボトルの麦茶と出発時に伯母から預かった和菓子の詰め合わせの箱を渡しました。こうしたこともあろうかと思って常に車に積んでいたのです。そういえば、そのご婦人は私の母親や伯母(母親の姉)と同世代の方のようです。この事を戻ってから伯母にも報告しましたが、お菓子は文字通りこのご婦人のために預かったような不思議な気持ちになりました。

さて、これは避難所で皆さんと一緒に召し上がって下さいと手渡すと、すこし驚いたように見ず知らずの方にこんなに親切にしてもらって申し訳ありません。とそれはそれは丁寧にお辞儀をされました。おそらくは戦争や戦災も経験し、それでもこれまで一生懸命働いて日本を支え我々を育ててくれた人に、なんでこれしきのことで頭を下げられなくてはならないのでしょう。申し訳ないし、もったいないことです。

集合時間が迫っていたこともあって、分かれた婦人が瓦礫の山の間を戻っていく後ろ姿を黙ってしばらく黙って見送ることしか出来ませんでした。50年も生きてきて、こうした状況でかける言葉やあらわす態度や行動も持ちあわせていないというのは情けないことです。車に乗ってもらうか、私一人でも一緒に歩いて避難所までついていって、その間にお話でも聞かせてもらうかくらいの機転がなぜきかなかったのかといまでも後悔しています。