NHK製作のドラマ・『大地の子』が再放送されていました。内外の賞を取った良いドラマでしたし、若いとき中国という国にある種の思い入れのあった私にとっても、色々な面で大変印象的で、感慨深いものでした。
95年に放映されたとき、中でも深く考えさせられたシーンがありました。このドラマのテーマでもある中国残留日本人孤児の肉親捜しがはじまり、日本からの調査団が、長春で孤児達と面会します。面会の後、帰る日本の調査団を孤児たちが、長春の駅のホームで泣きながら、ある人は走り手を振り、送ります。あのホームには見覚えがありました。
もう、今から26年も前の事になりますが、1977年7月から8月にかけて、当時学生であった私は中国を訪れました。関東・関西の他の大学の学生と一緒の訪中団でした。既に国交が回復して4年が経っていましたが、まだ、日本から中国への旅行は珍しく、特にその時私たちが訪れた長春・瀋陽などの東北地方へのまとまった訪問団は、国交回復後初めてとの事でした。当時は、今と別の意味で日中友好ブームでしたが、本当の意味での友好関係を築くには、日本の過去の侵略の跡を、私たち若い世代が見ておく必要がある。そうした意図で、敢えてこちらから中国側に要望して、東北地方を訪問地に選んだのでした。
長春では、駅前の旧満鉄ホテル(春誼賓館)に宿泊しました。駅前から当時スターリン通りと呼ばれていた大通りがあり、自由時間に同行の友人と散歩に出ました。暫く歩いて、何気なく後ろを振り帰ると、私たちの後ろに何十人という人がついていました。他にあまり人通りとてない所でしたので、驚きました。当時の中国というのは、とりわけ外国人にとっては世界一安全と言われた治安の良い所でしたが、正直言って少し怖い気持になり、早々にホテルに引き返しました。肌の色や顔付きは似ていても、人民服の中で、Tシャツにジーンズという服装はとても奇異に見えたのも確かだったでしょう。それに、私たちを見つめる人々の眼差しの中に、好奇と興味だけでなく、何か刺すような殺気のようなものを確かに感じたような記憶があります。
『大地の子』で、残された孤児たちが長春駅のホームで、泣きながら手を振り、日本の調査団を見送るシーンを見て思い出したのは、この時の事でした。もちろん、私が長春の通りを歩いた時、まだ公式の残留孤児の調査は始まっていませんでした。ドラマのシーンの設定も、ずっと後の事になっていたと思います。あのシーンを見て、私たちの後ろについて歩いた人の中に、あるいは日本人残留孤児の人たちがいたのではないか。当時でも、口コミで日本の学生が長春に来るという情報が流れ、何かしら日本の情報が手にはいるかもしれない、あるいは、ただ単に日本人の姿を見てみたい、そう思って人が集まったというのは考えられない事でもありません。もちろん、今となっては、事実は分かりません。単なる思い過ごしかも知れません。ただ、一つだけはっきりしている事は、あの当時、あの町には、肉親を捜したり、故郷に帰るあてなどなく、日本の情報すらなかったたくさんの日本人残留孤児が、つまり多くの松本勝男やあつ子が住んでいたという事です。その事を私たちは知りませんでした。知ろうとしていませんでした。その事を知り、その事実の重みに気付かされたのは残留孤児の肉親探しが始まり、最初の訪日調査団が来た時でした。その中の一人の男性が、テレビを通した肉親への訴えで、号泣しながら”お父さん、お母さん、どうか会いに来てください。あなたの孫の顔を見に来て下さい。"と中国語で叫ぶのを見てからでした。
中国から帰って、この長春での体験を土産話の一つとして、何度かしました。それは、当時の中国東北地区の都市では、いかに外国人が珍しい存在で、自分達がいかに奇異に見られたかという、いわば面白おかしい茶化した話としてでした。とても恥ずかしいことです。日中友好どころか、日本人としてまず考えなければ、向き合わねばならない事実を知らなかったし、知ろうとしていなかった。同じ日本人が野蛮な犯罪国歌に拉致され、あるいは殺されているという事実がある中で、当のその国で"熱烈歓迎○○先生"とマスゲームで書かれて、酒宴に招かれ、ニヤニヤ笑っていた自民党や旧社会党の政治家と同じ事だったと思います。
2003年8月16日