あたしの恋人とジャック・チボー(
チボー家の人々)
この "Send in the clowns"という歌は、プティボンのほかにも様々なジャンルの歌手がカバーしているいわばスタンダードなのだが、その歌詞の意味がイマイチよく理解できない。歌詞自体にいくつかのバージョンというか異同があるのだが、いずれも平易で簡単な言葉で構成されている。プティボンの歌っているのを拾ったものを下に置いておく("Send in the Clowns")。ただ、その意味するものが理解できない。そもそも "send in the clowns"とは?道化の中に送れ
?
でも、プティボンがこんなに素敵にこんなに情感を込めてしっとり歌っているのに、その歌の意味も分からないのは悔しいので、とりあえず訳してみた。歌うための韻をふんだ訳でも、原文の逐語訳でもないただの意訳です。その能書きは下に置いてあるので、勘違いや誤訳・誤読があればご指摘ください。
どう最近は?まあまあって所かしら?
私は、とうとうこけちゃったけど、
あなたはまだ踊っている。
ピエロを呼んでちょうだいな。
おかしいでしょう?ザマを見ろ?
駆けずりまわっている人の横で、
全然動けない人がいて・・・
ピエロはどこかしら。ピエロを呼んでちょうだい。
小屋の扉を開けようとして、ふと気が付いた。
私の望んでいたものは、あなたの中にあるってこと。
それでもいつものように抜かりなく準備をしても
そう、私の芝居には
誰も並んじゃいない。
あなたの好きな喜劇みたい、私のドジは。気がつくのをびびってた
あなたが、ずっと望んでいた事が私の望みでもあるんじゃないかって。
ああいやだ。ごめんなさいね。
ところで、ピエロはどこよ。早くピエロを呼んでちょうだい。
もういいわよ。そう、ここに居るじゃない(私たち二人)。
で、結局どうなのよ?ケッサクだってとこ?
タイミングも悪いし、もう遅すぎる。
さて、ピエロはどこよ。いなきゃ話にもならない。
そうか、この次にしようか。
Isn't it rich? Are we a pair?
Me here at last on the ground
You in mid-air
Send in the clowns
Isn't it bliss? Don't you approve?
One who keeps tearing around
One who can't move
Where are the clowns? Send in the clowns
Just when I stopped opening doors
Finally knowing the one that I wanted was yours
Making my entrance again with my usual flair
Sure of my lines
No one is there
Don't you love a farce? My fault, I fear
I thought that you'd want what I want, sorry my dear
But where are the clowns? Quick send in the clowns
Don't bother they're here
Isn't it rich? Isn't it queer?
Losing my timing this late in my career
And where are the clowns? There ought to be clowns
Well, maybe next year
以下は、訳すに当たっての能書き。まずは安直にネットで検索するとやはりWikipediaがヒットする。
Send in the Clowns - Wikipedia,the free encyclopedia
これを一通り読むと、分かったような気になるからやはり便利だ。それによるとこの歌は、1973年初演のミュージカルの挿入歌なのだが、作者のステファン・サンドハイムのインタビューが引用されている。それにも
I get a lot of letters over the years asking what the title means and what the song's about
とあるから、ようするに英語圏の人間にも何のことか理解できない内容だったのだ。
興味のある人は、直接上記をあたって頂くとして、歌詞を理解するための要点だけ触れると、第一に "send in the clowns"とは、劇場での言葉で、
'if the show isn't going well, let's send in the clowns'; in other words, 'let's do the jokes.'
つまり、ショーがうまくいかない場合は道化の中に放り込んでしまえ、言い換えるとジョークで誤魔化せ!という事になる。またWikiPediaのこの編集者は、
The "clowns" in the title do not refer to circus clowns. Instead, they symbolize fools,
このタイトルにある"clowns"は、サーカスの道化を意味するのではなく馬鹿者を象徴しているとあるが、単純にそうも言い切れないように思う。原詩の一段目の
Me here at last on the ground.
You in mid-air.
というのは、文字通りサーカスの場面で私は地面に落ちたけど、あなたはまだ宙にいる。つまり何かの軽業かブランコなどの芸を連想させているし、二段目の
One who keeps tearing around
One who can't move
これも、サーカスで何か重篤な事故が起った際の修羅場の描写のようにも読める。つまり、 "send in the clowns"というのは、サーカス(舞台)でのなにか抜き差しならない状況を比喩することばのようだ。で、今この二人はそうした状況にある。
次にミュージカルでは、この歌はある年増の女優(デジル)という役柄の俳優が歌う。彼女は華やかだった昔にコケにした(ふった)男と再会する。自分が愛していたのは彼かもしれないと思う。その彼によりを戻そうとしてこの歌が唄われる。ただし彼には今、若い(18才!)婚約者がいる。捨てきれないプライドと屈折した心情を、舞台の符帳に託して語る。だから分かりにくいのだ。さて、この婚約自体があやしげなもので、デジルはそこから彼を救いたいという思いもあった。その後、物語はややこしい展開になるようだが、そこにはもう関心はない。
プティボンは今年も来日して秋に東京で3回のリサイタルを開きます。私はもちろんチケットを買いました。一般に、自分の体(声帯)を楽器とする声楽家の盛は短いようです。特にかのマリア・カラスのように地声が美しく、なおかつ聴衆を大事にするサービス精神の旺盛な本当のプロの芸人さんは、とりわけその芸の盛や命すら自ら縮めているように思えてなりません。美空ひばりも三波春夫もそうでした。もう30年近く前になりますが、ディートリッヒ・フィッシャーディースカウやペーター・シュライアーのリサイタルに行きましたが、もうその時すでに彼らはかつての輝きを失っていたように思います。プティボンはマリア・カラスのように早い時期にスパッと引退してしまうような予感がしています。衰えた声やくすんだ容姿で人前に出る事を潔しとしないような人に思えます。今、聴いておかねば。一番瀟洒なコンサートになりそうな銀座の王子ホールのチケットは早々と完売のようで、こちらは残念ながら買えませんでした。
2008年6月24日 工房日誌に掲載
今は、先日NHKでリサイタルを見たパトリシア・プティボンの古いフランスバロックの戯れ歌をもう一度聞きたいとAmazon.frを検索している。携帯音楽プレーヤーを使う若い人にはもう当たり前になっているのだろうけど、最近はサワリを試聴した上で、好きな曲だけMP3ファイルなどを安価ダウンロードできる。細かい事を言わなければやはり便利だ。彼女のサイト(英語・仏語)では、バルバリーナのアリア・『落としてしまった!どうしよう・・・』を聞くことができる(と言うか、いきなりこの歌が流れてくる。深夜など注意!この設定は感心しない)。ケルビーノを聞いてみたいが、バルバリーナがハマリ役だろうなと納得してしまう。夜の女王の例の最後のアリアもそのサワリを聞けるが、こちらは妙に怖い・・・
これは蛇足になるが、レコード会社の運営する彼女のサイトでは仏語・英語のサイトともその経歴欄にちゃんとその生年が書かれているのに、それをそのまま翻訳した日本語のサイトでは、それがすっぽり省略されている。使われている画像の選択も含めて、日本の音楽産業と愛好家
のオヤジ達がフランスのソプラノに何を求め、売り出そうとしているのかがこんな所にも窺えて寂しくなる。
2008年2月9日 工房日誌に掲載
円高は、消費者にとっては悪いことばかりではない。本来なら良いことが多いはずだ。当然ながら、輸入品に関しては安く購入できるところが、円高不況のキャンペーンの中でいつも誰かにその恩恵をかすめとられているのだと思う。
フィッシャー=ディースカウのザルツブルグ・ライブの組み物のCDが欲しいと思って調べてみた。CDを買うのも久しぶりだ。
日本のネットショップで在庫していたのがHMV Japanで、¥11,871 、例の輸入盤3枚買うとというマルチバイ
割り引きで\9,679 (検索結果)。本家アメリカのAmazon.comで$139.86 (本家検索結果)、Amazon.co.ukで£51.89(英国検索結果)であった。現在のレートを、1$(ドル)=\90、1£(ポンド)=\130として計算してみると、送料を別としてもアメリカでの値段は日本と変わらない。イギリスの値段は、円換算で\6,700ほどとかなり安い。送料などは購入手続きをする過程で分かるだろう、いやなら最後にキャンセルすればいいのだしと思ってやってみた。手続きは、日本のサイトとほぼ同じで迷うこともない。メールアドレスとかこちらの住所などを入力し、決済はカードにした。カード以外の決済方法もあるが、ややこしそうだ。カード情報入力の時、(Maestro only)として、"Issue Number; Or Start Date;" という入力欄があったが、自分のカードにはそうした記載もないし、別に"Maestro"と呼ばれた事もないからいいや思って無視。これで別に問題はありませんでした。この決済の段階で値段が変わる。£51.89→£45.12となっていた。安くなっているのだからいいのだけれど、不思議に思って調べたら要するにEU圏外からの購入だから付加価値税(現在15%)がかからないのだ。税込みの表示価格から1.15を除したものが購入価格と考えて良いのだろう。心配していた送料は £3.58で、日本国内のゆうパックより安い。合計は £48.58となった。
注文したのは2月4日、すぐに注文確認のメールが届きいろいろ能書きと共に、以下のように配送予定もある。この辺りも日本のアマゾンと同じ。
Delivery estimate: 13 Feb 2009 - 19 Feb 2009
Dispatch estimate for these items: 5 Feb 2009
ようするに5日に発送して、13日から19日の間に到着予定ということのようだ。それにしても"dispatch"というのは、こうした場合の慣用というか商取引上の定型の言い回しなのだろうが、処理する
とか、ちゃんとやってやるから文句言うな
みたいなニュアンスが感じられていやだ。簡単に"send"じゃだめなのかなと思うが、要するに手前どもの業務はこれにてひとまず終りでござい
という事も含んでいるのか?まあ英語の事、ましてこうした業界用語なんて分からないし、インボイスなんてこんなものかと割りきる事にする。
到着は、13日から19日の間とされていたが10日に着いた。土日を挟んで正味6日間で届いた事になる。黙って郵便受けに放り込まれていたから、少なくともこちらでは定形外郵便扱いになるのだろう。この手の輸入盤に関しては、国内のネットショップで買う場合でも変に待たされる事がおおいので意外だった。取り寄せ
という扱いのものなら、海外のメーカーから国内の販売店を経由して買うより、こうして在庫のある海外のショップから直接買う方が早いという事かと思う。
梱包は、上の写真の通りいたって簡素なもの。これも良い。
ちなみに今回買ったCDは、1985年にディースカウの60歳を記念して発売された5枚組のものを含む再販もの。今回は1956年から1965年までのライブを網羅して1枚おまけがついた11枚組になっている。時は流れてディースカウの80歳の記念だそうだ。私は、85年の時も5枚のうち2枚を買った。その時は、CDとLPが同時に発売された。ずいぶん迷って結局CDの方を買った。古い音源なら妙に音の固い当時のCDより、むしろのLPの方が良いのではと悩んだのだが、再生できる環境がもう長くは続かないだろうとその時は思った。長い間その判断は正しかったと思ってきたが、今こうして廉価で再販ものが手に入るようになると、LPを買っておけば良かったと思ったりする。いいかげんなものだと自分でも思う。
カード会社への請求は、\6,410となっていた。だいたい1£=\130強のレートになる。さて、その20余年前に買った国内版のこのディースカウのライブのCDは1枚\3,500もした。帯に書いてあるから間違いはない。2枚買ったから\7,000になる。当時も貧乏であった私にはおいそれと5枚全部は買えなかったのだと思う。それが、いま11枚組でこの値段だから、やはりこの手の商品の流通はどこかおかしい。
2008年2月11日 工房日誌に掲載
ハイペリオンhyperionのシューベルト歌曲全集(Complete Songs (Box)から、何枚かのディスクを適当に取り出して聞いている。このシリーズは前にも少し触れたが、バラ売りされているものは歌手ごとに一枚にまとめられているが、全集では経年の編集がなされていて、一枚のディスクに複数の歌手の録音がまとめられたりしている。というかほとんどのディスクがそうした構成になっている。しかしながらおざなりな全集物にありがちな安易な寄せ集めという雰囲気がない。録音は長期にわたったようだし、歌手の数も60人に及ぶ。ただし、伴奏は一人。音楽出版社としての企画がちゃんとしているのだと思う。
先日、大阪の国立文楽劇場で文楽を観劇してきました。夏休み文楽特別公演と言うことで、演目は三種ありましたが、夜の第3部の大人向けのものを観ました。
演目は、以下の通りです。
蝶の道行ですが、その情景の概略は以下の通りです。当日のパンフレットから引用します。
いがみ合う
近藤郡司兵衛 の一子助国 と越野勘左衛門 の妹小巻 とは相思相愛の中です。しかし、二人は若殿靫負之助 と弥生姫の身代わりに亡くなります。二人の思いは雌雄の蝶となり、ありし日のことを振り返り舞っていましたが、やがて修羅の迎えに、地獄の責めを受けることになります。
ようするに、それぞれの主家の身代わりになって死んだ恋仲の二人の死出の道行という事のようですが、何ゆえ二人が蝶になり、しかも後半の狂い
と呼ばれるような乱舞の責め苦を受けなければならないのか、そのあたりの事は良くわかりません。カタログによると、もともとは歌舞伎の
実は、私は少し前から三味線を習っているのですが、そのお師匠さんが娘時代にこの蝶の道行を御姉妹で踊られたそうです。それもあってこの演目を勧めて下さったのですが、ご自身は懐かしさもあって二度これをご覧になったそうです。
さて、肝心の中身ですが、圧倒されました。少し触れたように死んだ恋仲の二人の死出の道行の話なのですが、最初は生前の二人のなり染めなどが互いに語られます。カタログに付属した
・・・馴れ染めにしは去年の秋、・・・私が振りの田舎染め、お前の差してござんしたお腰のものにかかったが、結び染めたる初恋路、・・・
ヲヲわれとてもひたすらに口説くこころの切なれば花によそへし返り事
続けて、娑婆と冥途も初春はいづれ賑ふ門松の徳若に御万歳と来世も栄えましますは、
と明るい踊りになります。これも、あとの歌詞から門付けの万歳を模したものなのでしょうか。
しかし、やがて三途の川の櫓拍子揃へてヤアシツシ死出の山
と、唄われ、助国と小巻の衣装が白地の死装束に蝶の羽紋を思わす黒い文様の入ったものに変わります。狂い
と称される激しい踊りが繰り返され、やがて力つきたように二人は重なり合って倒れます。
文楽ではこのような舞踊中心の出し物を狂い
と言うすさまじい踊りで終わります。その間、大夫、三味線、それに人形使いの床を踏む音の強烈なリズムが緊張感を高めて行きます。それに合わせて、二つの人形が、蝶が舞うように飛び、離れ、絡まるように踊ります。目と耳とそれに全身を包むようなリズムに圧倒されます。
前に正月の公演で観た慶事の出し物・
道行 - 浄瑠璃や歌舞伎狂言の中の舞踊による旅行場面。主に相愛の男女が連れ立つところから、かけおちの意にも使う。( 広辞苑・第5版より引用)
2007年8月12日
アイルランド民謡から、W.B.イェイツが採譜したという、ダウン・バイ・ザ・サリー・ガーデンズの歌詞は、五十を過ぎたオヤジには、せつない感慨を呼び起こします。
サリー・ガーデンズ
柳の庭で、僕は彼女と逢った。
庭を駆ける彼女の足は、
小さく白く雪のよう。彼女が言った。
恋なんて当たり前でフツーなこと、
葉っぱが木に繁るようなもの・・・
若くてマヌケな僕は、
そんなんじゃない、と言う。川辺の野原に僕たちはいた。
寄せ合った肩に彼女の手が伸びる
やはり白く雪のよう。
彼女が言った。
これからも、なるようになるって、
あの土手にだって草が生える・・・
若くてマヌケだった僕は、
今、後悔に泣くばかり。アイルランド民謡 : ウィリアム・バトラー・イェイツ採譜 : 拙訳
この歌のまっとうな解釈(訳)は、だいたいこんなところでしょうか。イェイツの英訳は末に載せておきます。
恋なんて、みんな当たり前にやっていること。もっと素直にお付き合いしましょうよ。
という彼女に対して、若くてアホウな僕は、いや違う。恋することによって僕たち二人は、お互いの人格を高め合って云々
と屁理屈を並べて・・・。結局、自分の気持にすら素直になれなかった私は、せっかくの彼女の思いやりを理解できなかった。そうした情景を思いうかべることが出来ます。
でも、これはイェイツが19世紀にアイルランドの田舎で採譜した民謡でしょう。もっと俗で、エロチックで、えげつない歌だったのではないでしょうか。" She bid me take love easy, As the leaves grow on the tree; " の" love " というのは、" make love "と言う意味での" love "ではないのでしょうか。すると、歌詞の意味する状況はもっと具体的なものになります。
多くの男性が経験したであろう多少なりと似た状況を記憶の深いところで連想させる歌詞が、甘いメロディーに乗って歌われる。それで、この歌は日本の私たちにとっても何か懐かしいような親しみを感じさせてくれるように思います。
この歌が聞けるディスクを何枚か紹介します。
1枚目は、ベンジャミン・ブリテン編曲のいわば一番まっとうで正当なもの。先日、NHKのアーカイブで、私の生まれた年・1956年のブリテンとピアスの日本でのライブの映像で、これを歌うのを見ました。2枚目は、今はやりのセルティック・ウーマンのメンバー Órla Fallon (オーラ・ファロン) の歌唱。やはり、聴かせます。納められた曲が、すべてアイルランドの古いラブソングで泣かせます。3枚目は、ご存じ clannad のライブ。エンヤの姉のMoya Brennan ( モイア・ブレナン)のライブでの歌唱が聴けます。変に電気的な処理をされたエンヤより私はこのモイアの自然な録音が好きです。
Down by the Salley Gardens
Down by the salley gardens
My love and I did meet;
She passed the salley gardens
With little snow-white feet.
She bid me take love easy,
As the leaves grow on the tree;
But I, being young and foolish
with her would not agree.
In a field by the river
My love and I did stand
And on my leaning shoulder
She laid her snow-white hand.
She bid me take life easy,
As the grass grows on the weirs;
But I was young and foolish
And now am full of tears.
An old song resung by William Butler Yeats
2007年7月14日
別のところでも書く予定ですが、夜の時間を読書で過ごす習慣が復活して、そのBGMとして音楽CDを流す時間も増えました。
今、クラシックの輸入CDは様々なレーベルから廉価で良い企画のものがたくさん販売されています。何時頃からこうした動きが出てきたのか、良く知らないのですが、これに見事にはまりました。魚河岸に猫を放てばかくありなんとばかりに、めぼしいCDを買い漁り美味しいところをつまみ食いしては、また買い漁りという事を繰り返していました。パソコンに向かう時間がぐっと減ったのですが、メールチェックと、こうした廉価版のCDを探して購入するためにだけディスプレイを覗きキーを叩いていました。
このアンネ・エランドのベートーベン・ピアノソナタ集は、最近の廉価版の特徴を良く現したディスクです。ベートーベンのピアノソナタ全32曲が、10枚のディスクに納められてします。演奏は、Anne Oland (Øland )という1949年・デンマーク生まれの女性です。録音は紙ジャケットおよびボックスの記述によると1995年から2002年にかけてで、一度発売されたもののようです。その版権を、Membran International Gmbhというレーベルが買い取ってボックス化して再販したもののようです。価格は、私はこれを@TOWER_JPで購入したのですが、なんと、\1,672・(税抜き)でした。一枚あたりの単価ではありません。上の画像のような10枚組のボックス化したパッケージの価格です。
演奏は端正で強いタッチの安心して聴ける良いものです。ながら聞きでも邪魔にならないし、まじめに聞き入っても全曲通してその世界に入っていける構成力のようなものも感じます。演奏者は、決して高名な人ではないようですが、ちゃんとしたキャリアを持ってまじめに研鑽を積み重ねてきたであろう現役の演奏家です。イメージを検索すると、パッツンパッツンのショートヘアの同世代(そう言ってもいいですね)の女性の姿があります。録音も比較的新しく、オンマイクで不用な残響を排したきれいな音で録られています。もう少ししっとりとした響きがあっても良いかなと思う事もありますが、それは最近CDプレーヤーが壊れて買い換えたせいかもしれません。
このディスクは音楽とかその演奏に、ある種の精神性やら哲学のようなものを求める人にはきっと不満だと思います。オーディオ的な
これまでも、内外のレーベルでも廉価版のシリーズが発売されてきました。それは、そのレーベルに属したそれなりに名の通った演奏家の、これまた良く知られた名曲の寄せ集めにすぎませんでした。多くは20年、30年前の古い録音か、同じレーベルに新しく録音しなおして価値のなくなった以前の録音ばかりです。そして同じような内容のものが少し名前を換えて5年おきくらいに繰り返されます。それは企画の名にすら値しない惰性で最近はショップでそうしたシリーズが並んでいても見もしません。多くの古くからのクラシックファンもきっと同じ思いでしょう。それに廉価版といってもだいたい価格は一枚1,200円から2,000円くらいに設定されていて、すでに再販を繰り返し償却の終わった音源で、ずいぶんとアコギな商売をするという印象ばかり残ります。
最近の海外レーベルの廉価版は、もちろん再販物が多いのですが、けっこう新規の録音もあります。それに再販のものも比較的最近のもので、演奏者も曲目やその構成も新鮮なものが多いように思います。その分、プロデューサーの眼力と見識が問われます。それに、圧倒的に低価格です。このあたりは廉価版の老舗・NAXOS(NAXOS JAPAN)に範をとっているのかもしれません。少なくともひとつの標準とはなっているでしょう。
最近よく購入する廉価版専門のBrilliant Classicsというオランダのレーベルがあります。1996年設立の若い会社です。そのサイトのトップに11ヶ条にわたってその設立趣旨のようなものが挙げられています。このレーベルに限らない最近のヨーロッパの廉価版の企画の方向を現しているように思います。意訳ですが、その中からすこし引用します。
ブリリアント・クラシックスの設立の趣旨は
- 初心者のためのセットから専門的なものまで音楽を愛する幅広い人を満足させるレパートリー
- 将来を嘱望される新しい才能と現在の有力なアーティスト双方による新規録音
- 歴史的楽器を使用したアンサンブルによる古楽
- 高名または無名の作曲家の全作品を網羅した全集
- 著名レーベルの重要なまたは歴史的な録音の再発行
などなど
このレーベルのカタログを眺めていると、だいたいこの趣旨にそってレパートリーを広げているのが分かります。面白いのは、この最後に品揃えの増加には、紙パッケージで対応
といった主旨の事が書かれている事です。たしかに現行の標準のプラスチックのCDケースは、機能の面からもスペースファクターという面からも使いずらく不便なシロモノです。特に最近は成型の質がさらに悪くなったのか、CDを保持するためのセンターの穴に嵌め込む部分の精度が悪く、取り出す時にCDが割れるのではないかと思わせるものもあります。少なくとも何度が出し入れを繰り返すと、多少なりと穴が変形して読み取りエラーを引き起こす原因にすらなりかねないと思います。その意味では廉価版レーベルが採用しているボックスに紙のパッケージというのは、機能・収納の両面で合理的で良いものだと思います。
2007年3月24日
あたしの恋人とジャック・チボー(
チボー家の人々)
あたしの恋人は 飛行士で
初めての 空を 飛んだ時に
真赤な炎 吹き上げながら
落ちてきたけど 死ななかった
谷山浩子さんの「あたしの恋人」を初めて聴いた時、これはジャック・チボーを歌っているとたちまち思いました。もう三十年前の学生時代の事です。当時おなじ寮にいた同級生の岡田直紀君が谷山さんのファンで、この歌が収録されたLP・『鏡の中のあなたへ』を持っていて、彼の部屋で聴かせてもらったように思います。
ジャック・チボーは、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの小説・『チボー家の人々』の主人公です。私はこの長大な小説を大学一年生・19歳の時に読みました。A5版に上下二段組にびっしりと細かい活字で、全5巻でした。ハードカバーではなく、本の上端は裁断もされていません。しかし、ちゃんとしおり紐はあるし、簡素な箱入りで、パラフィン紙で表紙は覆われています。簡素で実用本意でありながら小粋な雰囲気の装丁です。一巻・800円と言う値段は、当時としても安くはないが購入をためらうほどには高価でなかったと記憶してます。良書を、なるだけ安価にしかも相応の装丁を施し長く愛読してもらおうという出版社(白水社)の意気込みを感じます。
それから、いくども転職、転居を繰り返しましたが、おかげで、外箱は相応に痛んで変色もしてますが、中の本は虫に食われることもなく、変色もなく充分に読み返せる状態です。当時は、本を読み終わるとその奥付のところにその日付を書き込んでいましたが、この本の第一巻の奥付には、1975.9.26
と書き込んであります。当時の日記を見ると、一巻から三巻あたりまでは年明けの冬にかけて読んだようです。それから、三年ほどしてからまた思う事あってか残りを読んだようです。79年1月9日付の日記に、今はまたほぼ3年振りで『チボー家の人々』を読みはじめている
とあります。『鏡の中のあたなへ』が1978年12月5日の発売となっていますから、わたしが、ジャックの最後と残されたジェニーと兄・アントワーヌのエピローグを読んだのと、この歌を聴いたのは、ほとんどおなじ時期だったのだと思います。それだけに、強い印象をもったのでしょう。
カソリックの新興ブルジョアの家に生まれたジャックは、出奔し第一次世界大戦の前夜スイスで反戦活動を行っています。開戦と同時に多くの他の活動家や同志が国家的ファナティズム(狂信主義)や民族的偏見に絡め捕られ、好戦論に転向します。ジャックはパイロット
と呼ばれた同志と共に、飛行機で前線に飛んで反戦ビラを撒く事を計画。が途中で飛行機は墜落。ジャックは瀕死の状態でフランス軍に収容されます。しかし、敗走の途中でスパイとして邪魔者扱いされたジャックは負傷兵の移送を担当する老兵に射たれ遺棄されます。
死の飛行の前にジャックは何とか戦争を回避する方策はないかと裏切り・打算・無関心とファナティックな熱狂の中を奔走します。その数日を共にしたのがジェニーです。エピローグでは、戦争が終わった後のジェニーがアントワーヌとの会話を通して紹介されています。かつてのエキセントリックなまでに感情の起伏激しく多感で不安定であった少女が、ジャックの意思と残された子どもを守るけなげな若い母親、そして何があろうと決して動じないであろう堅忍不抜の平和主義者・共産主義者として描かれていたように思います。その姿にけなげというより、ジャックを亡くした悲しみの深さをより強く感じさせて、かえって痛ましくすら思いました。
谷山さんの歌はこう続きます。
それから今まで 生きつづけて
あたしのとなりに 今もいるわ
これからもずっと このままだと
あたしの髪を なでながらあたしは知ってる あの人が
夜ごとの眠りに夢みるのは
あの日の きらめく 風の中で
燃えつき砕ける 自分の姿
夢から醒めれば またためいき
あたしのからだにしがみついて
光のかわりに暗い汗を
風のかわりにくちづけを
なんでもいいから、ジャックには生きていて欲しい。たとえ異形の寝たきりの姿でも、神経に深い傷を負っていても生きていて欲しい。そうした思いを、想像の世界の中で寄り添うジェニーの独白と言う形を借りて、表現している。少なくとも私は、そう聞いてしまいます。実際には、歌のモチーフは別にあるのかもしれません。私は、特に谷山浩子さんのファンでも熱心な聴き手であった分けでもないので、そのあたりの事は良く分かりません。それに、まあどうでもかまいません。
本当に、30年の月日が経ってしまったのでしょうか?この本を読み始めたとき、ジャックの身の上に起きる事が見につまされて、苦しくて切なくてそのまま読み続ける事が出来ずに、本を開いたまま机に裏返して閉じてお茶を飲んだり、散歩に出たりしました。谷山さんのこの歌を聴いていると、今、あの頃のようにたまたまそうして外に出ているだけで、さあ、もう一度下宿に戻ってあらためて読み返そうかと思ったりします。
この歌と本については、まだ書きたい事があります。もう少し続けます。
2006年5月19日
Schubert: The Complete Songs, Vol. 21 - Schubert,1817-1818
今から三十数年前のたしか中学生の頃、私はテレビでエディット・マティスの演じるフィガロの結婚のケルビーノを観ました。
これは、記憶と言うよりむしろ妄想に近いかもしれません。実は演じていたのが、マティスであったのか、役柄もケルビーノであったのか、それとそもそも観たのがフィガロの結婚であったのかすら確信が持てません。当時、マティスの名前すら知らなかったはずですし、フィガロの結婚がどういう芝居かも知りませんでした。おそらく生意気な中坊の高踏趣味気取りで、NHKの教育テレビか何かのチャンネル選択権を主張したのでしょう。そして、その後の様々な記憶の断片を寄せ集めて、おれは中学生のころエディット・マティスの演じるケルビーノを観た!と思い込んでいるのだと思います、きっと。でも、まあそんな事実がどうのこうのとかは、どうでも良い事です。もう若くない私にとって、勘違いや思い込みも許されるでしょう。大事なのは、私の中にある美しくも艶かしい残像です。
記憶として頭にあるのは、白人の女性としては小柄で、小顔で、ショートヘアのたいへん可愛らしい妙齢のソプラノが、小姓の役を演じる姿です。それだけでも、田舎の中坊としてはたまらない倒錯の世界でした。それが、おなじソプラノの伯爵婦人に恋をします。そして、これまたソプラノのスザンナのリュートの伴奏で、恋とはどんなものかしら
と歌います。この女三人が演じる舞台のこの場面は、秘められた本来覗くことの出来ない耽美が突然目前に晒されたと言う感じだったのでしょう。そして、脳髄と下半身が同時に反応してしまうような中学生にとって、その真ん中にいたのが、小さくボーイッシュで、でもたまらなく可愛らしく、それでいて当時のわたしにとっては充分に大人の女性であったマティスでした。
このディスクは、冬に大阪の梅田に所用で出た折にWalty堂島で購入したものです。今は、近くに輸入盤も含めたクラシックのまともな品揃えのショップがないせいもあって、ディスクはオンラインで購入する事が多いのですが、この店は大阪に出た時には多少無理をしても時間をとって寄るようにしてます。Naxosとかこのhyperionと言った地味だけど優良なディスクを出版するレーベルや他の廉価で良い輸入盤のディスクが揃えてあり良いお店です。出店にあたっては色々あったようですが、何より良いクラシックやジャズのディスクを揃えて紹介したいという意気込みのようなものが店から感じられます。
このhyperionのシューベルト歌曲全集(Complete Songs (Box)は、かつてのフィッシャーディースカウのそれのような特定の歌手が全曲歌うと言ったものではありません。逆に曲に合わせて多種多様な総勢60名の歌手がそれぞれ一つ曲集やある年代の歌を担当しています。と言ってもお座なりな寄せ集めではありません。それは、歌手の顔触れや、中のライナーノートの表紙の写真の出来映えや統一間、何より曲ごとのつけられた立派な解説を読めば分かります。また驚くべき事に伴奏者は一人です。この全集では他にも、私の大好きなエリー・アーメリンクなども歌っています(Schubert:Complete Songs,Vol7-Schubert in 1815(1))。
ショップの棚にずらりと並んだこのシューベルトの歌曲集の背表紙の一つにマティスの名前を見つけた時は驚きました。もう最近は舞台はもちろん新規の録音も長らくしていないと思っていたからです。ですから嬉しかったのですが、棚からディスクを取り出すには、少しためらいもありました。このシリーズのジャケットの表紙は受け持つ歌手の最近のポートレイトが、おそらくは手慣れた専門のプロによって撮られて載せられています。その最近のお姿を拝見するのが、やはりためらわれたのです。
それはご覧の通りです。おばあさんと言うには失礼でしょうが、大人の女性とくくるにも少し無理のある年齢に達しているようです。他人に姿をさらす事を生業としてきた人のある種の雰囲気とか品の良さはさすがですが、初めて対面される若い人には、そこにあんなにも素敵に可愛らしいケルビーノの役柄を当てはめてみるのは難しいでしょう。でも、かつてあこがれていたガキもこの通り50がらみの汚いオッサンに成り果てたのですから、時間はだれにでも平等に流れます。
肝心の演奏ですが、驚きました。これまた失礼な話ですが、このジャケットの方が歌っているとは思えないような艶やかで甘い歌声です。かつてあこがれた少しの倒錯と甘美な世界を見せてくれたお姉さまの美声です。データから録音されたお年を換算するのもやめますが、職業とは言えこうしたコンディションを維持されると言うのは本当に素晴らしいことだと思います。hyperionのこの企画が、このように良いコンディションを保ちながら機会に恵まれないかつての名歌手に、新しい録音の場を提供しているなら、これも良いことです。
Es mahnt der Wald, es ruft der Strom:
"Du liebes Bübchen, zu uns komm!"
Der Knabe kommt, und staunend weilt,
Und ist von jedem Schmerz geheit.
目を閉じて聞いていると、頭の中がグニャグニャになって過ぎこし三十数年の時間を行きつ戻りつしながら、自分をかつての記憶の断片断片の世界に誘ってくれます。時間は平等に流れます。どんなに流れても、年齢の差は変りません。今のマティスになら、このオヤジのこともDu liebes Bübchen!
(ねえ、可愛い坊や!)と呼び掛けられても罰は当たらないでしょう。その声に誘われて行けば、歌の通りに森や河が私のすべての悲しみを消し去って、穏やかな眠りに導いてくれるのでしょうか。このディスクをかけたしばらくの間はそうした幸せな世界に逃避させてくれます。
2006年4月29日
Fremd bin ich eingezogen ,
Fremd zieh ich wieder aus.来たときは
余所者 で、
出ていく今も、
やはり余所者 。
陳腐きわまりない話ですが、今の季節になると、シューベルトの冬の旅が聴きたくなります。で、ショップの声楽のコーナーでピンとくるものがあると、つい買ってしまいます。家の中に、何枚の冬の旅があるのか、こわくて数えていません。
このディスク・Schubert: Winterreiseも、先日ショップで目にして買ったものです。イアン・ボストリッジというテノールについて全く知りませんでした。帰って調べたら、イギリス人のインテリで30才を過ぎてから声楽をはじめたと言う変わった経歴の持ち主です。デビューは、ロンドンのウィッグモア・ホール。これは、この春ロンドンに行った時、うつぼ地球クラブの山崎さんに連れていってもらいました。イングリッシュ・コンサートによるテレマン、ビバルディなどの瀟洒で小粋なコンサートでした。昼間のロンドンは、肥満および肥満予備軍の東欧系や黒人、インド・アーリア系、アジア人ばかり目についたのですが、地のアングロサクソンは、こんな所に待避していたのかと思いました。総じて高齢者が多かったのですが、背筋の伸びた痩身に華美ではないが、相応の整った身なり。昼間のロンドンとはずいぶんと違います。こうした中で、デビューし名を上げてきた歌手のようです。
演奏自体はたいへん気に入りました。このボストリッジという歌手も、ジャケットの写真を見ると長駆痩身、多少神経質そうな風情です。その印象か、細く乾いた声に聴こえますが、それがこの曲集のイメージに良く合います。ドイツ語の発音も、かえってちゃんと聞えます。古くは、スゼーとかアーメリンク、それに今ならオッターとか白井光子さんのように、ネイティブなドイツ語圏以外の歌手のほうが、わたしなどにはドイツ語の発音がむしろ奇麗に思えて、詩の持つ意味を大切にしているように思えます。
かつて評判の高かったハンス・ホッターとか若いころのヘルマン・プライとかは、声が鼻にかかり、モゾモゾ歌っているようで好きにはなれませんでした。プライは、1998年に70才を前にして亡くなります。いつも年末のこの時期、その年に物故した音楽家の特集をNHKで放映しますが、晩年のプライのリートのコンサートをテレビで見ました。若い頃のプライには、いかつい体に短い首の上の四角い顔という魁偉な容貌がイメージがあったのですが、年をとって白髪の小さな初老の紳士になっていました。ただ、逆にとてもチャーミングで色気さえ感じさせ、若いときよりずっと素敵に思えました。歌も心をこめて語りかけるようで、聞き惚れてしまいました。人間は、こんな風に奇麗に年をとり、晩年を迎えることも出来るのだと本当に感心しました。
Wunderlicher Alter ,
soll ich mit dir geh'n ?
Willst zu meinen Liedern
deine Leier dreh'n ?
ジジイ!
一緒に行っていいか?
オレの歌に合わせて、
伴奏してくれや・・・
2005年12月18日
一昨年の年末か年明けか、ちょうど今のような寒い時だったと思います。いつも定点観測しているCDショップの声楽のコーナーで、本田美奈子さんのAVE MARIAというアルバムを見つけました。はじめは、クラシックの歌手にも同姓同名の歌手がいるのかと思い、手にしてジャケットの写真を見ると、どうもあの本田美奈子さんらしい。
本田美奈子さんと言うと、我々の世代には、短いパンツかスカートでおへそを出して、腰を振ってマリリ〜〜ン
と歌っている姿を思い浮かべます。20年も前の事になるのですね。今は、普通の素人のお姉さんも、ローライズ・ジーンズでおへそや下着を出して町を歩いていますが、当時はずいぶんエキセントリックで、ハスッパなおネエさんという印象でした。その後、しばらくして、HELPという歌が子どもの虐待防止のキャンぺインソングか何かになって、そうした真面目な活動をする子なんだと思ったのを記憶しています。
その後、アイドルで売るのをやめて、舞台で活躍しているという事を耳にした様な気もしますが、興味もなく忘れていました。
この本田さんのアヴェ・マリアというアルバムは、ライナーノートによるとクラシカル・クロスオーバー
とかいうジャンルにあたるそうです。そういえば、クラシックの様々な演奏家が、ほかのジャンルの音楽を手がけるという活動を日本でも始めていたようです。古くは、クレメールとかグルダが、その先駆けになるのでしょうか。ただ、本田さんのように、アイドルとかポップスからクラシカルな音楽に取り組む例は珍しいそうです。
アルバムそのものは、とても素敵なものでした。選曲も本田さんの意向によるものだそうですが、多岐にわたるもので、いわゆるオペラのアリアというのはプッチーニとヘンデルの二曲だけです。タイトルになっているアヴェ・マリアも、有名なシューベルトやグノーのものではなく、ルネサンス期イタリアのジュリオ・カッチーニという人の曲です。私は知りませんでした。声質とか音域に合わせたのかもしれません。それでも、いわゆる裏声の高音域も奇麗に声量も豊かに歌い上げています。ずいぶん頑張ってレッスンしたのでしょうね。低い音域では、アイドル時代の歌を思い出させるような少し舌足らずな発声になります。若い子なら、甘ったれた声を出すなとなりそうですが、本田さんの場合、お年相応の色気というか艶っぽさを感じさせて素敵です。何より良いのは、ちゃんと奇麗な日本語で歌ってくれている事です。本田さん自身が、外国の歌であっても、日本語で歌うという事にこだわって、岩谷時子さんなどの訳で歌ったそうです。
少し前までは、日本のオペラ歌手
と称する人たちのが、日本の歌、日本語の歌を唱うと、日本語になっていませんでした。何を歌っているのかさっぱり分かりません。私たちの美しい日本の言葉を、どうしたらこんな汚いがなり声に貶める事が出来るのだろうと思いました。特に、女声・ソプラノと言われる人たちがひどかったように思います。外国で声楽をちゃんと勉強するとこういう歌い方になるのよね、日本語は私たちの唱法には合わないのよね、という事が言いたいために、わざと汚い日本語で歌っていたのではとすら思いました。たぶんそうでしょう。鮫島有美子さんという美しいお姿のソプラノ歌手が、奇麗な声と、奇麗な日本語で日本の歌を唄ったCDを聞いたとき、何だちゃんと日本語で歌えるんだと思いました。それ以来、こうした無国籍ソプラノは一掃されてしまったようで、愉快です。今の若い歌手の人たちは、実力もあり、日本語で歌う場合、言葉を大切にしようと言う姿勢はうかがえて嬉しく思います。
本田さんの、クラシカルな二枚目のアルバム・時は、自信がついたのかオペラのアリアも含めたより本格的なクラシカルな曲を取り上げています。結局、これが本田さんの最後のアルバムになってしまったようです。聞き慣れたクラシックのいくつかの曲が、本田さんの奇麗に伸びる美しい高音、アイドル時代を思い起こす艶っぽい地声、それに奇麗な日本語で聞くことが出来ます。ドニゼッティの『人知れぬ涙』という美しい曲は、このアルバムで初めて知りました。もともと、テノールのベルカントで歌われる曲で、もちろんオリジナルなテノールでの歌もいいのですが、私にとっては、最初に聴いた本田さんの歌がこの曲のベストになりました。この中で、本田さんは歌っています。
もう何も怖くはない
命も惜しくない
ジャケットの写真を見ると、長い髪・御姫様のようなドレスがやはりお好きだったのでしょう。小さな顔・細い体には良く似合っているし、まだそうしたものが着れる若さでした。何よりせっかくここまでちゃんと歌を唄えるまで頑張ってこられたのに、死ぬのは怖かったでしょう。命は惜しかったでしょう。
2005年11月19日
マザー
母さん!ぼくはあなたの
所有物 だった。
でも、あなたは、ぼくのものではなかった、一度だって。
ぼくは、あなたが欲しかったのに、
あんたは、ぼくなんか要らなかった。だから、言ってやるさ。
あばよ。オヤジ!あんたはオレを捨てた。
オレは、あんたを捨てたりしなかったのに、一度だって。
オレは、あんたが必要だったのに、
あんたは、オレなんか要らなかった。だから、言ってやるさ。
あばよ。
子供達 !だから、
私と同じ事をしてはいけない。
私は、歩くことさえ出来ないのに、
走ろうとした。だから、言わなくていけない。
さようなら。お母ちゃん!行かないで! 父ちゃん!帰ってこい!
John Lennon / 拙訳
9.11以降、良くジョン・レノンのイマジンが、流されるようになりました。しかし、私には今の世界の様子には、この歌の方がふさわしいような気がします。
2005年11月19日
bald, bald, junglig,
order, nie !やがて、やがて、 若者よ、
さもなくば、決して・・・
8月27日は、関東方面のお客様の納品でした。排ガス規制の関係でいつもの車では乗り入れできません。前はレンタカーを使ったのですが、今回は時々仕事を手伝ってもらっているキュールという工房の車を運転手のアルバイトつきでお願いしました。なんと、カーCDがついています。私の車にはAMラジオしかついていませんので、得した気になります。
車で聴くなら、歌物に限ります。私の好きな静かな室内楽と言われるものは、ピアニシモが運転中の車の中では聞こえず、音楽になりません。で、手近にあったビートルズの廉価版のベスト盤を二枚と、バッハのマタイ受難曲、それにモーツァルトの魔笛 を持ち込みました。
マタイ受難曲は、辛気くさくなってすぐやめました。不謹慎かもしれませんが、少なくとも車の中で聴くべき音楽ではありません。ビートルズも一通り聴くと、何度も聞き流す気にはなれませんでした。当日は、一都二県のお客様の所を廻ったのですが、首都高速、外環、常磐道など、首都近辺の自動車道がいずれも渋滞で、思ったより時間がかかりました。それもあって、魔笛を三回ほど通して聴くことになりました。
今は、正直言ってこうしたオペラのCDを、行儀良く聴き通す事はありません。と言うか、昔からそうでした。しかし、他にすることとてない車中で、気楽にながら聞きをするのは、実に楽しい。セリフが、イタリア語のレスタティーボではなく、ドイツ語のヒラで話されるのも、何となく親しめます。
さて、あの序曲を聴くだけで、ワクワクしてきます。キダタローの吉本新喜劇のオープニング・テーマは、あきらかにこれのパクリです。
オレは鳥刺しパパゲーノ・・・♪
やあ、パパゲーノの登場だ・・・
私の心の中の死と絶望が・・・
そう言えば、昔、清水ミチコがこの超絶技巧の夜の女王のアリアをパロディにしたコマーシャルソングを歌っていたなあ・・・
タミーノ、この涙が流れるのは・・・♪
こんな風に泣かれたら、オレなら絶対に口を割る。
イングマール・ベルイマンの映画・『魔笛』では、タミーノとパミーナを演じる役者が実生活でも恋愛関係にあるという設定でした。舞台ではなく、控室のような二人きりの密室でこのパミーナのアリアは歌われます。モノクロの画面に、最後に後ろからタミーノの頬に当てた手を離しながら、慰めは死の中にしかない
と歌い去っていきます。若いころ、この映画を観た私は、このシーンでゾクゾクするようなたまらないエロティシズムを感じました。今も、このアリアを聴くと、二十年以上も前に見たこのシーンが思い出されます。
ベルイマンというのは、私の大好きな監督で、今まで観た映画の中で、何が一番好きか?
と言った本来答えようのない質問には、面倒だから、ベルイマンの『野いちご』と答えるようにしています。その、ベルイマンも魔笛が好きだったのだなあと、あらためて思います。
パ、パ、パ、パ!
・・・・・・
一通り聞いた後、このパパゲーノとパパギーナの幸せな重唱にたどり着くと、穏やかな幸せな気分に私もなれます。こんな、馬鹿馬鹿しいドタバタ芝居に、こんな美しい歌を書いてくれて、本当にモーツァルトはありがたい。
この、モーツァルトの愉快なオペラは、フリーメイソンの儀式や教義、メイソンで共和主義者のモーツァルトの思想云々で語られたりしてきました。が、
フヌケた事ぬかすなぁ!んなもの、関係あるかぁ!
この芝居は、幕開け早々、大きな蛇(竜)が出てきて、主人公のタミーノを追い掛け回して、タミーノが助けて!助けて!
と逃げ回るような荒唐無稽な田舎芝居です。芝居小屋の主宰者で演出家で、役者のシカネーダにも、鳥の羽の着ぐるみを着せて鳥かごを背負わせて、恋人か女房か、なんでも彼女が欲しい!
と歌わせています。メイソンの儀式や教義はこの芝居のネタではあっても、今更云々する必要はどこにもないと思います。モーツァルトは天下一品・空前絶後のエンタテナーではあっても、思想家でも政治家でもありません。ただし、この筋金入りのエンタテナーは、面白いネタであれば、いかがわしいシカネーダやポンテの台本であってもお構いなしの本当の自由人でした。年号が変わる前の自粛
騒ぎの中で、急にネクタイを絞めて、やんごとなき人
のネタを捨てたこの国の下らないお笑い芸人とは、根性が違います。
この天下の怪人・シカネーダには、パパゲーノが当たり役で、本人もたいへん気に入っていたそうです。モーツアルトの手紙には、シカネーダが舞台でパパゲーノを演じている時に、モーツアルトがいたずらをした事が、書かれています。たいへん愉快なエピソードです。ミロス・フォアマンの映画・『アマデウス』で、グロッケンシュピールを演奏するモーツアルトが、途中で倒れて、舞台のシカネーダが右往左往するシーンがありました。手紙の見事な翻案だと思いました。
良く指摘されているように、ストーリーの展開もデタラメだし、深読みするようなものでもありません。SFX映画がなかった頃の、スペクタルな大衆演劇と言ったところでしょう。ただし、音楽はモーツアルトで、全編これ珠玉のアリアが散りばめられており、結果すばらしく感動的なラストになっています。このあたりは、フィガロの結婚も同じだと思います。
2005年9月24日
2004年9月25日、28日。工房日誌に掲載
有合せ部品でアンプを組み立てて(7C5 シングル・パワーアンプ)、オーディオ遊びが、一段落すると、やはり自分で何かやりたくなります。今年の正月、文楽を見に行って、三味線がいいなと思いました。私は、いわゆる津軽三味線は、神経を逆なでされるようで好きではないのですが、端唄や長唄なら、日本の住環境にもピッタリで、しっとりしていいなあと今更再認識しました。ただ、今は、あたらしく習い事を始めるには、時間的・精神的・経済的な余裕がありません。
春に、あるお客様の所に納品に行きました。立派なお宅で、広い居間にセミグランドの立派なピアノが置かれていました。奥様が趣味で弾かれているそうで、最近はバルトークのミクロコスモスの全曲演奏を達成したとの事でした。
いくつか楽譜を見せてもらいました。バルトークのピアノ曲は、難解な管弦楽や弦楽四重奏曲と比べ、ハンガリーの民謡などをもとにした親しみやすいものです。子供向けのものもたくさんありますが、運指自体は優しそうに見えても、リズムとかレガート、ノンレガートをきちんと守らないと曲にならない、その意味では大人がちゃんと取り組む張り合いがあります。いまさら、ハノンやチェルニーは、やはり嫌ですもの。
バルトークの楽譜は、カワイ・ショッピング・プラザ 楽譜販売で購入しました。簡単な登録を済ませ、土曜日の夜、輸入楽譜も含めていくつかをオンラインで注文したら、月曜日には届きました。丁寧な対応と手際の良さには感心致しました。
さて、これらの曲や、バッハやモーツァルトの簡単な曲なら、ペダルも必要ないので、安いデジタル・ピアノでも遊べます。テレビはもともと見ませんし、実用以外のインターネットも飽きた、これが今の夜の楽しみです。
バルトークのピアノ曲のCDも、かなりの数あったはずですが、貸し出し・行方不明状態のものが多くあまり見当たりません。それもあって、まとまったものを欲しいなと思っていました。定点観測している店では、hugarotonレーベルの5枚か6枚組のピアノ曲全集のようなものを見つけたのですが、1万2千円以上してましたし、演奏家もまちまちで、古い録音の寄せ集めのようでもあり、やめました。
amazon.co.jpで、探したら、Bartok: Complete Solo Piano Musicと言うものがありました。演奏者や、録音日時、曲目といったデータは不明。ただ、Complete Solo Piano Musicとあるし、CD5枚組だし、それにしては、\2,443という何かの間違いかと言う値段だし、という事で注文しておきました。
ただし、あまり期待はしていませんでした。わたしが、amazon.co.jpで注文するのは、マイナーな輸入盤がほとんどと言う事もあるのですが、注文して、三月ほどして、下記のようなメールが来ることが再三あります。ハッキリ言って三回に一回くらいの割合で、こうしたスカをくらいます。
Amazon.co.jpをご利用いただき、ありがとうございます。
誠に申し訳ございませんが、大変残念なご報告があります。お客様のご注文内容のうち、 以下の商品については入手できないことが判明いたしました。
略(商品名)
お客様にこの商品をお届けできる見込みでしたが、現時点ではどの仕入先からも入手できないことが判明いたしました。お客様のご期待に背くお知らせとなりますと共に、お客様にご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
私どもでは、ごく最近までこの商品を入手可能なものと見込んでおりました。この結果がわかるまでに長い時間がかかったことについても、心よりお詫びいたします。
今回は、意外や早く商品が着きました。ちゃんとした五枚組のCDでした。演奏は、ジェルジ・シャーンドルというバルトークに直接師事したハンガリーのピアニスト。録音は1963年で、曲によってはテープのヒス・ノイズがありますが、演奏が始まれば気になりません。粒だったきれいなタッチが鮮明に収録されていて、惚れ惚れします。簡単な曲でも、上手な人が弾くと、すばらしい音楽になります。う〜む。
この五枚組のディスクが、税・送料込みで、\2,443ですから、得をした気分になりますが、この種の商品の価格設定の内外格差という事を、やはり考えてしまいます。
ポーランド系アメリカ国籍の作曲家・フレデリック・ジェフスキーの自演のアルバムです。
36 Variations on "People United Will Never Be Defeated!・"団結した人民は屈服しない"のテーマによる36の変奏曲以来、彼の曲・演奏のアルバムは注意して集めてきましたが、こうして、まとまって聴けるのは嬉しい限りです。長大なThe Roadという曲は初めて聴きました。
若いころのジェフスキーは、見るからに才気煥発・多少神経質そうな風情でした。それが、やはり自演のDe Profundisのジャケットを見るとエネルギッシュで脂ぎったオッサンになっていました。いま、この作品集の写真を見ると、仙人風の初老を間近にした哲人のようです。多少は演出もあるのでしょうが、その変化に驚かされます。
ちなみに、この7枚組のアルバムはオンラインで輸入盤を買いましたが、送料なしで\5,700ほどで購入できました。一枚当り、\800余となる計算ですが、簡素ですが小粋なパッケージを考えると違法コピーをするよりはるかにお買得です。これが、国内販売のものですと\10,000になります。こうしたふざけた価格差をつけておいて、著作権を振かざしたCCCDなる規格違反のコピーガード商品を考え出す国内業界の抵抗勢力体質にはあきれます。CCCDは、Linux(というかWindows意外のシステム)では、まともに再生できません。
上の二枚は、年末にCDショップのバーゲンのコーナーで見つけたものです。最近は、もっぱらオンラインで、輸入盤やマイナーレーベルのものばかり買っていますが、たまにショップに行くとこうしたものがあって楽しいですね。
ギドン・クレメールは、まだ旧ソ連時代に彼が正統派のバイオリニストだった頃、バッハの無伴奏パルティータ・ソナタのLPを買って聴いていました。その後の、ジャンル・国境を越えた活動は良く知られていますが、この二枚のCDもとても楽しいものです。
after mozartの中に、レオポルド・モーツァルトのKinder Symphonieが、入っていますが、大真面目な流暢な演奏に、色々なおもちゃのガチャガチャした音声が入れられていてケッサクです。演奏もそうですが、選曲や編集もおざなりな寄せ集めや、子ども騙しになっていません。eight seasonsは、あのビバルディの四季とともに、アストル・ピアソラの曲がカップリングされて、eight seasons
とされています。バロックや現代音楽との関わりについて云々されるピアソラですが、こうして一緒に聴くと、妙に説得力があります。
2004年1月8日
かつて、LPレコードを購入する時、そのジャケットは大きな要素の一つでした。もちろん、たいていの場合聴きたい曲があって、目当ての演奏家がいて、あらかたの目安はつけてから店に行きます。衝動買いをするには、かつてのレコードはあまりに高価でした。それでも、ジャケットのポップな面白さや美しさに惹かれて、つい購入してしまった事もありました。
この三宅榛名と高橋悠治のピアノデュオのアルバムいちめん菜の花も、そうした動機で購入したものの一枚だったように記憶しています。一面黄色い水彩で菜の花が描かれ、ポップな書体でアルバム名の書かれたシンプルな明るいジャケットは、取り出すだけで、わくわくする楽しいものでした。
アルバムの中身も、とても楽しいものでした。ピアノを習った人なら懐かしいシューマンの「楽しき農夫」の変奏曲。高橋の「パレスチナのこどものかみさまへのてがみ」、三宅の「北緯43度のタンゴ」など、知っている曲の知らない響きと、知らない曲のなつかしい音
というコピーがピッタリです。この中にある反ナチスのポーランド・パルチザンの歌「今日は会えない」が特に好きで、繰り返し聴きました。この歌は、加藤登紀子が自分のアルバムに入れていました。その中には、三里塚闘争で機動隊のガス弾の水平射撃により殺された東山薫さんを歌った「カオルの歌」も入っていました。ご両親の東山博さん・恵津さんの詩に高橋悠治が曲を付けたとても素敵な歌です。なお、これらの歌は日本音楽協議会編集のうたのひろば・3、うたのひろば・2に、それぞれ収録されています。
演奏には、シュタインウエイとベーゼンドルファーの2種類のピアノが使われており、その響きの違いを聴き比べるというオーディオ的な楽しみもありました。今は、コンサートグランドというとシュタインウエイがマイクロソフト並に独占していますが、ベーゼンドルファーというのもかつての名門メーカーだったそうです。実際にその演奏を聴いたことはないのですが、レコードで聴いてもその少しエコーの効いたような独特の柔らかい響きは好ましいものでした。そう言えば、かつてフリードリッヒ・グルダがモーツァルトのソナタを入れたときもこの楽器を使っていました。
何年か前に、久しぶりにこのレコードを聴いてみたくなりアナログプレイヤーを引っ張り出しました。しかし、もう摺りきれてしまって、とても聴ける状態ではありません。それで、もうこのレコードを聴く機会もなくなったと少し寂しい思いをしたものです。なにかウエッブを検索しているついでに、このレコードを捜していると、CD化され今でも販売されていました。ソッコウで注文して購入しました。届いたCDを手にした時は、正直少しガッカリしました。あの鮮やかな黄色の菜の花のジャケットも、CDのサイズに縮小されると、ちんけな安っぽい物にしか見えません。聴いてみても、たしかに懐かしいのですが、かつてyamahaの安物のシステムコンポで聴いていた時のような心踊るような興がわきません。
私自身が、くたびれてかつてのような感受性がなくなってしまったからかもしれません。しかし、そうではあっても、こうしたものは遠くにありて思い出すべきものなのかもしれません。
2003年2月18日