石巻ボランティアセンターの登録ボランティアとして構内にテントを設営、その依頼により4日間活動しました。
石巻専修大学の5号館に置かれています。広大な校内の駐車場に駐車、芝生の広場にテントなどの設営が許されています。
4日間の被災地での活動は津波に襲われたが倒壊を免れた地区の民家の後片付けでした。外からは分かりにくいし、あまり報道もされていないようですが、そうした民家の状況は悲惨です。地区によって多少違うようですが、いずれも2〜3日間は水が引かなかったようです。そうした室内にはヘドロが堆積しています。このヘドロを構成するのは、港湾部に堆積した文字通りのヘドロに、同じく港湾部にあって破損した漁船などの燃料や工場の化学物質、それに下水の汚泥が混じったものなのでしょう。黒く粘って滑りやすく、そして臭い。屋内はそのヘドロにまみれ、家財が散乱して畳は浮かび上がっています。洗濯機や冷蔵庫は倒れ、冷蔵庫の中のものは震災後10日以上を経過して溶け出し腐りかけています。箪笥類の抽斗は湿って空かず、中の衣類などがずっぽり水を吸って重い。無理に持ち上げようとすると合板の底板や裏板が抜けてしまいます。
倒壊を免れた家屋も、津波に襲われてしまったものはあらかたこうした状況です。もちろんそのままでは、そこに住まう事は出来ません。ヘドロにまみれた家財や畳をいったんは外に出さねばどうしようもないのですが、ヘドロに浸かり水に濡れた畳や箪笥はたいへん重く滑ります。男手一つは無理です。まして高齢者夫妻や女性だけの家族ではどうしようもありません。とりあえず自分たちだけでは搬出困難な大型家具や畳類は運び出す必要があります。自力での生活再建・避難所からの脱出はそれからの事になります。こうした世帯は石巻だけでもおそらく千とか万という単位でありそうです。広大な被災地全体ではいったい何万世帯がこうした状況で放置されているのが検討もつきません。一方で自衛隊や消防、自治体職員といった組織的動員力は、まだまだ行方不明者の捜索や瓦礫の撤去、ライフラインの復旧といった作業に向けられています。膨大な量の民間ボランティアの力が必要とされていると実感しました。
私はこれまでの職歴から、多少のいわゆる3K作業(キツイ、汚い、危険)は平気なつもりでした。それでも最初の3日間は現場にもボランティアセンターにも水道が復旧してなく、手も顔も洗えず、ヘドロで汚れた長靴や作業着、手足のまま戻るのは応えました。道具類もそのままです。自分たちのテントに戻り、介護用品の清拭用の石けんで手と顔を洗い、ウエットティッシュで消毒して食事や就寝の準備をしました。まあ、それも一日で慣れてしまいました。
震災ボランティアという言葉から連想される明るくヒロイックなイメージとはかけ離れた作業です。ヘドロにまみれながら濡れた畳や家財をひたすら運び出すのです。ただし、家具職人としての経験というのは、こうした作業でもずいぶんと役に立っていると思います。畳を含む大型の家具・家財を運び出すにあたって、まず家の中をざっと見回して、その導線を決めます。そしてその導線上を整理しながら順を決めて物を出していく。いつもの家具搬入とは逆のパターンになりますが、いわば習い性になっているそうしたイメージが3人の間ではあまり多くを語らなくても自然と共有できていたように思います。作業効率の面から大きなプラスです。加えて重い大きな家具を運搬する場合の勘所というか力の入れ具合というのもお手の物ですし、開口の幅や高さの読みとか家具の構造・分割方法の知識というのも特に意識はしなくとも役に立っていたと振り返って感じます。被災者の前で、いくらごみとして遺棄するものにしろ愛着のある家財道具を壊すのはこちらも抵抗があります。でも、時間や効率が必要な場合には、インパクトドライバーとか玄翁、チェーンソーなども駆使しました。
結局、4日間で都合7軒のお宅の畳・大型家具を運び出し、3軒の借家の家財道具一切をごみ集積場の200メートル離れた公園に運びました。被災者の方々から示された感謝の言葉やお辞儀の深さに比べて、自分たちの出来ることはこの程度だろうかと忸怩たる思いも多少ありました。しかし、今地元に戻ってあらためて振り返って見るとよくやった方かなと思います。ざっと私たちが見た範囲では、ボランティアとして実際の現場作業に出ている人たちの中では、おそらく杉山さん(60代)が最高齢で、次が私(50代)ではないかと思います。しかし、それに堀内君という30代の若い人を加えた私たち3人のは、民間ボランティアの中ではかなり強力な部隊ではなかったかと思います。
早朝、四日市発
9時40分頃、島田市工房悠発
山形市駅前ビジネスホテル泊
石巻専修大学内、石巻ボランティアセンター着。
JR石巻駅付近(
ボランティアセンター集発時に佐藤君合流。現地で林君、佐々木君合流。
早朝、被災地
午前、前日の続きの2軒の家具・畳の運び出し。(服部、堀内、林) 昼休みに港に。石巻出身で東京在住の医師と会う。付近で見つけた写真を託される。市役所でトイレ休憩、林君市役所避難所でボランティア登録(救命救急師として)。 午後、3軒(駅前北通り3丁目、東中里3丁目、依頼外の1軒を含む)の家具・畳などの運び出し。
夜、他のボランティアの要請で日和山1丁目の老人を
早朝、市内日和山公園で市内被災状況を視察(杉山、服部、堀内、佐々木、仙石)。港に降りる。その場で旅館を営みご主人の安否情報を求める女性に会う。(→被災地であった老婦人)
蛇田地区1軒の畳、ごみ集積場(公園)までの運搬、借家3軒のごみの公園への運搬。
名古屋市水道局の支援部隊と会う。
佐々木君、帰宅。夜、消防署近くの空き地の自衛隊入浴サービス。約2時間待ち。
前日の続き、蛇田地区3軒のごみ出し(杉山、服部、堀内、仙石)。(→被災の民生委員)
早朝、ボランティアセンター発
帰路、山形市百目鬼温泉入湯
22時頃、島田市工房悠着
25時頃、四日市着
4月2日
4月21日改訂