この仕事を始めた頃は、
最近は堕落してしまって、比較的大きな箱物と呼ばれる仕事では縦框に対して棚口を1分とか5厘ほど控えるいわゆるちり
を取るような事もしています。また、剣留という仕口が本当に意味を持つのは、見附をカマボコ面のように全体として大きな面や装飾を付ける場合であって、切り面とか坊主面といった面取り施す時は、馬乗りとか
下の画像は先日の木工40人展で出展したクリのオーディオ・ボード(ローボード)とそのパーツ(横框)です。アホ
と言われる45度と異なる角度の留が4カ所、剣留が8カ所あります。ちなみにこのアホ留という呼称は、修行した関西でも今居る東海地方でも共通のようです。先日の木工40人展でブースの隣り合った建具屋の都築宏行さん(木工房)も、私の水屋箪笥の仕口を見てそう呼んでいました。良い名前とは思えないので、なにか他の呼称があればと思います。
私は、この手の工作には導付鋸を使います。下の画像は、そのアホ留の切断加工の様子です。逃げは取らずに
画像をクリックして拡大(左・アホ留、右・剣留)してご覧いただいても分かりますが、正確できれいな切断面が得られます(同じウインドウで画像が開きます。ブラウザの戻るなどでこの表示に戻ります)。
剣留のメス部分の加工は、トリマーで下穴を掘り深さを決めて鑿で仕上げます。クリのように比較的靱性がなく割裂しやすい材の場合、よく切れる刃物を使わないときれいに仕上がりません。
一カ所微妙なところがありましたが、他はアホ留、剣留ともきれいに着いています。前にも書きましたが(留隠蟻組・座卓の制作)、こうした加工・組み立ての場合、私は仮組というのをしません。またこうした比較的細い框の場合、叩いて組み上げて後から接合部分が離れない程度に軽くクランプで固定します。経験のある方はお分かりでしょうが、下の左の画像のような場合きつくクランプを締めると材がゆがみ留の先が開きますし、全体として上(この図の場合右に)に框全体が逃げてしまいます。
こうした細かい仕口や組み手の加工方法はいくつかの流儀があると思います。その都度治具を作って丸鋸盤かハンドルーターなどの電動工具を使って加工するやり方がまず考えられます。今ならこれが主流で一番まっとうな方法だと思いますし、現役の長いキャリアを持つ職人さんたちはそうしていると思います。少し話が脱線しますが、震災ボランティアに行った帰りの道で少し緊張もほぐれたか3人のうちで一番若い堀内君から質問がありました。墨付けは白書か鉛筆かどちらを使っているのかという内容でした。私は現にそうしているように白書と答えましたが、杉山裕次郎さんは鉛筆と答えました。これもある意味予想通りでした。
長い確かな職歴を持つ杉山さんの場合、こうした加工もきちんと精度を出した木工機械や電動工具に、これもきちんと木作りした材料に相応の治具を作って加工するのだと思います。私の私淑する杉山さんはその際の色々なノウハウをご自身のサイトで公開されています。その場合、墨というのは実際の加工線というよりも加工の目安となる勝手墨
の役割になります。その場合は墨は当然鉛筆などの材を傷つけないものでなくてはなりません。私も例えば丸鋸盤などを使って導付を取る場合などはいちいち白書による墨などつけません。繰り返しになりますが、最低限の木工機械と電動工具があれば、こちらの方法がまぎれも少なくまっとうな方法だと私も考えます。ただ私の場合は、木工機械はおろか電動工具さえ持たない、また使える環境にないアマチュア時代が結構長く、何でも手道具でやってしまうような発想が身についています。それに、ここでの事例のようにこの程度のものを1本作るくらいなら、治具を作って機械で作業するより、きちんと白書で墨をして手加工でやってしまった方が実際には早いのです。これをたとえば5本作るとなれば、私も治具を作って機械加工をするでしょう。現に定番化してある程度の数をまとめて作る場が多い椅子の場合はそうしています。
それと白状すると、私は手鋸で材を挽いたり鑿で材を穿ったり鉋で削ったりという作業が好きなのです。甘ったるいとか趣味と仕事は違うとか言われそうですが、それなくして何の木工かと思ってきました。
以下は蛇足に靴を履かせてようなものです。
今はこうした箱物でよく見かけるのは、板を矧いでビスケットジョイントというまあダボの代わりを使って糊でイモ着けした代物です。私はそのノッペリした姿が好きではないですし、あれをやるなら突板合板を使ってフラッシュ構造にしたほうが軽く、その分かえって強度的にも有利でよほど合理的だと思います。ただそれだと無垢の家具
というウリがなくなってしまうのでしょう。それに単純に板を矧いでガッとプレーナーを通す方がフラッシュ構造や框組で部材を作るより簡単で手間もかからないですしね。比較的若い木工家
の人があれを多くやっているようですが、そうすると大事な何かをなくしてしまうように思います。現に私が尊敬して私淑している人たちは例外なくああしたダサイ仕事をしていません。私もあれをやるようになったら、やりたくなったらもう終わりでこの仕事を辞めようと思います。