松田和美さんと私は、守口技専校の木工科で一緒に学びました。
京都教育大の美術科で彫刻を専攻された松田さんは、木工や、物作りを志すに当たっても、自分の中の彫刻とか造形といった素養や感覚が基礎にあったようです。入学当初、席が近くであった私は、松田さんから、現代彫刻の話を伺いました。ただ、私には、そうした事に、素養がありません。また、当時は、物作りには、伝統的な技法や素材や道具に対する知識を習得することが第一で、デザインとか造形といった点を、軽視、むしろ敵視すらしていました。そうした石頭のタコオヤジに何を言っても無駄と思われたのか、それ以降、松田さんとは物作りや、美術の話をする機会もありませんでした。
学校の修了前に、遠足でクラスで吹田の国立民俗学博物館に行きました。松田さんは、そこは初めてだったようで、展示されているアフリカの偶像やアンデスの土器に、いたく感動され、「これに比べれば、現代彫刻なんて何をやっているのか!ですよね。」とおっしゃっていました。やはり、松田さんの造形の発想の基本は彫刻なんだと、その時あらためて思いました。
在学中の松田さんの仕事には感心させられました。卒業製作は、片袖の学習机でした。材料や仕様の大枠はあらかじめ決められており、個人的なこだわりは出しにくい中で、松田さんは引き出しの取手にずいぶん時間をかけていました。引き出しの前板を彫り込んで、薄く削った赤いパドークという材を埋め込み、なおかつ内側に指の掛りをとった繊細で実用的な見事なものです。一見すると、手が込んだという点を感じさせない、さりげなさも素敵です。あらためて、作品を拝見して、框、引き出し、開き戸、全ての面を合わせたデザインの中で、四角い彫り込みの取手にこだわっていた意図が良く分かりました。
学校での製作とは別に、自分達で自由に作ったものを持ち寄った製作展を、修了に前後して開きました。そこに松田さんは、折りたたみ式の椅子を出されました。搬入当日、手ぶらで現れた松田さんは、「すみません。間に合わなかったです。」と言うや、ポロポロ涙を流し、泣いていました。それでも、出展していたほかの人に励まされて、会期半ばを過ぎた頃に、椅子を持って来られました。それは、オリジナリティーにあふれた、よく考えられた構造の、粋なとても素敵な作品でした。組手の部分やその精度も、難しいアホドメと言われる所もきちんと作ってあって、たいへんすばらしいものでした。当日会場に居合わせたメンバーが集まって、松田さんの話を聞きながら、たたんだり、伸ばしたり、裏返したりして、感嘆していた事を覚えています。その時、松田さんは、そうした折りには、いつも一緒に来ていた優しい穏やかな顔をした男性や、外国人を含む友人の方達と一緒だったと思います。照れたり、謙遜したり、みんなのおかげでと言ったりしながら、とても晴れがましい、満足気な表情をされていました。
松田さんの作るものは、装飾的な意匠を施したものではありませんでした。逆に、線と面で構成された、無意味な装飾を取り去ったモダンなものを志向していたようです。それでも、作ったものには松田さんの造形の素養やセンスを感じさせます。やはり、デザインとか造形といったものを一度きちんと勉強された方は違うなと痛感させられました。機能を第一にし、構造がシンプルになれば、逆にそれを構成するものの配置や形状、そのバランスによって、ものはやぼったくもなり、美しくもなる。そうした事も、少しずつ分かってきました。日本の古い指物家具が、今もとても粋で素敵なのに、それをまねてリメイクされたものが、どうしようもなく野暮ったい。昔の指物には、素材も含めた部材の構成や組み合わせに、尺寸単位で構成されたある決まった定型がある。そうした美しさを求めるなら、機能とか構造、仕様とか使い勝手といった面とは別に、造形というものに常に意識を向けなくてはいけない。
修了後、ある展示会で松田さんとお会いしました。その時、私はある組手の実験用に組んだ半完成の小さなテーブルを出していました。松田さんは、他の物でなく、その半製品を見て、「服部さん、それいいです。是非完成させてください。」と言ってくれました。その組手自体は、私のオリジナルでもなく、強度的な面の実験のつもりだったのですが、その実用的なシンプルさと三次元的な構成の面白さが、松田さんの気に入ったのでしょう。それから、色々と考えて、今は自分なりのオリジナルなテーブルの形を作っていますが、残念なことに、もうそれについて松田さんの感想を聞くことは出来なくなってしまいました。
松田和美さんは、この6月9日に亡くなりました。
その事を、私は2週間ほど経ってから、技専の同窓の人間から聞きました。亡くなる前の二ヶ月間は、入院して闘病されていたそうです。悲しいとか寂しいというより、その同じ時間を何も知らずに過ごしていた事に、申し訳ないと言う気持にさせられました。
7月6日、技専校の同窓8名と一緒にお宅に伺いました。お母様と二人のお姉様が迎えて下さいました。通された部屋には、小さな素敵な額に笑顔の松田さんのスナップ写真が飾られていました。松田さんの卒業製作の学習机の上に置かれたステレオから、小さな音でモーツァルトが流れていました。持参した御仏前も、本人の意志という事で固辞されました。生前、ある偶然で、松田さんは、自分の葬儀はこうして欲しいと語っていたそうです。御家族の方は、それを守っておられるのでしょう。生前の、自由で奔放であった末娘、末妹の思い出を語って下さる様子に、注がれた深い愛情を感じました。30歳という若さで松田さんは亡くなってしまいましたが、こうした御家族や、「私たちの中で一番女らしい」とお姉さまが笑って語ってくれた、優しい素敵な恋人と過ごしていたと思うと、やりきれない思いが少しほぐされたように思います。
私が守口技専に行かずに、松田さんのような方に出会うことなく、自己流の得手勝手で物作りを続けていたら、先に書いたような物を作るのに必要なある大事な点に、意識すらいかなかったかもしれません。それで、これは無垢の板だ、拭漆だ、釘や金物を使っていないと言って、エバって物を作り、売りつける似非「作家」に勘違いしていたかもしれません。松田さんが、残された木工の作品自体は少なくても、そうした思いは、私が物作りを続けていく限り、私のなかで生きていく事でしょう。
2002年7月8日