学生時代から好きだった、ハンス・アイスラーとベルトルト・ブレヒトの曲の紹介です。ただし、私は専門に音楽やドイツ文学を勉強した事はありません。集めたディスクの中から、好きなものを私的な感想とともに紹介しているだけです。
アイスラーとブレヒトの歌の中で、この曲はその題・歌詞の意味や背景についてよくわからないもののひとつでした。
この曲についての解説やその訳詞が書物の中でもまたネットを検索しても見あたらない。輸入盤の中ではたくさんの歌手が取り上げていて、アイスラーの曲の中では広く歌われているものの一つのように思います。ただ国内盤のディスクで訳詞のついたものや日本語で歌われているものは、私の知る範囲ではありません。前に紹介したミルバのライブのCDでは、曲名は確か「馬の嘆き」と副題・" Ein Pferd klagt an "で紹介されていたと思いますが、題や歌詞の訳はなかったように思います(今、あのCDは手もとにないので確認できません)。歌詞の意味自体は、辞書を手元に原詩をあたればあらかたわかるのですが、この曲名の" Falladah "というのは何だ?誰かの固有名詞か、なにかの感嘆詞か?" die du hangest ! " お前は、吊下がっている(吊り下げられている)?これはどういう意味か・・・、それに全体に漂うまがまがしさはいったい何か?
先に紹介したロビン・アーチャーさんのLP " Robyn Archer SINGS BREDHT VOLUME TWO " のライナーノートにそのヒントがありました。歌詞の英訳などがあればと、20数年ぶりに読んでみたのです。歌詞は原語(ドイツ語)も英訳も掲載されていなかったのですが、曲の解説として以下のような短い記述がありました。
訳文とその原文です。
このタイトルはグリム童話の『がちょう番の娘』からとられている。ここでは馬の首が人の言葉を話すのだ。ブレヒトの詩は、ベルリンで第一次戦時下またその直後に行われた馬の屠殺・食肉化を暴いている。これはおそらく1919年に書かれた。1932年に彼とアイスラーは、 " Es war eimal " (昔々あるところに)という歌付きの小さな芝居にこれを取り入れた。フリードリッヒ・ホレンダーの制作(かれは1920年代にいくつかのレビューを手がけた作曲家でアニメーターだ)、他にエルンスト・トラーとエーリッヒ・バイトナーも携わっていたが、この作品に関しては何も残されていない。
ジョン・ウィレット、1984 (拙訳)
The title is taken from the Grimm story ‘ The Goose Girl ’, where a horse’s head speaks . There are reports of dying horse being cut up for meat in Berlin during and immediately after the First World War . Brecht‘s poem ( see Poems 1913-1956 for another translation ) was probably written in 1919 . In 1932 he and Eisler turned it into a song-cut-sketch for a revue called Es war einmal ( or Once upon a time ) devised by Friedrich Holländer , composer and animator of several 1920s revues. Among others cotributing were Ernst Toller and Erich Weinert , but there in no record of any production.
John Willett , ROBYN ARCHER SINGS BRECHT SONGS Volume Two , 1984
グリム童話の『がちょう番の娘』については、検索するとたくさん出てきますので、それぞれご覧ください。 Falladah は、その中で登場する人語を解し話す馬の名前です。王女と侍女に伴われて、王女の婚家に向かいます。侍女は途中で王女を脅してその衣装や持ち物を奪い、自分が王妃になってしまいます。おとなしい王女はがちょう番にされてしまいます。そのたくらみを知るファラダーは、真相を暴かれるのを怖れる侍女により殺されてしまいます。王女はそれを知りその首をもらい門に吊し、がちょうの番に出るたびに話しかけ、馬の首もそれに答えます。
" O du Fallada da du hangest ,"
da antwortete der Kopf
" O du Jungfer Königin, da du gangest ,
wenn das deine Mutter wüsste ,
ihr Herz tät ihr zerspringen. "
ブレヒトの詩の表題は、ここから採られているのですね。がちょう番にされた王女が、首を切られ門に吊された馬のファラダーに呼びかける言葉です。また、上記のジョン・ウィレットさんの短い解説で、この詩のおどろおどろしい内容も理解できます。ファラダーは人語を解する馬ですが、それゆえに人間同士の争いに巻き込まれて首を切られ皮を矧がれます。その首は王女の望みで門に吊され、その呼びかけに応えます。ブレヒトのこの詩の馬も、飢えた人間によって生きながら肉をもがれ骨を道に捨てられ、でも死ねずに人間の言葉で人間に対する警句を発します。
ブレヒトはベルリンでのおぞましい事件を、馬自身に語らせています。そのために猟奇ともいえるグリムのこの話を連想させて、殺され肉にされる馬を現代のファラダーとして登場させているのでしょう。よくわからないのですが、ドイツ語圏の人たちには、このグリム採集の話もファラダーという馬のことも解説不要のよく知られたことなのでしょうか?
上でも書きましたが、この曲は輸入盤のCDでもYouTubeでもよく聴けるのですが、その訳詞が書籍でもネットでも見あたりません。参考までに例によって誤訳・勘違い御免で訳したものを置いておきます。引用もコピーも 勝手にやってもらって全然かまわないのですが、それで恥をかいてもしりません。
ファラダー、首だけになったね、お前!
弱った体で荷車を曳きながら
フランクフルター・アレーまでやってきた。
やれやれやっとたどり着いた、本当にまいった!
と思ったとたん、私は倒れてしまった。
そして10分後、私の骨は道路に転がっていた。本当のところ、私は疲れて倒れてしまったわけではない。
( 御者は電話をかけに私から離れた )
するとまわりの家から飢えた連中が転がり出てきて、
1ポンドの肉でも持って帰ろうという魂胆.
ナイフで私の骨から肉を引きちぎっていった。
私は息も絶えだえ、だが死んでしまうことも出来なかった。だが、私は覚えている。
この連中もかつては、私にハエよけのザックを持ってきてくれたし、
食べ残しのパンをくれたりもした。
御者に私に優しくするように諭してくれた。
かつては友達のように扱ってくれたが、今はかたきでも見るようだ。
彼らは突然変わってしまった、いったい何が起きたのだ。
この寒々しさはいったいどうしたのだ、
彼らになにがあったのだ!
誰が彼らを打ちのめして、
こんな冷酷無比な輩にしてしまったのだ!
彼らを誰か助けてやれ!でないとほどなく、
彼ら自身にも何かとんでもない事が起こるだろう!
ベルトルト・ブレヒト (拙訳)
O Falladah, die du hangest !
Ich zog meine Fuhre trotz meiner Schwäche
Ich kam bis zur Frankfurter Allee.
Dort denke ich noch: O je!
Diese Schwäche! Wenn ich mich gehenlasse
Kann’s mir passieren, daß ich zusammenbreche.
Zehn Minuten später lagen nur noch meine Knochen auf der Straße.
Kaum war ich da nämlich zusammengebrochen
(Der Kutscher lief zum Telefon)
Da stürzten aus den Häusern schon
Hungrige Menschen, um ein Pfund Fleisch zu erben
Rissen mit Messern mir das Fleisch von den Knochen
Und ich lebte überhaupt noch und war gar nicht fertig mit dem Sterben.
Aber die kannt’ ich doch von früher, die Leute!
Die brachten mir Säcke gegen die Fliegen doch
Schenkten mir altes Brot und ermahnten
Meinen Kutscher, sanft mit mir umzugehen.
Einst mir so freundlich und mir so feindlich heute!
Plötzlich waren sie wie ausgewechselt! Ach, was war mit ihnen geschehen?
Da fragte ich mich: Was für eine Kälte
Muß über die Leute gekommen sein!
Wer schlägt da so auf sie ein
Daß sie jetzt so durch und durch erkaltet?
So helft ihnen doch! Und tut das in Bälde!
Sonst passiert euch etwas, was ihr nicht für möglich haltet!
Text: Bertolt Brecht
2010年5月19日
ディスク紹介より先に、動画を貼り付けておきます。このページも細々と更新しながらこの5月でアップしてから7年になります。その間にネットの環境もずいぶん変わりました。著作権の問題が気になりますが、動画紹介が増えるかもしれません。こちらはYoutubeで、hanns eislerで検索して、いろいろ芋づる式に観ているうちに見つけたもの。ブレヒトが若書きの詩に自身で曲をつけています。アイスラーの曲ではありません。
中東の火付け強盗人殺し集団のプロバガンダの手段になっているYoutubeの利用、貼付けはやめました。(2015年2月5日)
元のページによると2007年1月20日、ベルリーナ・アンサンブルで開かれたブレヒト・ガラでのものらしい。歌っているのは、Angela Winkler (アンゲラ・ヴィンクラー)という女優さん。ドイツ映画や舞台好きの人には良く知られた手堅い演技の硬派な女優さんのようだ。どこかで聞いた名前と思っていたら、「ブリキの太鼓」の母親を演じていた。
とても素敵な歌唱です。1944年生まれというアンゲラ・ヴィンクラーさんはこの時はすでに還暦を過ぎていた事になるのですが、なんだか若い時の薬師丸ひろ子さんのような甘くしっとりした声です。それに詩の言葉を一語一語丁寧に語りかけるように唱ってくれているし、語尾や接頭語の[r]などは、舌を震わせずに発声してくれるのも良い。やはりブレヒト・ソングは声楽家よりもこうした舞台の俳優さんが唱う方が好きです。
細かい事になるのですが、このヴィンクラーさんの歌とブレヒトの原詩のテクストとは2個所ほど違う所があります。どうでもいいような事かもしれませんが、私にとっては、以前から疑問に思っていたこの詩に歌われている情景を考える良いきっかけになりました。少し触れておきます。
下に引用しておいた原詩( Erinnerung an die Marie A. )の1行目の" blauen "を、どうも" stillen "と、また同じく5行目の" uns "を" mir "と歌っています。これが、ヴィンクラーさんの単なる勘違い(歌詞の覚え間違い)なのか、テクスト自体に異同があるのかは分かりません。後者ならそれはそれで興味深いことです。この詩の情景に対する疑問というのは単純なことです。この詩の第一節の訳を下に示します。野村修さんの訳です。私はブレヒトの詩も、ブレヒトやベンヤミンも含めたワイマール期からのドイツの文化の事も、おもに野村さんの訳や著作で学んできました。ついでに言うと私の学生時代、野村先生は教養部のドイツ語の教官でした。当時の京大の教養部のドイツ語の教官には、他にも池田浩士さんとか好村富士彦さんと言ったそうそうたる先生たちがいらしたのですが、結局私は受講することもありませんでした。野村先生も、好村先生もすでに故人となられました。今振り返るともったいないことです。
九月はあおい月、その月のあの日に
ひっそりと、若いスモモの木の根もとに
あの子を、蒼いひっそりとしたこいびとを
ぼくは抱いた、優しいゆめを抱くように。
ぼくらの上にはすみきった夏空に
ひとひらの雲、じいっとぼくは見つめた
白くて、気のとおくなるほど高い雲、
また眼をあげると、もう消えてしまってた。『ブレヒト愛の詩集』 ベルトルト・ブレヒト 野村修訳 晶文社
さて、この野村先生の訳をさっと読むと、こいびとを ぼくは抱いた
のは、あおい月
の夜なのかすみきった夏空
の下なのか、どっちなんだろうと思います。これは横着をせずに原文をあたれば分かることでした。ブレヒトの原詩の1行目はこうなっています。
An jenem Tag im blauen Mond September
どうしたってこの、"blauen Mond"という言葉が気になってしまうのですが、この場合はすなおに読めば後ろの"September"と同格か修飾語でしょう。青い月・9月(この場合、"Monat"と普通なるのでしょうが、韻の関係で"Mond"とした?)。または、月("Mond")の青く美しい9月という事になるのでしょう。青い月夜の晩に彼女を抱いたということではなさそうです。ですから青い9月
("blauen Mond ")を、静かな9月
(" stillen Mond ")と歌っても、まあたいした問題ではなさそうです。それにここはどうやら、ヴィンクラーさんの単純な歌詞の覚え間違いのように思えます。シュティ・・・
と歌いかけて少し口ごもっているように聞こえます。間違えに気がついたのかもしれません。この後、"still"という形容詞が2回続けて出てくるので、混同してしまったのかな。
次の" uns "と、" mir "の異同(間違い)はもう少しワケありな気もします。原詩の5行目になります。
Und über uns im schönen Sommerhimmel
もとの詩では、美しい夏の空のもとにいるのは2人になります。ところが、 "mir "となると夏の空の雲を眺めていた時はもう1人だったことになります。その時点で彼女のことは思い出になってしまっていた。それはそれでひとつのシチュエーションだと思いますが、ここは、やはり" uns "の方が良いように思います。すくなくともひとたびは二人は同じ夏空の下にいた。そして私は雲を眺めていた。しかし、私がもう一度空を見上げたとき、もう雲はなかった。これは、若い二人の別れを暗示しているのでしょう。それが、同じ夏の一日でのことであったか、または夏のいつくかの日々を重ねたあとであったのか、それはどちらと読んでもいいでしょう。
この詩の第2節はなんだか不思議な内容です。 "du" は新しい恋人でしょうか?そうすると、この節では、その新しい恋人に問い詰められて、いや、たしかにキスはしたけど、もう顔さえ覚えてないし・・・
としどろもどろになって言い訳しているように読めます。そうなんでしょうか?まあ、ブレヒトの詩ですしね。そんなところじゃないかと思っておきます。
この詩は、映画『善き人のためのソナタ』で劇中で取り上げられてよく知られるようになったようです。秘密警察教官で盗聴員でもあった主人公が、この詩を読んである深い思いにとらわれる。この映画のテーマとも関係する印象的なシーンとなっています。この映画の原題は、 Das Leben der Anderen です。どこかで、その意味は他人の生活
で、諜報員によってまた互いに密告社会によって覗き見られ盗聴される他人の生活のことだとか解説されているのを読んだ記憶があります。まあそうなのかもしれませんが、なんだかあまりに殺伐とした解釈に思えます。主人公の盗聴員が、ブレヒトのこの詩を読んで若い日の自分の恋や日々を思い出す。今はこの警察国家の官僚組織の中で相応の地位を得ているが、むしろそれを積極的に支える立場にあるが、それが本当に若い日に自分の望んだことだったのか、自分にはもっと別の人生別の生き方があったのではないか、そうした意味でこの Das Leben der Anderen は、もう一つの人生
とか読めないものでしょうか?
せっかく大学までやってもらって、しかもおそらくは当時としても望むべく最高の学者に直接学べる機会もあって、でも結局この程度の詩すらまともに鑑賞できない。当時は他のことに夢中になっていました。そこから、自分の Das Leben der Anderen を考えないでもありません。でも後悔はしてません。野村先生や池田先生とは学内の別の問題で幾度もお顔を拝見し、言葉をかけさせてもらっていました。野村先生は、サラッとした長髪にいつもベレー帽を斜めにかぶって、猫背でいつも体を斜めに傾けながらペタペタ歩いていたような印象があります。小さな声でゆっくりと、でもごまかしのない選んだ言葉で発言されていたように思います。細身の体ながらいつも背筋を伸ばし、さっそうと歩いていたかっこいい池田浩士先生とはある意味好対照でした。先生の好きだったベンヤミンというのもこうした人だったのかなと思ったりもします。ちゃんと勉強はしなかったけど、あれから30年以上もたって、まだブレヒトの詩など読んでみようと思うのもそうした先生の印象と後から読んだ著述の影響を受けているのでしょう。
この詩の日本訳は、先に紹介した野村修先生のものがありますが、先生の訳にしては少し冗長で曖昧なところがあるように思います。下に引用した訳は、これも前に紹介した竹田恵子・『ブレヒト・ソングを歌う』のライナーノートに収録されていたものです。明らかに野村さんの訳を下敷きにしていますが、実際に歌えるように韻も整えられた良い訳だと思います。
マリー・Aの思い出
あのとき あおい9月の スモモの若木のもと
やさしい夢を抱くように あの子をぼくは抱いた
澄み切った夏空に ひとひらの白い雲
そして目をあげてみると 雲はもう消えていたあれから いくつもの月 ひっそり沈み流れ
スモモは切り倒されたか あの子はどうしているか
ぼくに分かりはしない くりかえし尋ねても
顔さえ思い出せない あのときキスしたのに
キスさえ 忘れていたろ あのとき雲がなければ
とても高くに白く いつまでも覚えてる
スモモはいまも咲き あの子は子供が七人もいよう
雲はつかのま咲いて すぐに風に消えた稲葉良子 訳
Erinnerung an die Marie A.
An jenem Tag im blauen Mond September
Still unter einem jungen Pflaumenbaum
Da hielt ich sie, die stille bleiche Liebe
In meinem Arm wie einen holden Traum.
Und über uns im schönen Sommerhimmel
War eine Wolke, die ich lange sah
Sie war sehr weiß und ungeheur oben
Und als ich aufsah, war sie nimmer da.
Seit jenem Tag sind viele, viele Monde
Geschwommen still hinunter und vorbei.
Die Pflaumenbäume sind wohl abgehauen
Und fragst du mich, was mit der Liebe sei?
So sag ich dir: ich kann mich nicht erinnern
Und doch, gewiß, ich weiß schon, was du meinst.
Doch ihr Gesicht, das weiß ich wirklich nimmer
Ich weiß nur mehr: ich küßte es dereinst.
Und auch den Kuß, ich hätt ihn längst vergessen
Wemnn nicht die Wolke dagewesen wär
Die weiß ich noch und werd ich immer wissen
Sie war sehr weiß und kam von oben her.
Die Pflaumebäume blühn vielleicht noch immer
Und jene Frau hat jetzt vielleicht das siebte Kind
Doch jene Wolke blühte nur Minuten
Und als ich aufsah, schwand sie schon im Wind.
マリー・Aの思い出が聴けるディスクを紹介しておきます。
3枚目は、1984年プレスのLPです。当時住んでいた京都の十字屋・三条店かコンセール四条というレコード店で買った記憶があります。歌っているのはRobyn Archer。彼女の若いときの録音になるのですが、知らなかったのですが最近でもずいぶん活躍していています。
ちなみに、2枚目の THE EASTSIDE SINFONIETTA というユニットのアルバム(このユニットの詳細は不明ですが、このジャケットデザインはクラシックの老舗・DGのパロディです)でも英語で歌われています。
2010年4月7日
アイスラーとブレヒトの歌ではありません。しかし、統一戦線の歌で、ドイツ共産党の党首・Ernst Thälmannの名前を出したので、この歌も紹介しておきたいと思います。
テールマン縦隊は、カール・エルンストの詩に、パウル・デッソウが曲を付けています。テールマン縦隊は、スペイン内戦に参加したドイツ人義勇軍の部隊で、その名前は1933年ナチスの政権掌握後逮捕され、収容所で殺された共産党党首・テールマンからとっています。
上のディスク・頽廃音楽は、同名展覧会復元展(1988年、デュッセルドルフ)のためのオリジナル・サウンド・ドキュメント
となっています。1937年、ミュンヘンで大ドイツ芸術展と同時期に頽廃芸術展が開催されました。ナチの意にそぐわないとして押収された"非ドイツ的"作品を晒しものにしようという企画です。その中には、私の大好きなパウル・クレーなども含まれています。その音楽版として翌年デュッセルドルフで開かれたのが、頽廃音楽展です。どこの国にも、権力におもねるイヤな連中はいるものです。
ディスクは四枚組で、当時"ドイツ的"と称賛された音楽と"頽廃的"とされた音楽やドキュメントが収録されています。ブレヒト自身が歌うメキ・メッサーのモリタートなどもあって、たいへん興味深いものです。なお、CDのジャケットは、当時のポスターを使っています。非アーリア人種=黒人が演奏するジャズというステレオ・タイプ化された絵です。胸にはダビデの星があります。収録された音楽を聴いても感じますが、どちらが精神的に荒廃しているかは明らかです。
このディスクに収められたテールマン縦隊は、ライナーノートによると1938年にスペインで
録音され、演奏は、エルンスト・ブッシュと第11旅団オーケストラ及び合唱団
とあります。つまり、内戦下のスペインでの、ブッシュとドイツ人義勇軍のメンバーによる録音という事になります。オーケストラというより、吹奏楽団という感じです。弦楽器の音はしません。バックのコーラスも合唱ではなく斉唱です。独唱のブッシュを除き演奏も合唱もお世辞にも上手ではありません。録音も良い状態とは言えません。共和国にとって、戦局もすでに好ましからざる状況にあった時です。この年の10月、国際旅団は解散し、11月に送別式が行われています。
それでも、この録音は若々しい高揚感のようなものが伝わってきて惹き付けられます。この録音に参加した多くの若いドイツ義勇兵たちは、必ずしもプロの音楽家ではなかったでしょう。あるいは、これが最初で最後のラジオ放送・録音であったかもしれません。当時の事ですから、ワンテイクの一発本番でしょう。その演奏を前にした彼らの緊張しながらも高揚した表情や、その中での囁やきが聞えてきそうです。
これを、演奏した若いドイツ義勇兵のうち、一体何人が内戦を生き延びる事が出来たのでしょう。たとえ、生き残れたとしても、彼らには帰るべき祖国はありません。ヘミングウエイやオーウェルとは違います。この録音は、そんな彼らの束の間の晴舞台であったのでしょう。
上の2枚のディスクは、イギリスの作曲家・Cornelius Cardew コーネリアス・カーデュー(1936〜1981)のピアノ作品集です。
上は、フレデリック・ジェフスキーの、下のディスクは作者自身の演奏によるものです。この中に、テールマン変奏曲が演奏されています。
この歌は、『連帯の歌』と並んで、アイスラーとブレヒトの歌の中で、もっとも良く知られ、かつ歌われてきたものの一つでしょう。
歌の内容は、1935年のコミンテルン第7回大会での方向転換・いわゆるディミトロフ報告にもとづく統一戦線政策に沿うものです。いわば、コミンテルンとドイツ共産党のプロバガンダ・ソングとも言えるものです。それと、歌詞のDrun link , zwei drei !
の左
を右
と替えて歌えば、そのままナチの歌になるとも言われてきました。ただ、そうした一部の風評とは別に、この歌はスペイン市民戦争に参加したドイツ人義勇軍から伝わり、実際にファシスト・フランコ軍を相手に銃を取って戦った世界中の労働者・市民に広く歌われたそうです。
あるサイト(ドイツ共産党)を見ると、当時の共産党の軍事組織・赤い戦線で演説する制服姿の党首・テールマン(Ernst Thälmann)の写真があります。最初見たときは、ナチのSSの集会かと思いました。それほど、左右の、そして残念ながら労働者運動内部での武力衝突が日常化していた時代であったのです。実際に、テールマン自身がナチが政権を取ってすぐの1933年に逮捕され、後に収容所で殺されています。
この歌がその後もうたい継がれた事は、あとで紹介するように Charlie Haden のような違うジャンルのミュージシャンにも取り上げられている事実でもわかります。実際に、人々に歌い継がれてゆくうたというのは、時代に対して、高みの見物のインテリや評論家の評価とは別のものです。昔、スペインでファシスト相手に戦ったお父さん・お母さん、お祖父さん・お祖母さんから、この歌を聴かされた、あるいは教えてもらったと言う人は、世界中にたくさんいることでしょう。
この歌について、ハンス・アイスラー 人と音楽 ・ アルブレヒト・ベッツ(浅利利昭・野村美紀子訳)には、アイスラー自身の言葉をまじえてこう書かれています。
1934年秋、アイスラーとブレヒトは統一戦線の形成に力添えするため、政治的な歌を次々に作る。(中略)統一戦線の歌は世界中に広まる。これは連帯の歌と同じくぼくらを主語とする長い歌で、その行進曲風の組織化してゆくリズムはただちに人々を集める力がある─歌う者に歌詞に対して責任を負わせ参加を促す闘争の歌である。戦線が具体的に論じられる。アイスラーはこのころこう記している。
新しい革命歌はこういうことばで始まる。人間は人間だから食べ物が要る。おしゃべりで腹はふくれない。食事を作ってくれるわけじゃない。この革命的なセリフに、ファシストの権力者立ちの常套句を対置する。かれらは労働者に物質的にはなにもしてやれないが、かれの魂を高めたことを誇りに思うという自認だ。ここで音楽が重要な役をする。この種の高揚とは労働者にとっては、賃金がさがる、物価が上がる、失業者は兵舎へほうりこまれる、労働者は一切の権利を奪われ、経営者の気概に委ねられている・・・といった低級な事実を超越してみずからを高めろということだ。(中略)
作曲家としてのアイスラーの社会的な信念の根本的な部分にはこのような考慮と要求がある。
この歌のディスクを紹介するには、エルンスト・ブッシュを抜きにできないでしょう。戦前からの労働者演劇団の出身で、役者としてブレヒトと行動をともにしてきました。写真は、LPですが、珍しくもフランスのシャンデュモンドから出されたものです。一部、ブレヒトとブッシュ自身によるものを除いて、すべてがアイスラーの曲で構成されています。この中で、ブッシュはこの『統一戦線の歌』を、ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語でそれぞれ歌っています。スペイン内戦で、世界中から集まった義勇軍兵士に歌われた事を思い起こさせて、いいなと思います。先にあげたアルブレヒト・ベッツの本でも、アメリカの労働者が、この歌を英語で歌う場面が紹介されています。
このシャンデュモンド・レーベルからは、70年代に、「世界の新しい歌手たち」というシリーズの一連のアルバムが出されていました。なんらかの理由で、祖国を追われた、あるいは祖国での演奏や録音を禁じられたミュージシャンに録音・出版の機会を与えたものです。その多くを今も持っていますが、いずれもすばらしいアーティストたちの、心に響く良い歌ばかりです。是非、機会をあらためて紹介したいと思います。ブッシュがこのシリーズでなぜ録音したのか、良く分からないのですが、東ドイツから出された録音に比べ、硬質な堅苦しさが抜けて、のびのび歌っているような気がします。
2枚目は、旧東ドイツのベルリン・クラシックから出されたアイスラーの一連のアルバムの一つで、合唱曲が集められています。オーケストラをバックにした混声合唱で歌われています。戦後の、東側の公式的な演奏のされ方という事でしょう。
アメリカのジャズ・ベーシスト、Charlie Haden が60年代末に結成したユニット・liberation music orchestra が、この『統一戦線の歌』を演奏してます。ベトナム戦争が戦われ、東西冷戦の最中ですから、それだけでたいへんな事のように思えますが、ヘイドンのその後の活動を見れば納得がいきます。ちなみに彼のサイトは、この手のミュージシャンのサイトの中では、とても見やすくすっきりと良くできたものです。フレームを使った構成ですが、ちゃんと全うな <noframes>
が用意されています。画像も少なく、各ページ共通のものを使い回しているので表示も早い。インタラクティブとやらが大好きで、100KB 単位の画像をベタベタ張り付けている「アーティスト」のみなさんにぜひ見習って欲しいものです。
日本語で歌われたものとしては、先にあげた須山公美子さんのディスクがあります。ずいぶん大胆な編曲をしていますが、歌詞の訳も元のブレヒトの詩に忠実だし、この歌の作られた当時の雰囲気を良く伝えてくれるようで、私は好きです。こうした形で、この歌が日本語でうたわれるのは、すばらしいことだと思います。
この歌の楽譜およびオンラインで聴くには、次のサイトへどうぞ。Die Einheitsfront
これも私の大好きな曲です。詩も曲も、ステレオタイプな "労働者の母" になっていません。お涙頂戴的な"母の愛"でも、いさましい"戦う母"でもなく、普通の労働者の家庭の状況を淡々と歌い上げています。
この歌をブレヒトの妻であったヘレーネ・バイゲルが、亡命先のデンマークで歌った時の様子を、ルート・ベアラウが感動的に描いています。
そして、今度はバイゲルの番になった。モルテルセンが譜めくりをしてくれと言ったので、私はピアノに向かっている彼のそばにすわった。そして、バイゲルが歌い始めた。「私がお前を産んだ時・・・・」最初の2ページほどは、かろうじて楽譜をめくることができたが、後はもう、何もかも忘れてしまって、私はただただ耳を傾けた。このステージから響いてくる声!この声は本当にあのきゃしゃな体から出てくるのだろうか?彼女の輝く瞳は、私たちを刺し貫いた。歌詞が感動的なのにもかかわらず、どんな感傷とも無縁な彼女の歌唱力は、私たちをみんな泣かせた。「お前がまだおなかにいた頃・・・」「月満ちるまで私はお前をおなかで育てた・・・」「どんな人間になろうと、お前は私の息子だよ・・・お前らしく生きるんだよ・・・」若者たちは、人目もはばからずに泣いた。ホールのどこからともなく、ひときわ高い泣き声があがった。誰かが倒れるか、生まれるかしたに違いない、という考えが私の頭に浮かんだ。がそれと同時に、私はもうすでに十分劇場で経験を積んできていたので、これほどまでの芸術、これほどまでに感動を喚起する力は、それなりの技術の裏打ちなしにはあり得ないのだ、ということも理解できた。盛り上がるたびに、私はこの二重の意識に気づいたのである。
私たちのこの小さなデンマークに、いっぺんに三人の天才がやって来たら、人々はいったいどうしたらいいのだろうか。ブレヒトの作詞、ハンス・アイスラーの作曲で、バイゲルが歌うとすれば?この三人にかなうものはいない。あれは、1933年のことだったが、当時会場にいた者はみな、この体験を忘れることができなかった。あの頃私と一緒に活動していた学生たちは、それぞれ、修士号を取ったり、弁護士になったり、大学教授になったりしているが、みんな、バイゲルの名を聞き、あの「子守唄」のことを思い出すと、あのステージに対する感嘆のために今でもなお、頭を振り、この歌の警告を裏切ったか裏切らなかったかによって、目つきを和らげたり険しくしたりする。私の小さな祖国の名誉のために言っておくが、あの会場にいた者はみな、この偉大な芸術を理解し、吸収し、消化した。私もそうだった。それは、本当にすばらしいの一言に尽きた。
『ブレヒト 私の愛人』 ルート・ベアラウ
この歌のディスクはLP時代からたくさんあります。女性が歌う場合、ベアラウの紹介しているヘレーネ・バイゲルの影響でしょうか、感情移入を押さえて淡々と語るような歌い方が多いようです。好ましいことです。ここでは、CDを3枚あげます。
最初のディスクは、ハンス・アイスラーの合唱作品を納めたもの。この中で、Käte Kühl という女声が小規模のオーケストラをバックに歌っています。良い感じです。ただ、最後の方で、エルンスト・ブッシュが登場し、これが余計な事で、とたんに妙なプロバガンダ風になってしまいます。まあ、当時の正統的な東側の演奏と言えるかもしれません。
2枚目のディスクは、ミルバのライブ録音です。日本では、カンツォーネ歌手として知られるミルバですが、本国イタリアではブレヒト劇の女優・歌い手としても活躍しているそうです。ここでは、イタリア語で歌ってますが、旧東独系の歌手と違い抑揚を効かせ、テンポを動かし、たっぷりと情感を込めて歌っています。さすが、ミルバと言うか、これはこれで聴かせます。なにより、それなりのステイタスを獲得したミルバのような歌手が、ステージで貧乏人に本当のことを言うのはマルクスとレーニンだけだった
と元のブレヒト詩の通り、歌い上げるのがすごいと思います。
3枚目のディスクは、10年程前東京に行った際、銀座の山野楽器で見つけて購入したものです。詳しい事は分かりません。ライナーノートにも演奏者のMarianne Pousseur、Kaat De Windtという二人の若い女性の写真と名前が載っているだけです。収録された27曲全部がブレヒトの詩、アイスラーの作曲によるものです。演奏は、いかにも素人ぽいもので、お世辞にも声楽的に上手とは言えません。しかし、その訥々とした歌い方の中に静かに訴えかけるものがあり、好感が持てます。ジャケットの表紙にはタイトルと共に、小さな文字でこうあります。
In the dark times
Will there also be singing?
Yes, there will also be singing
About the dark times
収録された日付もありませんが、おそらくは80年代の後半から90年代の初めのものでしょう。アイスラー自身が国歌を書いた東ドイツをはじめ、「社会主義」を名乗った国々が次々と崩壊していった時期です。そうした暗い時代
に歌うべきうた
として、敢えてアイスラーを取り上げた若いアーティストがいたと言う事を嬉しく思います。
なお、日本語で歌ったものは、先に紹介した竹田恵子さんのディスクがあります。
ブレヒトの詩にアイスラーが曲をつけた歌には、たくさんすばらしいものがあります。その中でも、私が一番好きな曲がこれです。消滅した東ドイツ(ドイツ民主共和国)は、なぜ、この歌を国歌にしなかったのでしょう。
この曲が作られたのは、1950年とされています。敗戦後の物理的・精神的荒廃の中です。もう、この時にはナチス・ドイツの行ったユダヤ人絶滅政策などの戦争犯罪が隠すことの出来ない事実として、多くのドイツ人の前に明らかにされていたでしょう。一方でドイツの分断が既成事実化し、その東半分では占領した旧ソ連軍による略奪・暴行が広く行われていたようです。ソ連主導で統一された労働党の官僚主義・御都合主義にもブレヒトやアイスラーは気づいていたことでしょう。そうした中で、ブレヒトはドイツの再生の願いを子供達に託した詩を書きました。以下のような内容です。
楽しいときも苦労を忘れず、
熱い思いも理性の中で、
良いドイツを花開かせよう。
他の良い国のように。簒奪者の前でもおびえることなく
手を取り合って生きていこう。
他の国の人たちのように。他の人の決して上ではなく、
でも、下でもなく生きていこう。
海からアルプスまで、
オーデルからラインまで。
私たちは、この国を良くしてゆくから
愛して守っていこう。
他の国の人も私たちも、やはり、
自分のくにが好きなんだ。
これにつけられたアイスラーの曲が、またとても素敵です。無用な抑揚を押さえた、でも静かな希望に満ちた流れるような美しいメロディです。侵略や民族絶滅政策、敗戦の中から学んで再び立ち上がろうとする社会主義ドイツの静かな希望と理想が感じられます。旧東ドイツがこの歌を国歌にしていれば、たとえばオリンピックを通じて、この歌が広く知られていたでしょう。また、私たちの国の憲法第九条のように形骸化され骨抜きにされていたとしても、これを歌う東ドイツの人達に自分達の出発点と理想がどこにあったのかを、歌うたびに思い起させたでしょう。この歌では、und nicht über, und nicht unter
=決して上ではなく下でもなく、と歌われていました。それが、Deutschland über alles
=全ての上のドイツ、と歌われる旧西ドイツ国歌が統一ドイツの国歌になってしまいました。
この歌をうたった録音では、アイスラー自身のものがやはり圧巻です。写真の一番上のhanns eisler dokumenteは、文字通りハンス・アイスラーのドキュメントで、4枚組のCDにアイスラー自身のインタビューへの応答が録られています。何を言ってるのかさっぱり分からないのですが、所々にアイスラー自身による自作の歌が収録されていて、それを聴くだけでも価値があります。この子供の国歌は、一枚目のディスクの冒頭に収録されています。さすがにシェーンベルクの三高弟の一人と言われだけあって、非常にしっかりとしたリズム感と音程で歌います。酒とタバコのせいか、声はしわがれていますが、豊かな声量で説得力にあふれたすばらしい歌いっぷりです。これも、戦前、労働者合唱団の指揮・指導に第一線で当たっていた賜物でしょう。ブレヒト/アイスラー・ソングの歌い手としては、労働者出身のエルンスト・ブッシュが有名ですが、変に上手すぎるブッシュよりも、このアイスラー自身による物の方が私は好きです。
2枚目のディスクの イルムガルト・アーノルドという人の事は知りません。歌い方から、声楽畑の人ではないようです。ブレヒトの主宰したベルリーナ・アンサンブルの女優でしょうか。しかし、少し鼻にかかった良く通る自然な発声が、この歌の優しい雰囲気に合って好きです。このディスクには最後に先にあげたアイスラー自身の歌も収録されています。
日本語でこの歌をうたった物には、須山公美子と竹田恵子のディスクがあります。須山さんは、関西を中心にライブ活動を行い、その中でもアイスラーを取り上げていました。説得力のある強い声でとてもいいなと思います。ただ、このディスクの中のこの歌は、編曲が妙に情緒的すぎて正直に言って好きになれません。この曲の軽やかな流れるリズムが失われ、昔の「うたごえ運動」の歌のような変に情緒的な平板な雰囲気になってしまっています。『統一戦線の歌』の編曲などはとても面白く良いと思うので残念です。竹田恵子さんは、現在こんにゃく座の代表です (今は退かれたようです)。オリジナルに忠実に歌ってますが、クラシックの声楽畑の人がブレヒト・ソングを歌うと、どうも違和感があります。それでも、日本語でこの歌をうたったディスクがあるのは、とても嬉しいことです。