盆前に空き家となっている実家の整理をする。亡くなった父親の物もまだ完全に整理・処分出来ていないし、施設暮らしの母親の物はやはり手をつけにくい。昨年の父親の初盆の折に戻っても、もうそこがかつて半世紀以上自分が暮らした家だと分からなくなっていた。だからもうため込んだものも、その大半は記憶にないはずだから処分してもかまわないとは思うのだが。
大阪南港の中田木材工業に、買ったまま預かってもらっていた材木を引き取りに行く。何年か前に倒産した北海道のE林業の在庫品で、今頃はもうなかなか見られないような良質のクルミ材だ。2年以上も前に買って、昨年ある店舗の什器と内装用に使って残りはそのまま預かってもらっていた。この業界はそうした面でおおらかなところがあって、ずぼらな性格の私には助かる。
以前勤めていた会社が、南港にほど近く道中少し道をそれた所にある。昼一番の約束に多少時間があったので寄ってみる。スケールと呼ばれた酸化鉄によって赤茶けた門やスレート拭きの建屋の姿はどこにもなく、大きく小ぎれいな物流倉庫のようなものになっていた。私は、別にその会社に何の思い入れもないがその変貌振りに少し驚く。それに一応製鋼から圧延、それに出荷のためのストックヤードと加工施設のあった製造業の現場がこんな無機的で大きな集配場のようなものになったのを見るのはやはり寂しい。
それと、私が辞めてからこの会社ではいずれも製鋼の炉前で2件の労災事故があり、それぞれいずれも20代の若い社員が亡くなっている。私が辞めるときには、もう会社はその将来は展望出来ない状態であった。それで結局こうなるのであれば、もう少し早く少なくとも旧式の炉で若い現場労働者をむごたらしく死なせる前に稼働を停止するすべはなかったのかと改めて思った。たしかに小さな会社といっても下請け含めて300人の雇用を、どこかに軟着陸させるのはたいへんなことであったろう。だが、そんなことは人一人の命に代えられるものではないと今なら言うことが出来る。私自身が、この会社では労災でかなりひどい怪我をしている。運良くこの通り生きているし、後遺障害も残っていないが、その意味で他人事ではなかった。
今日は、仕事の打ち合わせでお邪魔したお宅でクララ・ハスキルのモーツアルトを、アルテックのA7、EMTのプレーヤーで聴かせてもらう。
誰だったかある高名な音楽評論家はオフレコでは、西洋音楽なんてバッハとモーツアルトだけあれば良い。あとはみなその亜流か出来損ない。
と言い放っていると読んだか聞いたかした記憶がある。私もそう思う。それに我々日本人には美空ひばりの歌がある。
関係ないが、美術評論家の洲之内徹は、藤田(嗣治)の絵は戦争画しかない、あとはクズだよ
と言ったそうだ(司修・『戦争と美術』)。何年か前に藤田嗣治の戦争画が一般公開されたとき、これも本当にその通りだと思った。洲之内徹という人も前に書いた絶対にお金を出してその本を買いたくない人の一人で、その「気まぐれ美術館」は『芸術新潮』連載時にはもちろん立ち読みだし、後に何冊かの単行本になってからも図書館で借りて読んだ。この司修さんの著作は、毎年この季節になると読みたくなる。そして東京国立近代美術館の
フォルテピアノとピリオド楽器によるモーツアルトのピアノ協奏曲全集。2005〜2006年の新しい録音の11枚組で4,330円というもの。
今日のような梅雨の中休みの日は、いつもの朝の散歩の時にその鳴き声をたよりに空にヒバリの姿を探してみる。空が青すぎず眩しすぎないのも良い。私は仕事(木工)も、趣味(読書とかオーディオ工作)も、そしてこうしたパソコン作業も目を酷使するので、よいリハビリになる。それにしてもこのヒバリたちは、この物騒な河川敷近辺のどこに営巣しているのだろう。毎年変わらず現れるので代は重ねているはずだ。犬の散歩のコースだし、猫もカラスもいる。サツキやユキヤナギの植え込みがたくさんあるので、その根元の奥の方かとも考える。ヒバリの鳴き声というのは、なんだか気ぜわしくその甲高さが時に耳に触るようで好きではなかった。しかしこのあたりでもやたらと増えたムクのゲーゲーという汚い声よりははるかに心地良いと思うようになった。
13日に終わった木の家具40人展2011では、久しぶりに仕事仲間や古くからのお客さんにも会う事が出来ました。12日(土)、13日(日)には500人以上の来場があったようです。この名古屋 木工家ウイークというイベントもすでに4回目で、中心になって運営してくれている工房齋の齊田一幸さんの変わらぬ尽力によるものでしょう。おかげで我々のような小規模家具工房、木工所に対する社会的認知も少なからず上がっていると思います。齊田さんや他の実行委員の人に頭が下がります。
さて、事後になってしまいますが、私の出展した仕事について受けた質問や問い合わせの応えも兼ねてこのページで解説していきます。よろしければご覧下さい。↓
いつもより少し早く起きて、サッカーのヨーロッパチャンピンズリーグ決勝を見る。特に海外サッカーのファンでもないが、美しいサッカー
を標榜するFCバルセロナが勝ったのは愉快だ。しかも場所はロンドンのウエンブレーで、相手はその地元で筋肉サッカーの代表ともいえるイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドだ。
カタロニア(カタルーニャ)とかその州都バルセロナというのは、私にとってわけのわからない所だ。だがたかだかサッカー、見るだけならそこに勝手に色々なものを投影させてもかまわないだろう。FCバルセロナのユニフォームのエンジと紺の縦縞は、かつての共和国スペインの最強最大のアナーキスト組合ー政党・CNT-FAIの赤と黒の旗を連想させる。ケン・ローチ監督の 『大地と自由』 で、POUMの兵士が首に巻いていたスカーフも赤と黒に染め分けられていた。屈強なマンチェスター・ユナイテッドの選手の間を軽やかに駆け抜けるイニエスタやビジャの姿に、バルセロナやマドリードや他の市街戦下の街を走るドゥルティやアスカソの姿をダブらせる。そういえばエンツェンスベルガーの『スペインの短い夏』の冒頭でバルセロナにおけるドゥルティの葬儀の様子が引用の形で描かれている。その熱い喧噪の様子が今やネット動画で見ることができるのだからありがたいことだ(El entierro de durruti )。この動画の冒頭BGMとして使われているのが、実際の葬儀でも集まった民衆によって歌われたというアナーキストの歌・「民衆の息子(Hijos del Pueblo)」だ。
こうした時はバルセロナ由来の歌を聴きたい。ルイス・ヤッカ(Lluis Llach)の"BARCELONA Gener de 1976"。あとに引用した解説にあるように、バルセロナでの凱旋コンサートのライブ録音のようだ。
ルイス・ヤッカを知ったのは、今からもう30年近く前に出た『帰らぬ兵士の夢 平和のための世界の歌 〜 ヨーロッパ編』(1983年 制作・発行(株)音楽センター)というLPレコードだった。ここには、主に政治的理由で祖国での活動を禁止・制限あるいは自身が国外追放とか亡命を余儀なくされていた10人のアーティストの歌が収められている。ルイス・ヤッカも上のCDにある2曲のライブが収録されている。もとは、フランスのシャン・デュ・モンド社から出されたそれぞれのアルバムから、昨年亡くなった芳賀詔八郎さんが1枚のアルバムにまとめたものだ。構成・プロデュース、訳から解説まで芳賀さんがされている。その博識と眼力、それに情熱は本当にすばらしい。
さて、このCDのライナーノートは、フランス語とカタロニア語(?)で書かれており、さっぱり意味が分からない。ルイス・ヤッカに関するネットの情報もカタロニア語とスペイン語のものが多く、英語でのまとまった物はない。それにもう現在では音楽活動からは引退しているようだ。ただ、例によって動画サイトで検索すると新旧さまざまな彼の歌を聴くことができる。若い頃の彼は、今日も途中から出場したFCバルセロナのキャプテンで、南ア大会でのスペインチームのキャプテンでもあったプジョルのようだ。
日本語の解説となるといまだに芳賀さんの30年前のLPのそれが一番詳しいようだ。以下にルイス・ヤッカに関する部分を全文引用する。
ルイス・ヤッカ
スペインの若手アーティストの中で、一番に聴いてみたい歌手である。彼の絶大な人気は、故郷のカタロニアは言うに及ばず、今やスペイン全土に鳴り響いている。彼は、カタロニア語で歌う。それは普通スペイン語と称するカスティージャ語と異なり、フランス語とも等距離にある言葉だ。そして永らく使用を禁止されてきた。フランコ死後も最近まで、その措置は続いていた。そのため若者は、20歳過ぎてから母国語を勉強する始末だ。ただ言葉は話す、何故なら親たちが家庭で使うから。でも文字は知らない、教科書が取り上げられていたから。この悲劇は、我が身に置き換えてみれば歴然とする。だからカタロニア語で歌うことは、体を張ることだった。数年後に同じカタロニアの歌手ライモンが来日し、その記者会見の席上、"何故解りやすいスペイン語で歌わないのか、カタロニアの悲惨な歴史を世界に訴えるつもりなら"という問いに、彼はきっぱりこう答えている。"だからこそカタロニア語で歌うのだ"と。このへんの事情は、戦前の日本も立場こそ逆だが体験したことである。
さて、ルイス・ヤッカ(ルイス・ジャックとも呼ぶ)は1950年生まれ、早くから才能を発揮し、17歳でファースト・アルバムを発表したり、"カタロニア語で歌うことこそが、スペインの国家権力からわれわれの文化を護る最良の運動だ"として16人の闘志という若者グループを結成したりしている。バルセロナの大学を出た後は、検閲、追放、禁止という数々のレッテルの貼られたコンサートを繰り返しながらも、やがてカスティージャ、アンダルシア、バスクでも並外れた影響力と人気を持つようになった。しかし遂に全面活動禁止令が下り、フランスに向かうことになってしまう。そのおかげで、ヤッカの名は国境を越え、73年パリ・オランピア劇場の大成功に続いて、ヨーロッパ各地での成功の報に本国政府も折れざるをえず、解禁処置に至った。やがてカタロニア語の解放。ルイス・ヤッカは、まるで凱旋将軍のごとく祖国に迎えられた。
ルイス・ヤッカ、彼は文字通り、傷みと反乱、正義と自由を叫んで、今やスペインの若者の象徴となっている。
芳賀詔八郎
木工にとっては5月は、良い季節でもあるがそれも昨日から東海地方は梅雨入りとのことで早々と終わる。その良い季節に10日間ほどかけて行った仕事がとんでもない勘違いをしていたことが判明。無理矢理修正するか、潔く廃棄してしまうか迷うが展示会への出展も兼ねての制作であるので捨てることにする。
もう10年近いつきあいになる建築士のK女史は、こちらの赤貧ぶりを察してか時折気の利いたものを送ってくれる。それもこちらのひがみ根性を刺激したりプライドを傷つけないようなタイミングと中身で、そのさりげない気遣いは今時の小娘どもの及ぶところではない。
昨日届いたのがこれ↓
ゲイシャ
という名の、2,800円⁄100g なりのコーヒー!私は知らなかったのですが、ネットにも情報があるので気になる人は調べて下さい。ふと入った食料品店で目にした物らしい。生豆の状態で販売されており、注文後焙煎してくれたとのこと。最近もっぱら紅茶と緑茶で、コーヒーを自分で煎れることもなかったのだが、かしこまって煎れてみた。その味の感想はまた後日。
少し前からこの日の山行は予定していた。体力的には少々弱り気味であったが、ちょうど色々煩わしいことも続いていたので良い機会と思い出かける。いつもの山に今回は沢筋をすこし下ってみようと思っていた。しかし途中の林道が先週はじめの雨のせいか小規模な鉄砲水にやられて崩れていた。4輪駆動車ならなんとか通れそうな感じで、強行突破も考えたがまだ時間も早かったので別の山に向かうことにする。地図を見て色々考えたが小浜(福井県)との境になる百里ヶ岳近辺が面白そう。
まだ未整備(ナビにも表示されない)の林道をおにゅう峠まで車を走らす。途中未舗装でかなりあれた路面の部分もあり、どうやらオフロードバイクの格好のツーリンツコースとなっているらしい。峠手前に登山道の入り口の標識を見つけたので、引き返してそこから山に入ることにする。
道中イワカガミの群生を見つける。花はいまが盛りのようだ(クリックで拡大、戻る
操作でもとに)。
ここから百里ヶ岳を経て木地山峠に行く道は部分的に杉の植林地が迫っているところもあるが、ブナの単相に近い林やミズナラ、カエデ、ミズメなど芦生の演習林に近い植生が残されておりよい山であった。詳しくは別に報告したい。
今日は、6月10日(金)からはじまる木の家具40人展2011の出展者打ち合わせで名古屋に行く。工房齋の齊田一幸さん達の尽力で始まったこの展示会も4回目となる。私も第1回の実行委員の一人だったのだが、その後個人的な事情もあって過去2回は出展さえしていなかった。出展者の名簿を見ると半数以上が知らない人。今日の会合の出席者を見ると若い人が多い。一人の方に年齢を尋ねると24だそうだ。
会合の場所が東別院だったので、地下鉄で一駅乗って久しぶりに上前津の大須商店街に行く。日曜日ということもあるがこの国のどこが不況なのかという喧噪ぶり。逃げ出したはずの中国人らしき風情と言葉の人たちも目立つ。その中でひたすら疎外感と疲労感のみを感じる。たしかに最近食欲や物欲、何によらず欲求自体が減退しているのはたしかだが、この中いても欲しい物も食べたいものもないのだ。人いきれに疲れて早々に地下鉄の大須の駅に向かう途中でまた中国人の団体。
今日は、津市のお客様から依頼の欅の床板に拭漆を施した物を納品。もともとウレタン塗装がされていたのを矧がしての拭漆であった。さすがにウレタンの表面強度、浸透力は強く塗装をはがすのに苦労した。最後は残るウレタンは吸い込み防止の下地塗装と割り切る。依頼を受けて一年余、早くに終わっていたのだが納品のタイミングを逸して今日になった。お手持ちの家具調こたつ風の座卓の天板としてそのままお使いになる。一部木端の部分の傷を補修したがたいへん木味のよい板だ。お詫びの意味もあって口頭の見積額の八掛けの納品伝表を持って行ったが、その口頭の見積もり金額を覚えて下さっていていつでも良いと言ったのは私だから
と満額を支払って頂く。最近仕事も見積もりもめっきり減っているので助かる。
納品の日(だけ)はエビスビールと決めている。あてはさっと作った鶏レバー甘辛煮。昨日返品交換で届いたばかりの読谷山焼の器に盛る。
3月にボランティアに入ったお宅の人からメールを頂く。偶然
このホームページを見つけてくれたとの事ですが、もちろん名刺を置いてきたわけでもなく名乗ってもいない。どこからと問われて、三重から来たというのはお答えしたような記憶がある。しかしこのページにはボランティアの報告記事はあるが、私の容姿など伺える物はイラスト以外ないし・・・と、良く見つけて下さったことだと思う。
当時私たちが浸水した家財道具や畳を運び出した周辺の道路の画像が添えられていた。当時はそうした家具や畳、家電製品であふれていたが2ヶ月たってきれいに片付けられているのに驚いた。ただし、メールには2カ月過ぎても、何をどうしていいのかわからない状態です。ですがここで生活していくしかないので、まぁ、なるようにしかならないかぁ。。と思って日々過ごしてます。。
メールを下さったSさんは、ボランティアに入ったご家庭の中ではずいぶんお若い女性でしたし、被災後10日あまりの早い段階でボランティアを依頼されるなど気丈な方とお見受けしました。それでも震災後の喪失感や絶望感というのはそこに暮らす人にしか分からない深いものがあるのだと思いました。早いものですでに現地に行ってから2ヶ月となります。当たり前の話ですが、そこで暮らす人の生活は続いています。早い段階でもう一度自分のできることを決めて現地に行きたいと思いました。
詳細図の作成で難渋していたスワンもどきの制作にようやく入る。今回はタイプ1のものにする。連休の間、蕎麦打ち修行の後ずっと聞いていて、おそらくはオリジナルの雰囲気を持っているのはホーンの形状や定数にほぼ準じたタイプ2の方だろうと思った。24畳の工房で大きな音で鳴らすと威力を発揮するのだが、10畳和室に持ち込むとボンボンした中低音、ざらついたボーカルなどアラが目立つ。バラック作りのガタガタのエンクロージャーのせいとも思うのだが、タイプ1ではそれも目立たず要するに好きな音なのだ。
構想やスケッチ、それに制作図面段階の組み手設計などではいつも優柔不断でとんでもなく時間がかかってしまう。その割にいつもごく普通のものになってしまうのだが。ただし実際の制作に入ると私は比較的手の早い方(雑?)だと思っている。今日も矧ぎも含めた材の木取りと面出しをほぼ終える。
朝、工房を出て時間をつぶさなくてはならない事情があったので、コメダコーヒーに寄っていつものモーニングカップを飲んでから市立図書館へ行く。小林秀雄全作品から何冊かを借りる。たとえ読まなくともその著作を買い求め揃えたい作者がいる。ブレヒト、ベンヤミン、サイード、中勘助、内田百閒、色々名前を挙げることが出来る。逆に読みたいけれどその著書を買いたくないという作家もいる。私にとっては小林秀雄はその代表である。高校の教科書に載った「無常という事」を読んだのがその最初だったと思う。ディレッタンティズムというのはこういう事か、なぜ物を書くのにいちいちこんな風にもったいをつけなくてはならないのか。またそのころはまだ存命であったが、その妙に挑発的かつ好戦的ともとれる発言が嫌いであった。学生の頃、実家にあった講談社文庫版の『古典と伝統について』を読んだ。文芸評論というのはこういうことかと感嘆した。とくに「実朝」でのその憤死をめぐる『吾妻鏡』の記述の読み解きは、大げさに言うと史学に対する文学の存在意義をはじめて意識できたように思った。当時京都に居たせいか、あれほど毛嫌いしていた「無常という事」も面白く読めた。冒頭引用の一言芳談抄
の文は、やはり美しいと思った。でもやはり、自分でお金を出して買いたくないのだ。
戻って人とそれにまつわる物が去り少し広くなった工房で、バラック作りのスワンもどき
2台をステレオに、シュタルケルのバッハ・無伴奏チェロ組曲を聴く。何度目のいつの録音かとかはもうどうでもいい。聴きながらそのスワンもどきの詳細図をつめようと思ったが、やはり集中できない。音楽に聴き入ることにする。
美しい手紙をたくさんもらった10代最後の頃、その中のまた美しい一節をその後も繰り返し繰り返し思い起こすことで私の趣味嗜好も形作られたように思う。今日はその元の文字を追いたくなって、捨てられずに残してあったその束から探し引く。もう35年の月日が流れ、書いてくれたご本人もおそらくは忘れてしまっていることとて公開しても許されるでしょう。もちろん名前は伏せる。ネットも携帯もなかった頃の、自分でも歴史の世界の事のように思えてきます。
わたし、モーツァルトがたいへん好きなのですが、悩みに重い胸をかかえている時は、モーツァルトはも−たくさんて気になってしまいます。そしてバッハを求めるのです。・・・手もとのあかりはつけないで、小さい音でバッハを流し、じっと聞き入っているとバッハの曲は傷から熱をとり、傷口を優しく慰撫してくれるような気がします。
連休も終わり蕎麦打ち修行も一段落して、きょうから仕事に専念したかったがそうもいかぬ。午前中は母親の病院。本人が行っても認知症のため問診に意味がないため施設からの介護記録と検尿のサンプルをもって私が行く。ついでに私も診てもらう。検尿の結果は良好。鮮血反応もないので膀胱癌再発の兆候もないが、やはりもうすぐ1年あくことになる膀胱鏡の検査は受けておくようにとの事。血液検査もやってもらう。別の検査室で採血してもらう。40代くらいの看護師にしてもらうが上手な人で針を刺す痛みがほとんどない。その旨伝えて、逆に憎たらしい患者にはわざと痛いように針を刺すことも出来るのかと尋ねると、そういう技があればやってみたいが・・・との事だった。もちろん冗談で、そんなことくらいは簡単だろうが強い職業的倫理教育と実践を重ねているこの人たちにはその意味でやれないのだと思う。
その場にあった体重計も使わせてもらう。看護師の人に着衣を控えめに800グラムと換算してもらって75キロ代になった。自宅でパンイチで計った結果を裏付ける。昨年秋の検査で体重が80キロを超えて焦ったがなんとか無理なく落とせた。
午後からは預かる形になっていた材料を運び出してもらうため引っ張り出す。色々あるが大まかに材種別に分け直してPPバンドで小分けに結束する。
10日間の蕎麦打ち修行終了。10日では、まともな蕎麦つまり最低限麺の厚みと幅のそろったものを打つのは無理だと分かったのが一番の収穫。薀蓄以前の問題。
10日目の蕎麦。包丁の使い方を気にしてかえって太さがばらつく。それも現実と考えてあえて掲載。
注文していた車椅子が届く。カーネーションのアレンジメントを買って一緒に施設に持って行く。
次回のボランティア活動のオプションの一つと考えている手打ち蕎麦とそばがきの炊きだし、その予行演習と試食をまどりのスタッフとその木工展参加者を相手に行う。打った蕎麦もそばがきも概ね好評。打った本人は忸怩たる思いがあったが、特にお世辞でもなさそうだし実際に食すると市販のそれとは別物の世界ではある。知人が目の前で打ったというバイアスももちろん強烈にかかっている。それに蕎麦工房・紗羅餐の社長が言っていた通り蕎麦は最後の釜で決まるというのを実感した。業務用の大きな鍋とコンロを借り、強い火力と大量のお湯でさっと茹で上げと駄蕎麦でもそこそこのものになる。逆に釜がだめだと、どんな良い蕎麦でも美味しくはならないそうだ。
朝散歩をする河原では、壊れたヘリコプターのようなホバリングをしながらヒバリが鳴く。そういえば中学生の頃にも田んぼの中の通学路でヒバリが鳴くのを聞いていたなあとふと思い出す。
今日の蕎麦。それでも太さが少しそろってきたかなあとも思う。
今日は、お店のほうが連休の中日で忙しいらしく出す蕎麦の量が不足していたらしい。普段は厨房にいる料理長と副料理長が午後から打ち場に来て蕎麦を打つ。料理長は他の人より玉自体が大きいのか、大きめに畳んだ蕎麦をこれも他人より大きな刃渡りの包丁でリズムに乗って切っていく。端の部分の無駄もきわめて少ない。その無駄のない所作の美しいこと!副料理長は対照的に力強い動作でカチッとした打ちをされる。同じ蕎麦でもそれぞれの個性に乗って打たれるのが面白い。それに体に覚え込ませた熟練した手作業のというのは見ていて美しいしそれで作られた物が悪かろうはずがないと思える。薀蓄ばかりで手の動かないアマチュアの蕎麦打ちとは世界が違う。
我々の仕事で言えばちゃんと刃物を研いで、仕上げは一度は鉋をかけてという当たり前のことをちゃんとする事だとあらためて思う。しかしその実態はどうか。アマチュアの人が見てほれぼれするようなものはあるだろうか。鉋かけなどカタログやウエブに載せる画像だけで、普段は刃物も研がず仕上げもサンダーでこすってオイルをペタペタ塗って終わり。組み立てもビスケットというダボの一種をガイドに強力な接着剤での実質イモ着け。抽斗はスライドレール、扉はスライド丁番という便利なものがあって、電動ドリルと木ねじで揉むだけ。手作り
と称しながら実際は機械がないと何も出来ない。その仕事の一つ一つはパートのおばちゃんでも1週間もあれば出来るような内容だ。一部のイメージ先行の業者を除いて木工という業種の社会的認知度とか評価が低いのは、その実態の反映なのだ。
8日までの連休連続10日間でお願いしている蕎麦打ち修行も今日で半分の5日間を経過した。各行程の意味が少しずつ理解出来るようになっただけ自分のダメさ加減が分かるようになる。あと5日でなんとかなるとも思えない。6日にはまどりのおばさまスタッフの皆様他に御相伴願わねばならないが、どういったダメだし励ましを頂くか不安で仕方がない。
自分で打った蕎麦を茹でて食してみる。とりあえずうどんではなく蕎麦の食感と味がしたので妙に安心してしまった。
蕎麦打ち修行も4日終了。初日から蕎麦切りまでの一通りの行程を繰り返し行う。レジュメとビデオと、職人や先輩の作業の見よう見まねで段取りだけようやく頭に入れたという感じだった。今日あたりからようやく水まわしとか、練り、各段階ののしという作業の意味を考えられるようになった。
太さ見事にバラバラな蕎麦切り・・・
昨日29日からいわゆるゴールデンウイークといわれる5月8日までの10日間、蕎麦工房・紗羅餐で蕎麦打ちの短期の修行を受けられることになった。素人用の蕎麦打ち道場
は別に用意されているのだが、今回は特別なはからいで実際の職人さんと職人を目指す人の中で修行させてもらっている。それはこちらの修行の目的を勘案してもらってのことで大変ありがたい。木工でもそうだが、素人向けの木工教室
に何年通ってもそれはそれだけの話なのだ。
伊賀市島ヶ原から、そこで活動するH君が来る。村おこしのための木工教室開設の準備だそうで、これからその活動に参加するTさんの紹介だ。必要となる木工機械やその使い方、基本となる手道具での加工方法などを説明する。まだ25歳になったばかりで高専卒の理系で、原理原則の説明の理解も早く体も柔軟で勘も良い。そのTさんもはじめてこちらに来て暫く仕事をしてもらった時は25歳だったなあと一緒に思い出話をする。やはりその適性と集中力、示されたものは何でもすぐに吸収する若さとエネルギーにその時は感心させられたものだ。時が流れてそのTさんは事情もあっていったんは直接の物作りから離れる。一方で、木工に飽きた
、とか達成感がなくなった
とも言う。また、先日震災ボランティアと共にした静岡のK君が、活動が終わって帰りの車中で最近、図面を書いていても面白くない
と言っていた。
何であれ、続けること自体が肝心とかよく言われる。それはそうなのだが、特に若い人で仕事自体になんらかの自己実現(アイデンティファイ)のようなものを求める場合は簡単ではない。私自身も3年前、個人的な事情もあって、いったん木工を離れることにした。信用とそれまでの多くの顧客をなくしたが、若い人の場合は、新しい事に自分の可能性を試すという意味ではそれも許されるかもしれない。我々中高年には選択肢は少ない。しかしあえてそれを求めないというのも当然あってもよいし、あるべきだ。
22日にバラックのスワンaにつけたFE108Σのエイジングが進み音がこなれてきた。評判通りの良い感じで鳴ってくれる。特にやはりボーカルが良い。本格的に作ってみることにする。
オリジナルの形状を分析してみた→長岡式・スワンaの分析
久々の京都。業界屈指の京都在住の美女他一人のお伴で隠れたスポットというか、普通の人が行かない、行けない場所にもご案内する。私にとって長らくタブー化して訪れることのなかった所も覗いてみる。過ぎた時間がある領域を超えたのか普通に懐かしむ心境となる。新名神を使うと四日市から京都の市街地まで1時間程度で行けることに驚く。高速代は別にして近くなった。以前は1号線から名神・栗東経由で下手をすると3時間ほどもかかった。それもあって出向く機会が増えるかもしれない。
震災以来、また不安定になっていた精神状態が少し落ち着く。
長岡鉄男さん設計の小型バックロードホーン・Dー101スワンの試作に入る。
先日石巻に赴いたとき、ハイエースに支援物資などを詰め込む棚板として利用したチップを固めたような合板(いわゆるコンパネは買い占められてなかった。)で、バラックで組む。スロート長さとか開口率など主要な仕様はオリジナルに準じる。しばらくモノラルで鳴らしこむ。
30代、40代の頃は誕生日を迎えても別に嬉しくもめでたくもないと時にうそぶいていたし実際そう思っていた。50代に入って少し変わった。親の世代の親戚なり知人がぼちぼちなくなり始めたし、同世代の友人や知人でも亡くなる人が出てきた。そうなると抹香臭い話になるが、また無事に50数回目の誕生日を迎えられた感慨めいたものをいだくようになった。
私の場合、7年前と5年前に癌と名のつく病気になって、その手術がいずれも3月下旬であった。退院して桜を見て、誕生日を迎える。それに加えて今年からは東日本の大震災への思いが加わる。
誕生日には、毎年不要不急でなおかつ普段の感覚では買えない程度の価格のものをあえて買う事にしている。ボーナスのない自営業者としては、そうした些細な散財をしないと何のために働いているのかとなってしまう。今年は、震災へのボランティア活動(東日本大震災ボランティアの記録と雑感)で、大きな出費をしてしまったので、それも無理だ。もっとも、ボランティアに行く前は、購入予定の金額・約6万円を寄付しようと思っていたので、どのみち散財は無理だったのだ。それでも何かひとつくらいは慰み物が欲しいと思って注文していた物がちょうど今日届いた。
最近はピリオド楽器によるベートーベンの交響曲(全集)というのも珍しくなくなったというか一つのジャンルにすらなっている。これもその新しいもののひとつ。amazon.co.ukで、送料込みで£22.74、\3.291であった。もちろんネット含めた国内のどこよりも安い。
6月の展示会に向けて久々にスピーカーエンクロージャーの制作を計画。ずっと以前から作ってみたかったFOSTEXのFE108Σを使ったバックロードホーンを考えている。常用の平面バッフルとは正反対のシステムとなる。こうしたものは、低音を見かけだけ増大させるインチキシステムとか言ってきたけど、実は気になっていた。もう50代も半ばを過ぎようとして、せめて趣味の世界くらい肩の力を抜いて思うことをやってみてもいいだろう。ユニットの仕様からホーン長や開口などを計算してラフを描いたりしている。
岡山の兄が、仕事の途中で施設に母親を見舞うと連絡がある。不在者投票に行ったついでに私も寄る。昨日、私が行ったことは既に忘れている。東北の復興費捻出のための国家公務員の給与の一律5%カットというは、どうも実施されるらしい。
工房のプレーナー屑を市内のいつもの牧場に、引き続き端材を薪ストーブの焚きつけとして菰野町の蕎麦処菊井に運ぶ。菊井では玄米ご飯とおひたし、麩とはんぺんの煮物を頂く。お土産にタラの芽をもらう。
菊井を後にしてパラミタミュージアムでルーシー・リー展を観る。釉薬や装飾に時代による変化はあっても、繊細で瀟洒な造形は一環している。とがった色彩と文様でも実用性を失っていないのもいいなあ。
その後、施設に母親を見舞う。ちょうど昼食時だったが私を見かけるとあら、○○ちゃん
と一目で私を見分ける。最近では珍しい。
なにを思ったか、ルイ=オーギュスト・ブランキの著述が読みたくなりネットの古書店で『革命論集』上・下(古典文庫 現代思潮社)を注文した。
あえて言うと、ボランティアの拠点とした石巻ボランティアセンターのある石巻専修大学の近くに総合運動公園があり、その広大な敷地が自衛隊や消防、自治体関係の駐屯基地となっていた。市街地に出るたびにその前を通らざるを得ないのだが、その物量に圧倒される。センターの我々を含む民間ボランティアの粗末なテントや装備、ばらばらの服装など顧みて、あらためてその存在意義というものを考えざるを得なかった。
正規軍に対する労働者の蜂起軍の対峙の仕方、その純粋に軍事的
な要綱というものにあたってもよいかと思ったのだ。まあ、そうした屁理屈はさておきブランキの堅忍不抜の強固な意志と高潔な人格が行間にあふれ出ているようで心地良い。そういえばこうした器量・人格とも将たるべき人の文章など最近読んだことがなかったな、学生の頃にこれを読んでいたら、もう少しうまくやれたかもれないとも思ってしまう。
母親が介護施設から現在貸与されている車椅子を、新規入居者用に返却して新たに購入して欲しいと言われる。扱い特にブレーキ操作などが今のものと似ているタイプを選んである業者に注文する。納期は5月下旬以降になるとの事。理由を聞くと被災地向けの出荷を優先しているのと、タイヤに使われている特殊なゴムのメーカーが被災してしまっているらしい。被災地では多くの医療施設や介護施設で避難の際、車椅子利用の高齢者や要介護者を負ぶって、あるいは車を利用したため、多くの残された車椅子が津波に流されてしまったらしい。また、高齢者の場合、住み慣れた自宅などの環境から不自由な避難所に移り、急激に足腰が弱りまた認知症を発症したりもするであろう。私の父親も、母親も入院したその日のうちにせん妄におそわれ認知障害を発した。
また、母親は現在は二ヶ月に一度泌尿器科に通院して診察を受けているが、これも震災の対策として薬は最長一ヶ月分しか処方出来ないと言う。それで、来月は本人は診察に出向く必要はないが、家族(私)が検尿のサンプルを持って診断と処方箋をもらわなくてはならない。いずれもささいな事だし、被災地優先という趣旨で納得出来ることだが、震災の影響というのはこうした事でも現れている。
工房の近く、いつも実家の犬を散歩に連れて行く海蔵川の堤防の桜がこの週末満開となりました。連日それぞれ一万人を超える死者・行方不明者の数が報道される中、それでもやはり桜は墨染めには咲きません。
例年のことですが、この時季には河川敷に車で乗り付け携帯のコンロなどで肉などを焼く無粋な連中であふれます。震災による自粛云々の話ではありません。もともとそうした安易なアウトドアごっこが大嫌いな上に、ほのかな香りも含めた五感で花を愛でるまた他人のそうした行為のせめて邪魔をしないという感性のなさにあきれるばかりです。それなら、落語の貧乏花見(長屋の花見)の方がはるかに情緒にあふれているように思います。
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
上野岑雄 古今和歌集
他力とは野中に立てし竹なれやよりさはらぬを他力とぞいふ
良寛歌集 911 東洋文庫
被災地に赴いて二日目の早朝視察に出かけた石巻市雄勝町の惨憺たる情景を思い起こすと、この良寛の歌が浮かんできます。 瓦礫の中の折れた垂木の残材か流れ着いた篠竹を拾い上げて、また瓦礫の中に刺して立てる。この現実の中で、自分の存在というのはその程度のものではないか。
阪神淡路大震災の時も、地震の2日後から被災地に入りました。西宮、芦屋、神戸、伊丹と歩いて回りました。その時に感じた衝撃や悲しみとはまた別の、文字通り言葉を失うような寒々しい絶望感に打ちのめされていました、この光景の中に身を置いて。阪神淡路の時は、確かにビルは傾き、木造の家屋は壊れ、鉄骨モルタルの家は倒れていました。火災の煙もまだくすぶっていました。でもそこにはかつて建っていたであろう家や、そこでの生活を具体的に連想できました。それゆえに悲しみも悔しさもより直接的で、不遜な言い方になりますがまだ私たちの日常の中で共有できるように思われました。
この光景からは、確かにかつてそこに存在したであろう町並みや家々やそこでの人の生活を思い起こすことが出来ませんでした。わずかに残った鉄筋コンクリートのビルや山際の民家、しかもその3階建てのようなビルの屋上に大きな船が乗っています。コンクリートのベタ基礎の跡からそこに何かが建っていただろうとは分かります。しかしその他は瓦礫や壊れた車やひっくり返った船など散乱する様が見晴るかす尽きるともなく続いているのです。なにかとてつもなく巨大な生き物がいて、海から入り江に沿ってこの山間にいたるまでその大きな舌でなめずり回していった、津波というのはそうした恐ろしい物なんだとこの時あらためて思いました。
さて、冒頭掲げた良寛の歌は、引用元の東洋文庫 556にはこの歌、法然の作なりとの説あり、しばらく掲ぐ
としたうえで、下記のように解説されています。
他力とは何ぞと訊かれて答えた口吻。他力とは例へば野中に立てた竹のようなもので、すべてのはからいを捨て去り、おのづからの仏心をあるがままにうちまかせた状態だというのであろうが、
よりさわらぬには一般他力の通念への犀利な批評が含まれてゐるかとも思ふ。
なにが言いたいのかさっぱり分かりません。野中に立てた竹
が、なんでおのづからの仏心をあるがままにうちまかせた状態
のたとえとなるのでしょう?どうやらこの歌には本歌があって、それは道元の他力とは野中に立てる一つ松寄り触らぬを他力とは言う
がそれのようです。別に本歌取りというのは、和歌の世界ではごく普通に行われている手法ですし、宗派の開祖である道元の歌を良寛が本歌取りしても怪しむに足りない。ただし、ここでは良寛は道元の歌をパロディにして、その正反対の事を歌っているようです。いやしくも自分の宗派の開祖の歌に対して良くやるなあと感心してしまいますが、そこが自らの信心以外には何にもとらわれない自由人にして真の宗教家たる良寛の面目躍如といったところでしょう。
道元の歌とされている歌の意は、もうそのもの明らかでしょう。他力、つまり仏や如来の本願力によって生きるということは野中の一本松のように揺るぎなく、何にも頼ることなく寄りかかることなく自立したものだ云々。それに対して良寛の歌は、なあに仏の本願力に生かされていると言ったって人間の存在なんて野中に突き刺した竹のようなつまらない弱々しいものさ(ちょっと風が吹けば倒れちまう・・)と言っているように思います。良寛の歌というのは、強烈なアイロニーと時に宗旨すら否定するかの自己否定を含みながら、逆に現実に生きる人の存在を優しく肯定するよな視線を感じます。この歌の場合も、開祖道元の歌を皮肉りながら別に野原に刺しただけの竹のような弱々しい頼りない存在でいいではないか語りかけてくれています。
実際にこの目で見て、その中に身を置いた被災地の現実に対して自分はどういう存在なのか、その事を自分の言葉で語れないのだと思います。テレビでは色々な歌手や俳優や、タレントと呼ばれる人たちが信じる!
とか頑張れ!
とか言っています。まあそれも仕事のうちでしょうが、実際に被災地の現実を見れば簡単にあんな事は言えないように思います。それなら、トラック数台とタンクローリーまで引き連れて炊き出しを行った杉良太郎さんや体を売るしか出来ないから
と自分でトラックを運転していわき市の老人ホームに物資を届けた江頭2;50さんの方が立派だと思います。振り返って自分は、ということになるのですが、それこそ被災地の瓦礫に刺された残材の垂木か流れ着いた笹竹のようなものに過ぎない。しかし、現地に刺さった、一度でもそこに身を置いた、とりあえずそれだけでいいんではないかという言い訳を、良寛和尚は与えてくれるように思います。
石巻から戻って、一週間以上が経った。借りた物を返したり、報告をまとめたりしてしばらくバタバタしたが、ようやく今週あたりから通常の業務を再開出来ました。エスペランサ木工隊としての報告は、リーダーの杉山さんが支援者への礼状としてまとめてくれたものがあります(礼状.pdf)。私なりの報告は、東北関東大震災ボランティア活動の報告と雑感として揚げてあります。順次加筆・更新していくつもりです。実質4日間の現地での支援活動に、準備と後始末を含めて前後2週間ほど時間を使った事になります。
戻ってから飲食関係の支援者からお話を聞くと、例年この時期賑わう歓送迎会などの宴会が軒並みキャンセルとなっているという事です。経済ということが、お金や物を動かす事の総称だとすれば、業務と買い占めではない通常の消費活動に早く戻りたいと思います。
宮城県石巻市で、実質丸4日の活動しか出来ませんでしたが、行って良かったし行くべきであったと強く感じています。小賢しい屁理屈でなく、自分の直感と感情に素直に従い行動することが時には必要だとあらためて思いました。それに気付かせてくれた静岡の杉山裕次郎さんと堀内圭さんとなにより現地の被災者や他のボランティアの方々に感謝いたします。
詳しい報告は、なるだけ早くまとめてあらためて掲載したいと思います。
2011年3月28日
今回の支援活動の提案者でリーダーである杉山裕次郎さんの尽力で現地での受け入れ先というか活動拠点も決まり、明日22日に被災地に向け出発出来ることになりました。
私が所属する木の仕事の会のメーリングリストに18日に資材調達などの支援のお願いをしました。意味不明の買い占み、様々な物資や資財の店頭在庫が横行する中、多くの人の尽力で最低限必要な物資・機材をそろえる事ができました。
2011年3月21日
来週早々に、東日本大震災の被災地に向かいます。
きっかけは、静岡の工房 悠の杉山裕次郎さんのブログでの呼びかけです。昨日その記事を読んで背中を押されるように、賛同と参加のメールを送り、 今日一日連絡を取りながら、買い出しや機材の調達などの段取りを進めた所、 なんとか被災地に行ける目処が立ちました。車はじめ物品・機材の貸し出しなど不躾で無理と思われるような申し出も快諾していただきました。 (レンタル業者からは、車や機材が借りられないような状況になっています。)現地のスタッフと連絡が取れること、衣食住、往復含め現地の移動に関しても自前で用意出来ること(水一滴、米一粒、ガソリン1ccたりとも現地のリソースに負担をかけない)以上、最低限の用意が出来たという事です。
今回は、一週間程度の滞在になると思います。参加者は、オッサン2人と杉山さんのお弟子さん(?)の若い人の3人。具体的には、木工房またにの若森さんからお借りした四駆のハイエースに積めるだけの支援物資の輸送。現地で滞留している支援物資のハイエースまたは徒歩でもデリバリー。あと私がチェーンソーとか移動式クレーンなどが使えるので瓦礫整理とかも需要があれば(チェーンソーと混合油も持って行きます)お手伝い出来るのでは考えています。
軽挙妄動のそしりは覚悟しております。 巷間、現在被災地はボランティアを受け入れる体制が出来ていない。勝手に押しかけても迷惑なだけだ。という事が言われています。 でもこれは、嘘だと思います。テレビでもラジオでも現地の被災者や自治体関係者はだれもそんなことは言ってません。逆に、皆一様に物が足りない人が足りないと言っているいます。ただ、何かやりたいとかどこに行けばよいかといった曖昧な申し出を相手にしている暇はないでしょう。三重県の災害ボランティアセンターのホームページには、そんな記述がたしかにあります。NHKのテレビのキャスターがたしか放送で一度そういう発言をしたようにも記憶してます。でもそれは、被災地に実際に足を運ばないしその気もない人の言です。行けば必ずやれることやるべき事があるでしょう。
2011年3月17日